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【side: 満月】
彼が行ってしまったあと、私は大学へと向かった。授業が始まるのは一週間後だけど、コンペに向けた制作を進めたかった。幸い制作室は夏休み中も開いているし、何より人が少ないから集中してカンバスに向き合える。
私は奥側にあるお決まりの位置に陣取って、作業を進める。夏休み前半に作っておいたいくつかのラフ案を、今はとりあえず形にしてみる。そのラフ案通りに完成形ができあがることはほとんどないけれど、それでもいいのだ。こうやってスクラップアンドビルドを繰り返していく中で、見えてくるものだってたくさんある。そして何よりも、こうやってただひたすらに作業を繰り返している間は、朔と会えない寂しさを紛らわせることだってできる。
作業を始めてから、どのくらい経った頃だろうか。傾いた西陽が色づいて、私の定位置にも差しはじめたとき、勢いよく制作室のドアが開いた。ふと目をやると、それは知ってるやつだった。彼女は普段と同じように私の隣にどかっと座り込む。
「どうしたの、メイ。なんか機嫌悪いね」
メイというのは、あだ名ではなく彼女の本名だ。彼女の両親は中国人だから、もちろん中国式の名前。でも、彼女自身は日本生まれ日本育ちだし、コミュニケーションで困ることはない。むしろメイが中国語で話していることさえ見たことがない。正直話せるのかすら若干疑っている。
「最近はずっと機嫌悪いよ。満月も知ってるでしょ?」
「それもそうだ。まだ禁煙してるの?」
「それもある」
「それもある。なら、その他もある」
メイはこっくり頷いて、ポケットからチュッパチャプスを取り出した。それを口内に突っ込むまま、苛立たしげに舌で弄んでいた。その行為自体はどちらかというとおしゃぶりをしゃぶるのに近いような気がするけれど、メイがするとなぜか煙草を吹かす妖艶な仕草に見える。不思議だ。
「彼氏と別れたの。最悪」
メイはそう吐き捨てた。その言葉には納得したけれど、特に驚きも感慨もない。この一年半で聞き慣れた話だ。
「また? これで何人目?」
「四人目。今回こそは違うって思ってたんだけどな」
「それ毎回言ってるじゃん」
「そう。毎回同じ事言って、毎回浮気されて別れる。なんでだろうね?」
「毎回おんなじようなクズ男とくっつくからじゃない?」
「おんなじような男しか好きになれないんだよ、あいにく」
実際、彼女に惹かれる男の気持ちも分かる。目鼻立ちが整ってて、背はすらりと高くて、それでいて何かダウナーな雰囲気を纏っていて。美人は美人で間違いないのだけど、日本人的な美人とも何か違う。ほどよく親しみやすさと近寄りがたさを備えた雰囲気だ。これなら大抵の男なら手玉に取れそうだけれど、それでもクズ男ばかり引き当ててしまうのは、もう彼女の方に問題があるのだろう。
「結局男ってのは皆、ちょっと思わせぶりな態度されたらすぐ勘違いして乗り換える生き物なんだから」
メイは歯をむき出してそう言った。まあそう言いたくなる気持ちもわかる、けど。
「男の人が全員そうってわけでもないと思うけどな」
「あるいは、あんたの彼氏みたいな」
「そうだと信じてるよ」
熟年カップルはいいですね、とメイは吐き捨てる。熟年っていっても、まだ付き合って一年半だ。それでもメイからしたら十分長いのだろう。
「昨日も彼来てたんでしょ? わざわざ地元から。献身的じゃない」
「うん。毎回来てもらってばっかで、ちょっと申し訳なくなる」
「満月はお盆と正月しか帰省しないもんねえ。名古屋に残した彼はさみしがってるんじゃない? 昨日はちゃんと色々構ってあげた?」
「色々って、なに」
「あるでしょ、色々」
メイはニヤニヤしながらそう訊いた。下世話なやつだ。そんなげすい会話でも、やっぱり昨日や今朝のことを思い出して火照ってしまう。
「そうだけどね。でも、彼の優しい手つきに、何か後ろめたさみたいなものも感じる」
「後ろめたさ? なんで?」
「なんでかな」
そう言い終わると同時に、私は絵筆をクリーナー液に突っ込んだ。じわりと鈍色の絵の具が滲んで、ぼやけた色が液全体に広がっていった。私はこの話を適当に打ち切らせたかった。
「もう帰ろう。愚痴は今度聞くよ」
メイは猫のように目を細めた。
【side: 朔】
京都駅に向かう市バスは、なぜだか定刻通りに僕を運んだ。名古屋に戻る高速バスも同様に、一分の遅れもなく京都を発った。それは大体の場合において喜ばしいことだし、弛まぬ企業努力の賜物なのだろう。実際僕だって午後から始まるバイトに間に合わないといけないのだから、そのことには感謝するべきだ。だけど、やっぱり心のどこかでそれを残念に思っていた。高速バスの車窓から見えた名古屋駅のツインタワーには、重苦しい雲が引っかかっていた。一雨降るかもしれないと思った。
バスターミナル付近のロッカーに荷物を預けて、僕はその足でバイト先へと向かった。太閤通口から駅構外に出て、路地を何本も奥へと入っていく。高い建物が少なくなって、「下町」と呼んでも差し支えないほど街の様相が落ち着いた頃に、ようやくバイト先に辿り着く。それは、個人経営の小さな喫茶店だった。
