「砂糖入りとか邪道だよね」「過激派……」

 世界五分前仮説、というものがある。

 その名の通り、この世界は、過去こういった歴史があった、という設定のもとで、つい五分前に作られたのかもしれないというものである。

 享奈からそれを聞いた時、私は、どうでもいいなと聞き流したものだったが、もし本当に、神様がつい五分前にこの世界を創造されたのであれば、神様は私のことが嫌いなのだと思う。

 窓際で美濃君と楽しそうに話している享奈を見て、私は頬杖をつきながら、そんなことを考えていた。

 憂きに堪えず涙を流した翌朝にも、授業は変わらずある。染め上げられた枕カバーは、誰に見せても仕方がないので部屋に置いてきた。

「やっほー、あらぴ」

 蘆屋である。蘆屋さん、と呼ぶと、可愛くないから楓と呼んでくれと返してくるが、私は「蘆屋さん」呼びを一度も崩したことがない。

 会話が全て二単語で構成されているような女だ。クラスの真ん中あたりで、他人の席を囲んでは、いつもワイワイしている。嫌いではないが、到底自分にはできない生き方だ。

「おはよう」とだけ返すと、蘆屋は金色に染めた髪を翻し、そのまま熱源の方に飛び込んでいった。

 目線は、どうしても窓際に向かってしまう。美濃君が、窓枠に腰掛けながら何かを語り、享奈の方は、それに熱心に相槌を打っていた。蘆屋たちがうるさいので、会話の内容までは、こちらには届かなかった。

 また、美濃君が破顔した。よっぽど、享奈と話すのが楽しいのだろう。享奈は生来、口数が少ない方で、そこがまた、高嶺の花感を演出している。それが、美濃君の前だと、頑張って会話を繋げようとしていた。やっぱり、彼が特別なのだ。

 未練たらたらだな、と私は自嘲した。ホームルームすら始まっていないのに、すでに、教室にいることがたまらなく苦痛だった。


 小説やアニメなどでは、よく、点数が一桁のテスト、というものが存在する。十点満点というわけではない。このキャラはバカだ、という描写だ。

「でもさ、バカ代表として言わせてもらうけどさ、あれってリアリティないよね。」

「そんなこと気にしないでしょ、普通。」

 昼休み。出汁巻きを飲み込んで、享奈は弁当を消化する片手間に返答した。彼との態度の差に、滂沱の涙を流しそうになったが、享奈が困惑するのが目に見えているので、ぐっと堪えた。涙を拭われたりでもしたら、気持ちが止まらなくなって彼女を監禁でもしかねない。

「享奈もさ、考えてもみなよ。学年不動のトップ様から直々に教えを乞うて、辛うじて平均を維持している私でも、過去の最低点は中一の数学で十九点だよ?」

「平均六十点だったやつね。次のテスト、二週間後だけど、大丈夫なの? あ、ちょ、」

 出汁巻きを、彼女の弁当からくすねて口に入れる。制止は無視だ。彼女の手作りであるそれは、焼き加減が絶妙で実に美味だった。甘党の享奈だが、卵焼きには頑なに砂糖を入れない。口の中で解けるような食感と、優しい白出汁の味がした。

「さすが享奈、今日も美味しいよ。」

「褒めればいいってもんじゃない。勝手に食うな。」

 サムズアップをしてやると、享奈は満更でもなさそうにその手をはたいた。世にツンデレヒロインの絶えない理由がよく分かる。

「まあまあ、この唐揚げ食べていいから。」

 私は、自分の弁当を差し出した。唐揚げ以外のものは、恥ずかしくてとてもあげられそうにない。

「冷食でしょうに……。」

 そう言いつつ、享奈はさっと唐揚げをさらっていった。さりげなく、一番小さいものを持っていくのが可愛い。

「美味しい? 私の自信作。」

「美味しいよ、嵐の自信作。」

 この皮肉っぽい笑みも、私だけに向けられるものであれば、どれほど幸せであったことだろう。また、どろりとした独占欲が溜まりはじめて、私は自分を止めようと慌てて口を開いた。

「そういえば、何の話してたんだっけ。」

「嵐が言い出したんでしょ……、テストの点数、一桁はおかしいって話。」

「あ、あー、そうだったね。」

「確かに、一桁って、よっぽどテストが難しいか、頭が悪くないと発生しないけど。そんな、細かいこと論ってたらモテないよ。」

 享奈以外に好意を持たれても、持て余すだけでいいことは一つもない。だが、享奈が結ばれればどうだろうか。私は享奈を忘れて、他の知らない誰かと付き合ったりできるのだろうか。

「大丈夫大丈夫。私の運命の人なら、きっとこんな私も受け入れてくれるから。」

「夢見すぎ。」

 結論はわかりきっていた。だから、私は冗談で誤魔化した。この苦しみに、運命などという名前がついている筈がない。

「いいじゃない。私はいつも、白馬の王子様を夢見る乙女なんですー」

 唇を尖らせて、そう嘯いてみると、享奈は「嘘はよくない」と笑った。よく分かっているじゃないか。夢が覚めてしまったのは自分のせいだと、自覚してくれればなおよかった。

「そういう享奈は、夢じゃなくて、具体的な人がいるもんね。」

「いい加減怒るよ。」

 享奈は目を細めた。まずい、本気だ。私は慌てて口を閉じた。

「……ところで、美濃君は?」

「まだ言うか。」

 享奈の手が猛禽類の形になった。噛みつかれたらたまらない。私は、急いで弁明した。

「いや、純粋な疑問だって。四時間目終わったら、いつの間にかいなくなってるし。」

「ああ、外で食べてるらしいよ。サッカー部の友人と一緒に。」

 本人に聞いたのだろうか。二人の恋路は、今のところ順調に進んでいそうだ。破局してしまえばいいのに、と思った私に、私はナイフを突き立てた。

 ついでに、からかってやろうと思った私は、享奈の視線に殺された。

「そうなんだ……。あっ、ちなみに、一緒に食べに行ったりとかはしないんで痛い痛い痛い」

「やめろって言ったよね?」

 瞬時に復活した悪戯心のせいで、私は享奈のアイアンクローを食らう羽目にあった。実際のところ、そこまで痛くはない。享奈は握力が弱いのだ。ただ、可愛すぎて心が痛かった。

