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【side: 朔】

 名古屋に戻るバスは、京都駅を九時に発つことになっている。市バスが遅延常習なことも考えると、朝八時には満月の下宿を出ないといけない。まったく、これじゃあ別れを惜しむ暇もない。

「ごめんね、京都駅まで見送ってあげられたらよかったんだけど」

 玄関先で、満月は申し訳なさそうに眉を下げて笑った。僕も反射的に笑顔を作る。

「いいよ、気にしなくて。わざわざ往復するのも大変でしょう」

 それを聞いて彼女は、ありがとう、と呟いた。実際、そのためだけに着替えなりメイクなりをさせるのは気が引ける。すっぴんのまま、とりあえずだぼだぼのTシャツだけ着た今の彼女だって十分魅力的だし。そんなの恥ずかしくて言えやしないけど。

 僕は腕時計を見やる。針は八時の五分前を指していた。もうそろそろ行かないといけない、けど。

「次はいつ会えるかな?」

 僕はそう訊ねて、彼女の手を取った。彼女は一瞬びくっとしたあと、ゆっくり僕の手を握り返した。

「わかんない。ちょっとまた制作が忙しくなりそうで、もしかしたらその締め切りまでは厳しいかも」

「前言ってた、コンペのやつ?」

「そう。けっこう規模が大きいの」

「締め切りはいつくらいになりそう?」

「どうだろう、十二月の上旬くらいかな」

 結構先だね、と思わず言葉が漏れる。彼女はちょっと俯いて、「ごめんね」と呟いた。僕の手を握る力が強くなった。もう、八時三分前。

 僕は満月の手を引いて、その身体を僕の方へ引き寄せた。倒れ込む彼女を支えるようにぎゅっと抱きしめる。彼女は僕の耳元で、「びっくりした」と笑った。その声は少しうわずっていた。

「ごめん、あと三分だけ」

 僕はそれだけ返した。すると彼女の方も、それ以上は言葉を継がなかった。そしてゆっくり、僕の背中へ両腕を回した。アパートの玄関には僕達が抱きしめ合う衣擦れの音だけが鳴っている。

 本当に、この時間が終わってほしくなかった。ありふれた言葉だとしても、この時間が永遠に間延びしてほしいと、切に叫びたかった。彼女の髪の色、首筋の匂い、身体の柔らかさ。その全部を手放したくなかった。それでもいいんだ、実際。バスのチケットも今日のバイトも全部投げ捨てて、一日中彼女とこうしていてもよかった。でも、たぶんそれじゃいけない。彼女はきっと困ってしまう。

 八時〇分。僕らは離ればなれになった。三ヶ月後まで、僕は彼女の温度に触れられないまま日々を過ごさなければいけない。

「じゃあ、そろそろ行くね」

 僕は後ろ髪引かれる思いを断ち切るように、いつもより少し大きな声で言う。彼女は、「またすぐ電話もしよう」と返した。それに頷いてから、僕はアパートのドアを開ける。寂しくならないように、僕は振り返らないまま後ろ手にそれを閉めた。

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