第11話 霧中の毒牙 2

 ユレンは静かにたたずむ。一瞬後、自然のものではない熱が左耳に触れた。それと、わずかな布の音。体をひねり、左に向かって杖を振るう。澄んだ音がこだました。


「はっ。よく受けた。が、そう何度も上手くいくかな」


 ターレスが嗤う。その気配はすぐに遠ざかり、また近づいた。ユレンは眉ひとつ動かさず、杖を滑らせる。今度は先ほどよりざらついた音がした。


 霧の中、攻防は続く。巧みに気配を消して立ち回るターレスの刃を、ユレンの杖が受け、時に流した。淡々と応戦しながら、少年は舌を巻く。元護衛の速さと立ち回りの上手さは予想以上だ。慣れ親しんだ森でなければ、対応しきれなかったかもしれない。


 何度目かのやり取り。白銀の杖が、ターレスの耳元をかすめる。小さな動きでそれを避けた男は、さすがに顔をしかめた。


「……どういうことだ。なぜそこまで動ける? まさか、地霊とやらが力を貸しているとでも?」

「地霊たちは、みんな隠れちゃってるよ。あなたのこと、ヤーデに知らせにいってるのかもね」


 少年の答えは、いつになく冷淡だ。ターレスはいらだった様子で目を細める。彼の瞳が灰色であることを、ユレンは初めて知った。


「だったら、なぜ――」

「あなたの体には、目しかついていないの?」


 そのとき、カシューの耳がぴくりと動いたことは、誰も知らない。


 ターレスが目をみはった。同時に素早く得物を振るう。ユレンは難なく受け止めた。


 短剣が杖に押されつつあることに気づくと、ターレスは杖を弾いて飛びのく。何も言わなかったが、あり得ない、と表情が語っていた。――あり得ないなんてことはない。遠くのものが見えないねずみも、鋭い鼻と耳とひげを使いこなして生きている。それと同じことだ。


 ユレンは笑うでも怒るでもなく、ただ踏み込んだ。数度、突く。最後の一撃が、ターレスの胸を打った。濁ったうめき声が漏れて、大きくよろめく。ユレンは杖を構えたまま、彼をにらんだ。


「大人しくして。一緒にリーンさんのところへ行って、ちゃんと全部話すんだ」

『……言っとくけど、逃げらんねえぞ。この森の連中はユレンの味方だ。地霊や水霊も含めて、な』


 ユレンに侍りつつ、黙って成り行きを見守っていたカシューが追い打ちをかける。獣のようにうなったターレスは、次の瞬間、右手を振り上げた。白いきらめきが迫る。


『右、三歩!』


 ユレンは、相棒の声に従って飛びのいた。くうを切った短剣が、張りだした木の根に突き刺さる。同時、ターレスが身をひるがえした。ただ逃げ出すのではなく、革帯ベルトから何かを外して放り投げる。


 宙に舞った透明なもの。栓が外れて、紫がかった灰色の液体が飛び出す。ユレンが嗅いだことのない刺激臭があたりに広がる。カシューが天を裂くような悲鳴を上げ、草の上でのたうち回った。


 あれはいけない。思いが脳裏にひらめいた瞬間、ユレンは飛び出していた。杖を投げ、あいた両腕を突き出して、降ってきたものを受け止める。


『ばっ――よせ!』


 うめき混じりの叱声が飛ぶ。液体がユレンの腕に降りかかる。やや遅れて、かたいものが手に当たった。


 ユレンは前につんのめり、そのまま転ぶ。最初は衝撃と地面を擦った体の痛みにうめいたが、すぐさま別の痛みがやってきた。無数の針で皮膚を突かれるような。あるいは熱した鉄板を押し付けられるような。そんな激痛が、指先から肘までを駆け抜ける。


