風のない日【鎌苅享奈】

 その日は朝から、嵐の様子がおかしかった。

 何を言っても生返事しかしないし、授業ではいつもより発言が多かった。国語の授業以外は、机に突っ伏して寝ているか、背凭れに凭れて寝ているか、壁に寄りかかって寝ているかの、あの嵐が、である。

 休み時間の度に話しかけてくる、鬱陶しい美濃を適当にあしらいつつ、私は嵐から目が離せなかった。

「掃除しよー」

「ちゃっちゃと終わらせよーぜー。あ、山風さん雑巾お願い。」

「うん……」

 雑巾を手渡される嵐。その声にも、いつもの能天気な響きがないように感じた。

 というか、一人でやるつもりか。

「私もやる。雑巾貸して。」

「あ、享奈……。ありがと。」

 彼女の手から、雑巾をひったくる。これが、今日初めての、嵐のまともな会話だった。

 四分ほどで、雑巾がけは終わった。小姑が見たら失神する出来だったが、担任は、そこらへんが大雑把だった。

「雑巾がけ、終わったよ。」

 享奈が立ち上がり、腰を反らせた。

「分かった。バケツ持つよ。行こう?」

 もしかしたら、嵐は疲れているのかもしれない。そんな嵐に、重たいものは持たせられない。

 把手を持つと、ずっしりとした重みを両肩に感じた。絡ませている、十本の指が痛い。プルプルと持ち上げると、中の水が溢れそうになった。

 嵐は心配そうな目をした。私の体の弱さは、嵐が一番良く知っているのだから、当然である。だが、やはりこれは嵐には持たせられなかった。

 流しまでのちょっとの距離が、シルクロードよりも長く感じられた。バケツを床に置くと、親指以外の八本の指が、ひどく痛みを訴えていた。両手を振って血を巡らせた後、持ち上げて中の水を流した。何度か雑巾を洗ったせいで、薄汚れた水が、想定の二倍ぐらいの勢いで迸った。

「……あっ」

 雑巾を洗う手を止め、嵐が口を開いた。

 何か、重大な事に気がついたのかもしれない。例えば、作詞ノートを置き忘れた、とか。

「何?」

 一ミリほど不安になって、私は思わず嵐の方を見た。

「いや、バケツを持ち上げる享奈の格好、どこかで見たことあるなー、と思ってたんだけど。分かった、フェルメールだ。」

「牛乳を注ぐ女、って?」

 なんだそれは。思わず、しょうもな、と呟いてしまった。

「フェルメールで、思い出したんだけど。」

 私の軽く洗ったバケツの中に、絞られた雑巾が放り込まれる。どしゃり、と音がして、手の中の重みが増した。

「何を思い出すの、フェルメールで……」

 私たちの選択科目は、音楽だったはずだが。何を言い出すのかは分からないが、どうせしょうもない事に決まっている。

「ああいう絵って、見て確かに凄いんだけど、ぶっちゃけ、何がどう凄いのかとか、ちっとも分かんないよね。」

 やっぱり、しょうもなかった。

「はい解散」

「ええーっ⁉︎  ちょっとは反応くれてもよくない?」

 歩き出した私の背に、嵐の言葉がしがみついた。

「反応しようがないでしょ、それ。『うん、そうだね』って言えばいいの?」

 あまりの子供っぽさに、私は呆れ声で歩みを止めた。片手に引っ掛けていた空のバケツが、慣性で振り回された。

「そりゃ、そうだけどさ……。でも、流すのはひどくない?」

「無視しなかったのを、温情と思いなさい。」

 まったく、こんな、どうでもいいような話ばかり振らないで欲しい。私だって、嵐と話すのは楽しいのだ。反応できる話題でさえあれば、諸手を挙げて喜べるのに。

「や、でも享奈だって、ゴッホのマイナーな絵とその辺の美大生の絵が、並べて置いてあったら、どっちがどっちか分からないでしょ?」

 私が怒ると、嵐はそれでも、未練がましく会話を延命させようとしてきた。

「まあ、そりゃあ、私の専門は音楽だし……。造詣が深くないんだから、仕方ないでしょ。」

 なんだか、拗ねたような不機嫌な声が出てしまった。

「ほら、クラスのみんなを待たせてるんだから、無駄話しないでさっさと戻ろ? 嵐って、時たま自分勝手だよね。」

 気まずさを隠すように、私は嵐の手を引いて教室に戻った。嵐の、不満気に引きずられる様子が、少し面白かった。

 

