5
【side: 満月】
京都が最も輝く季節になった。そう言うと皆めいめいの季節を出してくるけれど、私はそれを秋と呼んでいる。大学の裏にある山が紅葉して、その色彩が美しい。去年は朔と紅葉狩りに出かけていたけれど、今年はそうもいかなかった。
「なんで締め切りなんてものがあるんだろうね?」
メイは苛立たしげに言った。こいつ、いっつも何かしらに苛ついてるなと思う。
「締め切りがなければ、世の中にある芸術作品の数は十分の一くらいになるからじゃないかな」
「嫌味?」
「嫌味。あと、自虐でもある」
私がそう言うと、メイはにやりと笑った。実際私だって、締め切りを二週間前に控えて最後の追い込みをかけている。
「最近はどうなの、名古屋の彼氏くんとはさ」
「今それ聞く?」
「いいじゃん。ずっと作業しっぱなしで疲れてきたしさ。ちょっと力抜こうぜ」
まあいいけど、とだけ返して、私はカンバスに色をつける。手を止めるほどの余裕はないけれど、小一時間ペースを落とすくらいの余裕はある。
「最近はあんまり電話もできてないかも。直近の電話がいつだったか、ちょっと思い出せない」
「え。ずっとほったらかし?」
「言い方悪いな。でも、実際電話できるとしても夜遅くになっちゃうし。彼に迷惑はかけたくない」
「大好きな彼女ちゃんとの電話なんて、迷惑じゃないでしょ」
「それを決めるのは、私じゃない」
するすると言葉が漏れる。何というか、言葉を適宜せき止める心の弁が上手く働いていないような。絵を描いているときは、その分だけ心が現実から離れていく。喩うならば、お酒に酔っているときのような感覚に陥る。
「なんかさ、満月ってずっと彼に遠慮してるよね」
「遠慮? 誰だって、好きな人のことは大事にしたいでしょ」
「そうだけどさ。でもあんたは彼女なんだから、ちょっとくらいわがままを言ってもいいんじゃないかと、私は思う」
わがまま、私は口先でそう反復する。その言葉は何だか違和感をもって響いた。
「やっぱり、わがままは言いたくないな」
「どうして?」
筆を持つ手が止まる。その理由を、上手く言葉で表すのは難しい。彼への感情は、私の過去に深く結びついている。たぶんそれを語らずして、私は私を語ることができない。
「あるいは、それは一目惚れだったのかもしれない。でも、それを一目惚れとしてしまうと、色々厄介なことになる」
メイも筆を止めて、私の方を向いた。
「私が彼をはじめて認識したのは、たぶん中三のころだと思う。それまでは名前も知らない同級生だった。私、その頃吹奏楽部に入ってたんだよ。特に音楽が好きだったわけでもないんだけどさ。友達に流されるまま漠然と続けてた。それで、いつだったかな。ある日の部活中にたまたま美術室の前を通って、そこで見つけたんだよ。絵を描いている朔を」
彼は夕暮れが満ちた美術室にひとりでいた。その真ん中で、ひたすらにカンバスへと向き合っていた。止まることなく筆を動かす、そこに迷いはなくて。何か一本の道をひたすらに走っているかのように見えた。彼はきっと、自分をちゃんと持っているのだろう。自分が行くべき道をしっかり見据えているのだろう。彼の姿はそんな印象を与えた。だからだろうか。自分を持たない私にとって、彼は、彼の夕陽は、私の網膜に焼き付いて離れなかった。彼の色はあまりにも鮮明だった。
「私は彼から目を逸らせなかった。あらゆる意味で。それからは、毎日こっそり美術室を覗いてみたり、そこに飾られている彼の絵を眺めてみたり。彼の背中をただ見つめていたけれど、夏休みが明けるとぱったり、彼は絵を描くのを辞めてしまった」
メイは怪訝そうに目を細めた。
「なんで?」
「わからない」
「聞かないの?」
「聞けるわけないでしょ、そんなの」
絵を描く彼は、彼が描く絵は、端的に私の光だった。あまりに強い光だった。そんな光が急に消えてしまった理由なんて、怖くて聞けるわけがない。彼の繊細な部分に土足で踏み込んでしまいそうで。私の不躾な好奇心が、彼の心に傷をつける様を見たくはなかった。
私が意味するところが伝わったのか、メイもこれ以上は口を開かなかった。
「聞けなかったけど、私は知りたかった。それなりに強い感情で。そうするには、私も同じ立場に立ってみるしかないと思って、私も絵を始めたんだよ。幸い彼と私はほとんど同じ学力帯にいたから、同じ高校を志望できたし入れた。そこで美術部に入って、本格的に絵を描き始めた」
