恋人達のジレンマ

橘暮四

1

【side: 朔】

 醜い行為を終えて、満月みつきはいつの間にか眠ってしまったようだった。

彼女の静かな寝息にあわせて薄い掛け布団が上下している。僕は、彼女を起こさないようにそっと身体を起こした。彼女の表情は見えない。栗色のやわらかな髪が、まるで彼女の横顔を覆い隠すように流れていた。

 僕は、ほんのささやかな悪戯心からその髪を掬う。絹みたいな手触りのあとで、彼女の横顔が露わになった。満月は、可愛らしくきゅっと眉根を寄せながら丸まっていた。まるで小動物のように。そして、軽く紅の差したその頬は、まるで果実のように見えた。僕は、早熟のそれが漂わせる、甘酸っぱい香りを連想した。歯に纏わり付くような、水気の多い食感を連想した。それを呑み込んだとき舌に残る、あのわずかな痺れを連想した。僕は、彼女の頬に唇を近づけていた。

 満月の口から、小さな吐息が漏れた。それは本当にささやかなものだったけれど、それを聞き漏らすには僕らは近づきすぎていた。僕はまるで正気に還ったかのように、顔を離す。その果実に口をつけることはなかった。

「馬鹿みたいだな」

 言葉が零れた。もちろん、今度は僕の口から。それは部屋に満ちた静寂へと融けていった。

 なんとなく目の遣り場に困って、彼女の部屋を見わたす。それはもう見慣れた光景だった。六畳一間に積み上げられた画材。画集の詰まった本棚。紙が乱雑に挟まった無数のファイル。そして、そんな部屋の中で肩身狭そうにしながら、棚の上に横たわるテディベア。次に彼(あるいは彼女)に会えるのはいつなのだろう? ちょっと分からない。なるべく早く会えたら良いと思う。

 そのとき、カーテンの隙間からそっと光が這い出してきた。青白い、涼やかな月光だった。九月末の臥待月は、こんな夜中にようやく上ってくる。

 月明かりは真っ直ぐ闇を掻き分けながら、部屋を侵食していく。そして、ベッド脇のサイドテーブルにうち遣られていたスケッチブックを照らした。その白い画面は、暗闇の中、月光を充分に反射して輝いていた。場面転換を終えて、舞台上の役者がスポットライトを浴びるように。白は、祝福の色だと思う。素敵な色だ。何ものでもないということは、つまり何ものにもなれるということだから。

 ふと喉の渇きを感じた。まだ夜は少し寝苦しい。ふたりで並んで寝ているのだから尚更だ。僕は暗闇からなんとか下着だけ探り出して、キッチンへと向かった。


【side: 満月】    

 空しい行為を終えて、さくはにわかに起き上がったようだった。もう寝てしまったと思ってたのに。思わずぎゅっと目をつむる。寝たふりをしているのはばれていないだろうか。なるべく不自然にならないように、静かに呼吸をする。

 彼の手が、そっと私の頬に触れた。今度こそ声が出てしまいそうになるのをぐっと我慢する。彼は優しい手つきで私の頬を撫でる。ごつごつとした、男の子の手だ。そんな手になすすべもなく、私の髪は後頭部へと流れていく。横顔が、夜の空気に、そして彼のまなざしに曝された。私の身体の空洞に、心臓の音が反響している。本当に、こんな急に、どうしたのだろう。

 彼の手は私の後頭部に回されたままだった。そしてその力がわずかに強まったと思うと、ベッドの軋む音が聞こえた。上半身の重心をこちらへと向けるような音。というか雰囲気で分かる。彼の顔が近づいてきている。なんで、また今更。

「ふ」

 自分でも思いもよらない声が出た。いや、声というよりはむしろ吐息だった。そういえば、彼が私の頬に触れてからほとんど息を止めていたことに気がついた。

今度こそ狸寝入りがばれると思ったけれど、朔は何も言わなかった。彼の顔がゆっくりと離れていくのを感じる。それにあわせて、心臓の音も通常運転に戻り始める。

別に、嫌なわけじゃないんだよ。そう言いたかった。今も、さっきも、今までも。でも、結局それは声にならなかった。臆病な私が口から出せるのは意味を持たない吐息だけだった。

ぽそりと、彼が何か呟いた。それは確かに意味を持った言葉だったけれど、それを聞き取るには私達は離れすぎていた。なんて言ったの、そう聞きたくても聞けないから、代わりに私は薄目を開ける。彼はもうこちらを向いてはいなかった。裸の背中をこちらに向けて、何かをぼんやり眺めている。そして、にわかにベッドから抜け出してしまった。少しだけごそごそしたあと、彼の背中はキッチンへと消えていった。

私はようやく目をぱっちり開ける。視界に満ちる濃密な闇の中で、月光に照らされたスケッチブックがやけに輝いて見えた。白は、呪いの色だと思う。何ものにもなれるということは、つまり何ものでもないということだから。

私はそれから目を逸らすように、ベッドにうつ伏せになる。かすかに彼の匂いがした。シーツに強く鼻を押しつける。匂いが私の頭を埋め尽くすほどに、わずか数メートル先の彼の気配が、やけに遠くなっていくように感じられた。

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