 担任の教師が教室を後にすると、他の掃除委員と入れ替わりに、だらしなく破顔した男が飛び込んできた。

「享奈さん、掃除お疲れ様!」

 何故、この男がいるのだろうか。心が、際限なく冷え込んでいくのを感じた。

「暁くん、サッカー部はどうしたの?」

「まだ始まってないよ、練習。だから抜けてきたんだ。」

 そう言って、彼はユニフォームの裾をつまんだ。

「どうしてそんな……、部活あるのに、私の掃除を待ってるとか、何考えてんの。」

 言外に、もう二度と来るな、と匂わせて、私は腰に手を当てて声を荒らげた。

「ごめん……。今日、あんまり享奈さんと話せてないな、って思って。」

 大男の大きさが三分の一ぐらいになった。多分、この男は、本気でそう思って来ていたのだ。

「暁くん……」

 そこまで、素直に萎縮されると、非常にやりづらい。時々、彼はそうした純粋な面を見せてきて、その度に私は謂れのない罪悪感に駆られた。いっそ、骨の髄まで悪人であった方が、拳の振り上げる先が分かりやすくて良かったのに。

「山風さんも、お疲れ様。なんかごめんね。無視してたつもりじゃないんだけど。」

 急に挨拶され、嵐は目をパチクリとさせた。

「そうだ。享奈さん、期末に向けて、勉強教えて、って話、どうなった? 俺、理数系苦手なんだよなあ。」

 そんな話もあったな。すると、あれは冗談ではなかったのか。

 まあ、人に教える事は好きなので、私としても吝かではない。断る要素は、特に存在しなかった。

「ああ、そういう話だったか。私はいつも、期末前は嵐と勉強してるんだけど、それでもいいなら。」

 ただ、予防線は張らせてもらう。美濃は室内犬のような男ではあるが、男は豹変するものだ。それは、既に知っていた。

「享奈、私も、カップルの間には入れないって。二人で、勉強会やりな。」

 そうだった。嵐は、何故かは知らないが、私たちが付き合っていると誤解しているのだった。部分的には間違いではないのが、余計にややこしい。

「いや、いいんだよ山風さん。」

 身の程を弁えているじゃないか、脅迫犯。少しは優しくしてあげよう、と思った。

「山風さんだって、成績やばいんでしょ? 享奈さんから聞いてる。」

 嵐がこちらを睨んできた。美濃、前言撤回だ。お前にデレは与えない。

「まあ、美濃くんがいいなら……」

 私を睨みながら、嵐は渋々と受け入れてくれた。

「よし。じゃ、この三人で勉強会、ってことで。嵐はいつでもいいだろうし、それじゃ暁くん、いつ空いてる?」

 安心して、つい声が弾んでしまった。

「部活は、一週間前からなくなるから、その間なら。」

 美濃も、尻尾を激しく振るように答えた。勉強会を、これほどまでに楽しみにできる人種がいるとは。想定外だった。

「分かった。来週の今日、『グールド』に集合。いい?」

「享奈さん、『グールド』って?」

 そうか。美濃は『グールド』を知らないのか。嵐と待ち合わせする感覚で、つい話してしまっていた。

「行きつけの喫茶店。」

「分かった。場所、教えてね。」

「地図のリンクを送っとく。」

 場所というのは、得てして、口で説明するのは難しいものだ。

「あ、そろそろ、練習始まっちゃう。享奈さんじゃあね、また明日。勉強会、楽しみだね。」

 時計を見て、美濃は慌てて立ち上がった。明日やるわけでもないのに、その声はひどく弾んでいた。

「うん、また明日。嵐、帰ろう。」

 私も、楽し気に答えた。ひとえに、ようやく美濃から解放されるからだが。


 学校から出ると、途端にまた、嵐が不安そうに話しかけて来た。

「やっぱり、大丈夫なの? 享奈と美濃くんの勉強会に同席しちゃって。」

 まだ気にしているのか。

「気にしなくていいよ。私、別に付き合ってる訳じゃないんだから。」

「それは嘘でしょ……」と言いながら、それでも嵐は、少し安心したような表情を見せた。まさか、私が嵐との付き合いをやめるのでは、と心配しているのか。

 同性の私から見ても、嵐は可愛らしい容姿をしている。それに加えて、立ち居振る舞いも、どこかおどおどと、小動物然としている。本人こそ知らないが、実は隠れファンクラブまで発足しているのだ。恋愛的な意味ではなく、「見守り隊」といった側面が強いのは、本人が聞いたらショックだろうが。

 それでも、彼らは嵐の本質を理解していない。彼女の根底にあるのは、決して砕けない強さだ。嵐らしく言うならば、鈴蘭のような毒々しいまでの輝きだ。

 やはり本人は知らないだろうが、一度、私はそれに救われた。だから、この先私が誰と付き合おうと、私が嵐から離れるはずがないのだ。

「心配しないでよ。私たち、親友でしょ?」

 恥ずかしいので、少し誤魔化してそう言うと、嵐は何だか複雑な表情をした。

 やはり美濃は罪深い男だ。私は、そう確信した。

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