僕がエプロンを着けて控え室から出ると、マスターは丁寧な手つきでサイフォンの手入れをしているところだった。老眼鏡の奥から一瞬こちらに視線を流して、すぐ手元に戻す。お客さんは一番奥の席で新聞を広げる常連さんだけだった。レジスターの横では、もうひとりのバイトの女の子がお盆を抱えたまま暇そうにしている。というか実際に、三分に一回「暇ですねえ」と呟いている。この場にある全てが通常営業で、全てがいつも通りで。僕は一瞬で日常へと揺り戻されてしまったかのように感じた。満月の感触や、さっきまで一緒にいたことでさえ、夢のように急速に、現実性を失っていくかのように感じた。「四時間前までは満月と会っていたんだ」と心の中で呟いてみたけれど、それもあまり効力を発揮しなかった。
「暇ですねえ」
その声だけが耳に響いた。
十九時半に閉め作業が終わる頃には、もう雨は降り始めていた。土砂降りって訳ではないけれど、傘を差さないでいるのは躊躇われるくらいの雨だ。ちゃんと傘を持ってきてよかった。
「先輩、一緒に帰りましょ」
後ろから声をかけられた。振り返ると、それはバイトの女の子だった。実際彼女は年下で、このバイト先に入ってきたのも僕より後なんだけれども、どうも「先輩」と呼ばれるのは気恥ずかしい。半年前までは僕もこのバイトの最年少で、「先輩」と呼ばれることに慣れていないだけなんだろうけど。
「うん。篠原さんとはよくシフトが被るね」
「先輩もいい加減私のこと下の名前で呼んでくださいよ。未だに苗字にさん付けって先輩だけですよ?」
「君だって僕のこと『先輩』としか呼んでないでしょう?」
「恥ずかしいんですよ、朔先輩」
篠原さんは僕の顔を覗き込むようにして笑う。僕はその視線を逸らしながら、傘に手をかける。ばさりと音を立てて傘を広げると、彼女は「えっ」と声を漏らした。
「あれ、今ってもしかして雨降ってます?」
「そうだけど」
「え! 私今日傘持ってきてないですよ」
「もうお昼には降り出しそうだったのに?」
「朝出勤するときは晴れてたんですー。先輩は知らないだろうけど!」
なぜだか怒られた。理不尽なことこの上極まりないけれど、この雨で傘がないのは可哀想だ。当分止みそうにないし。
「あの、先輩がよければなんですけど」
「うん。いいよ」
「ほんとですか!」
「うん。この傘は次のバイトで返してくれればいい。僕は折りたたみ傘使うから」
そう言って僕は広げていた傘を差しだした。彼女はそれを見つめて呆けていたが、複雑な表情を浮かべながら傘を受け取った。まるでひとりごとのように「こんな気づかないものなのかなあ」と彼女は呟いていた。「気づかないふりが上手いだけだよ」とは、もちろん返さなかった。
「先輩のシフトが午後からだったのって、彼女さんに会ってたからですか?」
僕達は傘の半径ふたつぶん離れて歩いた。背の低い彼女の表情は傘に半分隠れてしまって、その目に映る感情はよく見えない。
「そうだね。朝にバスで帰ってきた」
「京都でしたっけ?」
「そう」
遠いですねえ、と彼女は呟く。バスで二時間半はそんなに遠くは感じないけれど、まあ並んで歩くよりは遠いだろう。あるいは、僕の肩に触れる雨粒よりは。
「ていうか、なんで遠距離になったんですか? 京都の芸大に通ってる人と接点あるんです?」
「結構深掘りしてくるね」
「いいじゃないですか。知りたいんですよ」
僕達は信号で止まった。かといって目の前を通る車はほとんどいない。一台だけトラックが通るのを見送ってから、僕はそっと口を開く。
「中学も高校も同じだったんだよ、あの子は」
「……へえ。それじゃあ結構長いんですか?」
「そんなことはない。高校の卒業式で付き合いはじめたから、せいぜい一年半だ」
「 」
呟いた彼女の声は、雨音に掻き消されて聞こえなかった。聞き返してもよかったけれど、たぶんそれは意地悪以上のものにはならないだろう。僕達は黙って信号を渡る。
「でも熱々ですね。その指輪だってプレゼントか何かでしょ?」
「まあ」
僕は曖昧に返事をする。ぼんやりと、僕は自身の右手に目をやる。その薬指には、シンプルな指輪が鎮座していた。それは雨の光を反射して控えめに輝いていた。
「これは半年記念日に貰ったんだよ。奥ゆかしいデザインで、いかにも彼女らしい」
「いいですね。先輩は何をあげたんです?」
「それが困ったんだよ。僕は何も用意してなかったから。結局一時間街を歩いて、彼女が気に入ったテディベアをプレゼントした」
「記念日はちゃんと覚えてないとだめですよ」
「うん、そう思う。でも、覚えていても祝えなくっちゃ意味がない」
「どういうことですか?」
「彼女が制作で忙しくって、なかなか会えない」
いつの間にか名古屋駅のすぐ目の前まで来ていた。夜の名古屋はいやに眩しい。あるいは昼のそれよりも。
「そんなに会えてないんですか?」
「うん。前会ったのは二ヶ月前で、次会うのは三ヶ月先だ」
「寂しくないんですか」
「寂しいよ、もちろん」
「そう思ってるのなら、どうしてそう彼女さんに言わないんですか?」
「さあ、どうしてだろうね」
そう言い終わると同時に、僕は傘を閉じた。ばさりと風を切る音がした。傘についていた水滴が局所的な豪雨となって、僕の足元に降り注いでいた。
「それじゃあまた次のバイトで」
僕は彼女に手を降って別れた。彼女は狸みたいにこちらを見つめていた。
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