へえ、とメイは零した。完全に手を止めて、身体をこちらに向き直していた。こいつ、自分の制作はいいのか。
「私にとっての大事件は、入学した年の文化祭に起こった。文化祭では各々が制作した絵を展示することになっていて、もちろん私も展示した。夕暮れの美術室を描いた風景画。なんとか完成はさせたけれど、もう今から見れば酷い出来だよ。構図も色の使い方もめちゃくちゃ。そんな未完成にもほどがある絵を、朔が見に来たの。もうびっくりなんて言葉じゃ足りなかった。私にとっては、神さまが現世に降りてきたみたいだった。それで私の絵を一分くらいじっと見つめたあと、周囲を見わたして、私の元にやってきた。『あなたがこれの作者ですか?』って。どぎまぎしながらなんとか頷くと、『とてもいい絵ですね』って言ってくれて。そこから、彼との接点が生まれた」
それから、たびたび彼と話すようになった。最初は廊下で会うたびに軽く手を振るだけだったけれど、終いには絵のアドバイスまでしてくれるようになった。私が何か描くたびに、彼は純粋な言葉で褒めてくれた。どれだけ拙い部分も、そこから必ず良い点を見つけ出してくれた。『僕より君の方が上手い』と、少し寂しげに笑うこともあった。
「私は、彼にもっと認めてほしくて、ずっと絵を描き続けてきた」
私はそれで口を噤んだ。これが、彼への感情の全部だ。ちらりとメイの方を見やると、彼女は釈然としていなさそうな表情をしていた。
「つまりさ、それは恋なの?」
え。思わず変な声が漏れる。予想外の角度からの言葉に、返す言葉が出てこなかった。
「あるいは愛と言い換えてもいい。結局は変わらないよ。その感情は、本当に恋とか愛とか呼べるものなのかな? もっと適切な名前を持っている感情なのかもしれない」
「適切な、名前って?」
「あこがれ」
あこがれ。その言葉は心にすっと入り込んでいくようだった。ティッシュが水を吸うように、一気にその言葉が思考を支配した。
「満月は絵を描く彼に憧れたのでしょう? だから、絵を始めて、それで彼と仲良くなって。でもそれは全部、いつかに見た彼の姿に近づくためでしょう? だからこそ彼は満月にとっての神さまで、あるいは偶像で、神聖な彼の内部に踏み込むことができないんでしょう?」
もちろん、それが悪いってわけではないけどね。そう言ってメイは席を立った。煙草の箱を手に取って、制作室を後にする。
それは恐ろしい指摘だった。でも、同時にとても説得力のある指摘だった。ねえ、もしもそれが正しいのならば、あの後ろめたさの正体は。
【side: 朔】
紅葉ももはや散りかけていた。もうすぐ冬が始まる。冬はどちらかといえば嫌いだし、その到来を告げる秋も同じように嫌いだ。散りゆく花や枯葉に、別離を否が応にでも感じてしまう。
「先輩。呑んでますか?」
居酒屋の座敷の隣に座った篠原さんは、頬を紅葉の色に染めていた。まだ開始一時間も経っていないのに。だいぶ弱いな。
「ぼちぼち呑んでるよ。ほら、篠原さんはお冷や飲んで」
名前で呼んでくださいよ、とぼやきながら、彼女は水の入ったグラスを呷る。座敷にはバイトの六人が全員集まっていた。お互いの交流があまりないからと、誰かが呼びかけてくれたらしい。ありがたいことだ。実際にあまりシフトが被らない人と話すのは楽しかったけれど、結局はいつものメンバーで固まり始めていた。
「マスターはやっぱり来ませんでしたねえ」
篠原さんは笑って言う。確かに一応誘ったけど、まあ来ないだろうとは思っていた。あの人がお酒を呑む姿は、ちょっと想像できない。
「先輩、恋バナしましょうよ、恋バナ」
一方篠原さんはだいぶできあがっている。こちらも大方予想通りだった。
「恋バナってなんだよ。僕にそういうの期待されても困る」
「うそつき。先輩彼女さんいるじゃないですか。馴れ初め聞かせてくださいよ。ちゃんと後で私も恋バナするんで」
酔っ払いはめんどくさいな。適当に振り払ってもよかったけれど、僕の方もそこそこにお酒が入っていた。ぼんやり思考が霞む。まあ、別にいいかなというような気もする。彼女に知られたって、何かあるわけではない。