 

 五、六限は、その大半を睡眠に費やした。勤勉ではないが、健全な高校生だと思う。そもそも、食後という最も怠い時間帯に、暗い部屋でクラシックを聞いたり、初老男性の読経を受け流したりという、エネルギー消費の大きな事をやらせるのが間違いなのだ。

 享奈の賛同はついに得られなかったが、私は声を大にしてそう言いたい。

 帰りのSHRでは、奨学金の話や、テストの準備の話などが担任の口から飛び出た。関心のない大多数のクラスメイトは、窓の外を物憂げに眺めてみたり、机に突っ伏して睡眠を補充してみたり、慎みなく私語をしてみたりしていた。

 態度が悪すぎやしないか。日頃の自分の授業態度を棚に上げて、私は胸中でクラスメイトをこき下ろした。

「嵐、ちょっといい?」

 享奈、お前もか。一応慎みがあったのか、享奈は小声で話しかけてきた。

「何?」

「今日、一緒に帰れなくてもいい?」

 享奈の申し訳なさそうな声で、私は大体全てを察した。

「分かった、好きなだけイチャイチャしてきなさい。」

 流石に、担任が話している最中に大声を出すのは憚られたのか、享奈は反論しなかった。

 担任が教室を出ていくと、果たして美濃君が現れた。制服の白さが、他の男子生徒から頭一つ抜けて輝いているように見えた。

「享奈さん、お疲れ様。」

 主人が帰ってきた小型犬のようにはしゃぐ彼は、私のことなど見えてもいないように享奈へ駆け寄った。

「お疲れ。サッカー部は大丈夫なの?」

「今日は休みなんだよ。運がよかった。」

 歓談する美男美女のオーラに、約三十六の瞳が集中した。後ろの席の私まで、怖気がしてしまう。

 だが、二人にとっては、そんなことは些事なようだ。完全に、二人だけの世界に入っている。

「じゃ、一緒に帰ろ。」

 美濃君の笑みから光が弾けた、ように見えた。その光量に押されたのか、享奈は気恥ずかしそうに、困ったように、私の方を見た。

「享奈は私のだから」などと言い残し、彼女を拐っていけるものなら、どれほどよかったことか。

「いいじゃんいいじゃん、私は……秋野さんと帰るから。享奈は楽しんできて。じゃ、また明日ね。」

 それでも、どうしても、享奈は私のものなどではなかった。

 二人が教室を去ると、ざわめきが波のように伝播して、あっという間に教室を埋め尽くした。口の端に上るのは、もちろん、鎌苅享奈と美濃暁の関係についてだ。

 真偽を確かめるべく、一度も話したことのない私に向かって、身勝手なことを臆面もなく訊ねてくる者もいたが、全て、知らない、で通した。現に知らないのだ。一緒になって、噂に尾鰭をつけまくるわけにもいかない。あるいは私は、彼らの関係は噂通りのものではないと、どこかで信じたかったのかもしれない。

「山風さん。何故、あそこで私の名前を使ったのですか?」

 先程、名前を使わせて貰った、秋野志津玖が私の袖を引いた。堅苦しい敬語だが、怒っているというわけではない。彼女は、いついかなる場合も敬語を崩さないのだ。

 別に、それに大した理由はない。隣席だから、他の者より会話があった、というだけのことだ。そう言うと、秋野は納得したように頷いた。

「ひとえに、私の交友関係が狭いせいだから、ごめんね。咄嗟に名前を使わせて貰ったけど、嫌だろうから今日は一人で帰るよ。」

「いえ、それはいけません。最近は、よからぬ輩が増えておりますので。一人よりも、二人でいる時間が多い方が、身の安全も保てます。」

 勝手な行いを陳謝し、出まかせであることを明かすと、秋野はそれでも二人で帰ることを提案した。本心から言ってくれていることが分かり、私は困惑した。

「それに、貴女のこと、少し興味があります。」

 なるほど、珍獣扱いであったか。


 最寄駅を聞くと、意外にも、私や享奈の駅と近かった。同じ路線で、私たちの最寄りから二駅進んだところだ。

「あの、一つ、聞きたいことがあります。」

 暫く、他愛もないことを話していると、電車が滑り込んできた。その瞬間、秋野の纏う空気が変わった、ような気がした。

「何?」

「鎌苅さんを、美濃さんに任せたのは何故ですか? 二人の関係を、探ってみよう、とかは?」

 思ったよりもグイグイ来るな、と思った。私の中の秋野像と比較すると、この対応には違和感があった。ろくに会話もしていないのだから、解像度が低いのは当たり前か。

「……私がついて行ったら、お邪魔虫になっちゃうでしょ。それに享奈、この件に関しては、何も話してくれないし。自分から話してくれるまで、無理矢理聞き出そうとはしないよ。」

 からかいはするけどね、と言うと、秋野は「いい友情ですね。」と言ってくれた。

 私は嘘をついた。本当は、怖いのだ。享奈と美濃君が仲良くしているのを、自分の目で直視するのが。

 私は、なんと悍ましい人間なのだろう。何故、享奈の幸せを願えず、かえって妨げたいと願ってしまうのだろう。

 押し黙ってしまった私に、秋野が声をかけなかったのが、唯一の救いだった。

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