むべ山風をあらしといふらむ

相良平一

「運命は?」「交響曲第五番」

 恋とは落ちるもので、愛とは育むものらしい。だが、甘酸っぱい色恋沙汰には縁遠い私にとって、そんな言葉なぞは鷹と鷲の区別以上にどうでもいい。

「じゃあさ、それで言うと、友情ってどうなるんだろう?」

「知らん」

 鎌苅享奈は、そう言って何やら難しそうな本のページをめくった。

 享奈と私は、三年前からの、まぁ、腐れ縁のようなものだ。凛とした顔立ちに加え、口調が冷たく成績も優秀、周りの人間は大抵、クールなデキる女を錯視する。

 だがその実態は、根は優しいものの、天然な上に謎の行動力がある、残念で傍迷惑な人物。私は常々、周りの男子に対して憐憫の情を抱きながら、さりとて彼女を嫌って突き放すことも出来ないでいる。

 全く私は、彼女に月を幻視してその周りをふらふらと飛ぶ、一匹の蛾だった。

「えー、何でそんなにつっけんどんなのさ。一緒に考えようよ。」

「嵐が今考えるべきは、友情の定義じゃなくて三平方の証明でしょ。」

 真面目にやれ、と享奈は手に持っていた本、即ち数学の教科書を突きつけた。ぐうの音も出なかったので、私は「うへぇ」と不満を吐き出しながら、渋々、ノートに視線を戻した。

 ノートの綺麗さと頭の中の整頓され具合は比例するというが、確かにその通りだと思う。解答欄は真っ白、頭の中も真っ白である。

「あぁあ、勉強なんてしないで、一生ゴロゴロして生きていきたいなぁ。享奈ぁ、養ってー」

 あまりにも何も分からないので、私は辛い現実に白旗を揚げて、ごろんと横になった。

「無理、嵐の書いた詞がないと稼げないから。」

 これからもよろしく、と肩を叩かれ、私は顔を顰めた。

 二年前の事だ。

 私はその頃、山風嵐という安直な名を、詩家として死後百年に遺すことを夢見ていた。実績はおろか、他人に公開することさえしなかったが、創り上げた作品は優に百を超えていた。

 それをどこで嗅ぎつけたのか。彼女はその黒歴史の内一編を、勝手に曲にして突きつけてきたのだ。

 それを大音量で聴かせながら、ネットの海に流してもいいかと、宥め賺し脅迫し、あの手この手で頼み込んでくる彼女に、うっかり頷いてしまったのが良くなかった。あるいは、羞恥に震えて思考を投げ出さず、しっかりとその曲を聞いていればよかった。

 彼女の、無駄に冴えた音楽センスのせいで、私はある時、ろくに離さないクラスメイトが、「これめっちゃ良くね」と無邪気に、私の書いた詩を拡散している場面に出会してしまったのである。

 私は即座に過去を呪い、この時ばかりは享奈に怒りも覚えたが、結局は彼女の口座からやってくる報酬の額に屈し、歌詞を提供するようになった。霞は女子高生の楽しみに寄与しないのだ。世の中金である。

 今日も彼女は、私の作詞の進捗を確かめにきた、はずだ。

 しかし、彼女は最早、私の専属家庭教師と言ってもいいかもしれない。私が唸っていると、心優しい享奈様は、いつも答えを教えてくれるのだ。

「すっご、やっぱ天才は違うねぇ」

 スラスラと解答を紡ぎ出した享奈に、私はいつものように感嘆した。

「このくらい、授業聞いてりゃ誰でもわかんの。」

 享奈は憎たらしい笑みを浮かべた。先程つけた「様」に、二重線を引きたくなった。

「いやいや、そう簡単に言われても。享奈は、成績優秀容姿端麗、ピアノの腕もプロ顔負けな女神様。神様は人の心が分からんのですよ。」

「……もう教えたげない」

 享奈の向けた背に、私は「すみませんでした見捨てないでぇ」と縋った。女神様という、本人も密かに気に入っているはずの渾名は、少なくとも私にとってぴったりの呼称だった。

 とっておきのアイスを捧げ、私は何とか事なきを得た。

「はい、この話おしまい。じゃ、インタビューね。白髪Pさんにとって、ズバリ、友情とは?」

 見えないマイクを突き付けると、私が適当に考えた名前で呼ばれて、享奈は苦笑した。

「何で私なの……」

「だってこんな会話、享奈としかしないし」

「嵐、友達いないもんね」

 ぐさりと刺さった。でも、クラスの美男子ランキングも、知らないアニソンも、ボールを投げる時の発泡スチロールみたいな掛け声も、正直、享奈のもの以外は求めていない。だからいいのだ。決して負け惜しみではない。

「それは言わない約束でしょ。早く答えて。」

 享奈は、艶やかな唇を上に尖らせて考え込んだ。

「嵐みたいにうまいこと言えないけど、うん……普通に、感じるもの、じゃない?」

 十分、うまいこと言ってる気がする。どれだけ私への期待値が高いんだ。

「ほうほう。して、その心は?」

「重くないでしょ、友情ってのは、恋愛より。」

 享奈は、さらり、と答える。先程の仕返しに、実感が籠っていますなぁ、と揶揄うと、享奈はあわあわと否定した。

「そうじゃなくて。例えば、ほら、蘆屋さんって彼氏いるらしいじゃん。」

 仰々しい名前に似合わぬ、軽佻浮薄なクラスメイトの顔を思い浮かべる。

「らしいね。」

「でもさ、それで羨ましくなる事はあっても、彼氏に殺意を抱く事はないでしょ。そういう事。」

「つまり享奈は、私は共有できるけど、愛しの美濃君は共有できないってこと?」

 私が、もし男だったら通報されていたような顔で、享奈を揶揄うと、彼女は「そんなんじゃない」と眉を顰めた。そろそろ怒るよ、と言われて、私は降参して口を噤んだ。

 そうでもしないと、享奈の前で泣き出しそうだったからだ。

 クラスの美男子ランキングに、一切興味がなくなったのはいつからか。享奈がカラオケに連れて行くのは、私だけがいいと希いはじめたのはいつからか。色気の「い」の字もない掛け声に、胸をときめかせてしまうようになったのはいつからか。

 小学生の頃に虐められ、心を閉ざしていた私に拘ったのは、私の詩を褒めて、素敵な歌にしてくれたのは、私の月は彼女だけだった。

「そろそろ遅いね。歌詞は週末に渡すから、享奈はそろそろ帰ったら?」

 最近、享奈は美濃君と仲がいい。件の、美少年ランキング、堂々の第一位だ。性格も品行方正、心優しい、穏やかな正義漢だ。きっと、二人は幸せになれるだろう。

 私の感情は共有不可能で、だからこのままでは、享奈を傷つけてしまうだろう。

 他人の恋を萎れさせる風など、吹かない方がいい。私は、この心の傷を捨ててしまうことを決めた。

 彼女に投げかける軽口は、そんな二人を、私の決意を邪魔する、私の醜悪な嫉妬心を祓うための桃の実だった。

 何か冷たくない? と言いながら、また明日、と私の家を去る彼女に、私は、じゃあねと言えなかった。

 私の恋心が落ちたのは冷たい水の中で、愛と呼ばれるまで育てられる土壌はそこになかった。ならば、桃の味がするこの恋の実は、私の中に呑み込んでしまおう。いつか、毒で死んだ私の身を糧に、花を咲かせるかもしれないから。

 その日、私は初めて、涙で枕を濡らした。

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