「あの子のことを認識したのは、確か高一の頃だった。中学校もおんなじだったんだけどね。当時は名前しか知らなかった。たぶんあっちもそんな感じだと思う。だから馴れ初めといえば高校生からになるんだけど、その前に前提として。僕は中学生の頃は、芸術高校に行こうと思っていた」
「え、そうなんですか。意外ですね」
「うん。油絵が好きでさ。割と賞も取ってたんだよ。当時は漠然と、自分は絵で生きていくものだと思っていた。実際、その夢も持っていた。だけど」
「だけど?」
「三年生の夏、芸術高校の学校見学に行ったんだよ。そこで高三の絵を見て、あるいは絵を描く高三を見て、気づいちゃったんだよ、壁に」
「壁、ですか」
彼女は小さく繰り返した。「壁」だなんて、口にしてしまえばありきたりな表現だった。でも、当時の僕はそれを感じたのだ。確かな質量をもって。
彼ら彼女らは、どこまでも「現実」の中で絵を描いていた。決して「夢」の中ではなかった。いや、みんな「夢」を持っていたんだ。でも、それは純粋なものではなかった。その「夢」の中にも、「現実」が確かに流れ込んでいた。「夢」は「現実」の実在に縛り付けられ、その中において初めて、「夢」に存在が与えられていた。そんな「現実」の実在が持つ質量が、つまり「壁」だった。
僕はその「壁」に触れるのが怖かった。触れた瞬間、「壁」の質量が僕の手を伝って僕の「夢」の中に入り込んできてしまいそうで。僕の中の神聖なものが、「現実」によって侵されてしまいそうだった。だから。
「だから、僕は壁に挑もうともせず逃げてきたんだよ」
僕はなるべく自然な笑顔を作る。でも、どれだけそうしたところでそれは自虐の笑顔にしかならなかった。篠原さんは、決まり悪そうにグラスの水滴を拭っていた。
「まあそれだけなら、ただのよくある悲劇だよ。誰しもが大人になるために経験するような。でも、そうじゃなかった。満月が、僕の悲劇を救った」
「……というと?」
「うちの高校の文化祭で、彼女は絵を展示してたんだよ。なんか、高校生になってから急に美術部に入ったらしくて。それを何の気なしに見に行ったときに、僕は彼女の絵に一目惚れしたんだ。彼女の絵は、別に技術的に優れているわけではなかった。革新的で先鋭的というわけでもなかった。でも、なんていうのかな。彼女の絵には『夢』があったんだよ。どこまでも純粋な。いつかに僕が諦めたような。彼女の絵には、僕が捨てたものの面影が残っていた。僕がくしゃくしゃに丸めて捨てたそれを、彼女はもう一度ごみ箱から拾い上げて、皺を伸ばして、僕の目の前で広げて見せたんだ。それが、僕にとっての救いとなった」
それからは、たびたび満月に話しかけるようになった。美術室に押しかけて、傲慢にも絵のアドバイスをすることもあった。それでも彼女は、僕のアドバイスを熱心に聞いてくれた。それを自分の創作に取り入れて、彼女の腕はめきめき上達していった。そしてあっさりと、昔の僕を追い抜いていった。
「僕は、夢に進む彼女の背中を眺めていたかった」
そう言って、僕は口を噤んだ。僕と彼女との間には沈黙が鳴った。その沈黙がうるさくって、周りの話し声は遠くに追いやられていた。
「じゃあ、先輩は、もし彼女さんが絵を描くのを辞めたらどうするんですか?」
声も出なかった。それは予想外の返答だった。
「先輩は夢を追いかける彼女さんに惹かれて、そんな彼女さんが好きなんですよね? でもそれは、彼女さんを過去の自分に重ね合わせているからじゃないですか? だから、彼女さんの夢を優先して、自分の寂しい気持ちを隠し続けているんじゃないですか?」
そう言い終わったあと、彼女は「あ」と思い出したように言う。
「私の恋バナも言うんですよね。私は、先輩が好きですよ。芸術なんて分からないし、ましてやちゃんとやったことなんてないけれど。それでも、それだからこそ、私は何も変わりません。変わらずに先輩のこと好きでいつづけるし、先輩が好きな私でいつづけることだってできます。寂しい気持ちなんてさせません」
そう言って彼女は席を立った。小走りでお手洗いへと抜けていく。
彼女の指摘は、ひどく恐ろしいものだった。それでいて、とても的確な指摘だった。なあ、もしそうならば、僕は、彼女にとっての。
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