8時間ダイエットですわ2
そして明くる日からアイリーの八時間ダイエットがスタートした。
普段なら七時には起きて朝食を堪能し、食休みに学園へ向かうまで読書の時間を過ごすのだが、八時間の制約があるせいか邸宅を出発する十分前に朝食を希望した。
「カティア、さすがにそろそろお腹が空いたわ。朝食をちょうだい」
「かしこまりましたアイリー様。今すぐにお持ちします」
カティアは応じて、いつも通り厨房へアイリーの分の朝食を取りに向かった。
朝食自体はアイリーの起床時間に合わせて用意しているので、カティアは一分もせずにサービスワゴンを押して戻ってくる。
テーブルで待つアイリーの眼前で素早く配膳して、三枚重ねのパンケーキにたっぷりの蜂蜜シロップを注ぐ。
「ご用意できました。召し上がれアイリー様」
支度が整うとカティアはテーブルから一歩離れる。
アイリーは涎でも垂らしそうな顔でナイフとフォークを手に取るも、思い出したように表情を引き締めてカティアを振り向いた。
「カティア、今何時かしら?」
カティアはアイリーの勉強用のテーブルにある置き時計で時刻を確認する。
「八時五十五分でございます」
「そう。なら九時からの計測でいいわね。五分ぐらいの差は許容範囲よ」
「九時ですと最後に食事をできる時間が十七時ということになりますが、よろしいですかアイリー様?」
もしもアイリーが妥協するのならカティアとしては有難かった。
しかしアイリーの決意は硬い。
「いつも夕食の時間が早くて大変でしょうけど、夕食は十六時三〇分には食べられるように用意してほしいわ」
「十六時三〇分ですね、承知しました」
追認しながらカティアは内心で舌打ちした。
二時間ぐらいは時計を遅らせないといけないのね、めんどくさい。
今回の作戦は同じくアイリーの従者であるハルヤとの綿密な連携と繊細な作業が必要になるため、神経を擦り減るのが目に見えていた。
本音を表に出さないようにカティアはあえて笑顔でアイリーへ話しかける。
「アイリー様、美味しいですか?」
「美味しいわよ。見ていればわかるでしょう、今さら聞くことではないですわよ」
名家の令嬢となれば口に合わないものは無理して食べない。そのため毎朝食している時点でカティアの作るパンケーキを不味いと思っているわけがないのだ。
「アイリー様から直接美味しいと言われると嬉しいですから」
カティアはわざと照れ臭そうに質問したわけを明かした。
メイドの反応にアイリーも気恥ずかしそうにパンケーキの方へ視線を逸らす。
「あまり時間がないから食べ終わったらすぐに出発するわよ。ハルヤは準備できているかしら?」
「万全でしょうね。あの方はアイリー様の執事ですよ、抜かりありませんよ」
「それならいいのだけれど。いつもと時間が違うから念のために確認したの」
疑うような言動を恥じるようにカティアとは顔を合わせずに、ひたすらパンケーキを口に運んでいく。
ものの十分せずに朝食のパンケーキを平らげたアイリーは、カティアに手伝ってもらいながらコルセットを含む着替えや身だしなみを整えた。
アイリーの支度が終わるのを見計らったように、ハルヤが断りを入れてから部屋に入ってくる。
「お嬢様、お車の準備が出来ております」
「そうですの。行きますわよハルヤ」
「自分がお連れしましょう」
アイリーと普段通りのやり取りを交わしてから、ハルヤはアイリー越しにカティアへ目配せした。
カティアはアイリーの背後でほんの小さく頷き返した。わかっているという二人だけのアイサインだ。
「それでは参りましょう、お嬢様」
メイドの合図を見てからアイリーを連れ添わせて送迎車が停めてある場所まで移動を始めた。
アイリーが部屋からいなくなった途端、カティアの目が獲物を探す鷹のような真剣さを帯びる。
朝食の後片付けを装い、アイリーの部屋の時計を一〇分ほど遅らせないといけない。そしメイドとして送迎には同伴しなければならず、彼女に与えられた猶予はアイリーが送迎車まで移動するわずかな一分だけだ。
「盗賊稼業よりシビアかも」
かつてミカグレに身を置いた女盗賊カティアは、動き出す一歩目と同時に今回の作戦の緻密さをぼやいた。
時間は過ぎて学園での授業が終わり、ハルヤの運転でアイリーの迎えに上がった帰り道。
ハルヤは最後部の座席に腰掛けて窓の外を眺めるアイリーに事前に計画に入れていた話を持ち掛ける。
「お嬢様、少々頼みがあるのですが聞いてもらえますでしょうか?」
「頼みとは何かしら、ハルヤ?」
「先日に学園近辺にて新しいスイーツ店が開店したと情報を得まして、お嬢様がよろしければですが、今からご賞味していただきたいのです」
スイーツ店と聞いたアイリーの目が物欲しそうに輝く。
「新しいお店は興味あるわね。連れて行きなさいハルヤ」
「かしこまりました。それでは進路を変更してそちらへ向かいます」
甘味が好きなアイリーの関心を引くことに成功したハルヤは、真顔でハンドルを切りながら内心でほくそ笑んだ。
寄り道ができればお嬢様の時間感覚はズレるだろう。そうなれば邸宅に帰った時に時計が遅れていても気付くまい。
アイリーは新しいスイーツを楽しめると知り顔を綻ばせていたが、急にはっとした顔を引き締める。
「スイーツは楽しみだけれど、時間割にある夕食の時間までには帰るようにしなさい」
「承知しております。予定の時間までには帰着いたしますのでご安心ください」
「わかっているのなら構わないわ」
厳しい顔つきで言うと窓へ顔を背けた。
スイーツの味を想像してハルヤから見える横顔が露骨に綻ぶ。
「お嬢様のお口に合えば、後々には邸宅へ仕入れることにします。今回はひとまずご賞味していただこうと思っています」
「そうね。お口に合うといいのだけれど」
試すような口ぶりをしつつも、その声は若干弾んでいた。
ハルヤは開店したばかりのスイーツ店への道を送迎車で進みながら、邸宅にいるカティアに期待をかける。
寄り道している間にカティアが時計を遅らせてくれれば、三十分は引き延ばせるはずだ。
アイリーの目を盗んでの工作にはメイドとの信頼関係が欠かせなかった。
アイリーが邸宅に帰ってきた頃、時刻はすでに彼女が夕餉と定めた十六時三〇分になっていた。
しかしカティアとハルヤの策略により、アイリーが部屋の時計で確認しても夕餉の時間までには四〇分ほど早かった。
「思ったより時間に余裕があるわね」
「夕餉の時間には少々早いですね。どうされましょうかお嬢様」
送迎車から部屋まで送り届けたハルヤが、指示を待つように尋ねる。
アイリーはハルヤを振り向いた。
「読書でもしようかしら。書架から本をいくつか持ってきてちょうだい」
「かしこまりました」
アイリーの命にハルヤが頭を下げて部屋から退出しかけた時、外の廊下からドアをノックする音が先に割って入った。
「アイリーお嬢様、頼みごとをよろしいでしょうか?」
ドアの外からカティアの声が聞こえた。
アイリーが入室を許可すると、カティアがドアを開けて部屋に姿を現す。
「お嬢様にお客様です。いつも葡萄をいただいている農家の方が苺を届けてくださいました。ぜひともお嬢様に試食をしてもらいたいとのことです」
甘味に目がないアイリーは先ほどスイーツを食べたばかりだというのに、読書のことを忘れてカティアに笑顔を向ける。
「苺の試食をすればいいのでしょう。お安いごようですわ」
「引き受けてくれてありがとうございます。試食用の苺は厨房の方で用意してありますので、ご足労おかけしますが厨房まで来てお試食ください」
「それぐらいご足労じゃないわよ。それでどんな苺なのかしら?」
アイリーを部屋から引き離すためにわざと厨房へ案内していることなど気が付かずに、アイリーの興味は苺に傾注していた。
質問しながらアイリーはカティアの隣まで近づいており、苺に対して関心が前のめりなのが明らかだった。
アイリーの甘い誘惑に勝てない弱さにカティアは微笑ましい気分を抱きながらも、弛緩しそうになる表情を努めてメイドとしての人当たりの良い笑顔を張り付ける。
「五種類ほど用意しておりますので、アイリー様に食べ比べていただいてお好みの種類はこれから継続的に取り寄せるつもりでおります。ですからアイリー様の好みをお教えください」
「わたくしの好みでいいのね。それなら苺の取り寄せる量も増やそうかしら」
楽しそうに話しながらアイリーは気持ちが抑えられない様子でカティアを通り過ぎる。
「農家の方からすれば、それは嬉しいことでしょうね」
カティアは会話に付き合いながらアイリーと厨房へ足を向けて、去り際にハルヤへ目配せして部屋の前から歩いていった。
部屋を開け放したまま去っていったアイリーとカティアが完全に廊下の角に消えると、部屋に残されたハルヤはすぐさま手近な時計に目を移した。
「上手い口実を見つけたな、あいつ」
カティアのファインプレーに賛辞を送りながら、時計を手に取り慣れた手つきで竜頭を回す。
十分ほど時計を遅らせたのを確認してから、アイリーの読む書籍を選ぶために邸宅の書庫へとハルヤは移動した。
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