 悲鳴すら上げられない。ユレンが汗だくの体を丸めていると、すぐさまカシューがやってきた。彼は、赤く腫れてただれた少年の両手を見て愕然とする。


『ああああ! じっとしてろよ。目ぇ開けるなよ』


 カシューが目を開けるなと言ったのは、手の様子を見せないためだ。慣れない者がひどい傷を見ると、衝撃のあまり失神したり、最悪命を落としたりすることがある。


 ユレンもなんとなく理由を察したので、黙って従っていた。どのみち、目を開けていられる余裕などない。


 ちくり、と痛みが走る。その後に、じんわりとぬくもりが流れ込んできた。ぬるま湯に体を浸しているときの感覚に似ているが、お湯と違って、ずっとずっと深いところを温めてくれるようだ。カシューが自分の手のひらに鼻をつけて、ぼんやりと光を帯びている様が、ユレンには容易に想像できた。


 森がざわめく。どこかへ逃れていた地霊たちが戻ってくる。カシューの叫び声がした。


『水霊ども、急いで“冷気”持ってこい! こんだけの霧を起こせたんだ、できるだろ!』


 水霊の一部が慌ててやってくる。ユレンたちを取り巻く空気が、急にひんやりとした。未だに痛む肌の上を水が滑る。その感触はすぐに消え、再びぬくもりがユレンを包んだ。


 ほどなくして、痛みと熱が引いていく。そして、静かな声が響いた。


『ほれ、もういいぞ』


 ユレンは恐る恐る目を開ける。痛みが引いたことはわかっていた。それでも、傷一つない自分の手を見て驚いた。まじまじとながめてしまう。〈竜の耳目〉の能力は、何度、見て体験しても新鮮なものだ。


「あ……ありがと、カシュー」


 ユレンはほとんど無意識でお礼を言った。カシューは『おう』と答えたが、すぐに目を細めると、ユレンの額に体当たりする。


「いったあ!」

『こんの大馬鹿野郎! 見るからにやばい液体を素手で受け止める奴があるか!』


 少年が顔をしかめたのにも構わず、〈竜の耳〉は容赦なく怒鳴りつける。ユレンは涙目で、体をふくらませているカシューを見つめた。


「だ、だって……あんなの撒かれたら、植物が危ないでしょ。このあたりには鳥の巣穴だってあるはずだし……」

『だからって、てめえの腕を溶かしていいわけじゃねえ! 森の連中も、そんなこと望んじゃいねえんだよ!』


 ユレンは返答に詰まった。付き合いの長い〈竜の耳〉の説教は、彼にとってはあまりに重い。


 その場で伏せたカシューは、ユレンの鼻に自分の鼻をくっつけた。


『いいか。おまえさんは古竜こりゅうでも地霊でもねえ。森の奴らを想う気持ちは否定しねえけどよ、あんまり無茶してくれるな。いつでも俺っちがついてやれるとは限らねえんだ』


重く、温かい感情が胸に迫る。ユレンは少しうつむいて、唇を噛んだ。


「……うん。ごめん。ありがとう」


 謝罪を絞り出し、元通りになった手でカシューをなでた。彼は『いいってことよ』とひげを震わせ、ユレンの上から飛び降りる。


 上半身をゆっくり起こし、ユレンは両手をまんじりと見つめる。手の中に、小さな瓶が転がっていることに気がついた。先ほどターレスが投げたものだ。王女の護衛だった男の表情と、声とが、頭の中を駆け巡る。


『ユレン。首も見せろ』


 瓶と記憶に気を取られていたユレンは、はっと顔を上げる。すぐそばでこちらを見上げてくるカシューに、疑問のこもった視線を投げ返した。


「首?」

『あの野郎に突っつかれたところだよ』


 そう言われて、ユレンは短剣を突きつけられたときのことを思い出した。試しに、そのあたりを指で触ってみる。すでに血は止まっていた。ただ、傷口は固まっていないようで、ぶよぶよと嫌な感触がある。


「どうしたのさ。いつもなら、このくらいの傷は治さないでしょ?」

『そうだけどよ。今回は俺っちが煽っちまった部分もあるし……何よりおまえさん、仕事中だろ。わかりやすい傷を残したまま、王女サマを迎えにいくのはよくないぜ』


 カシューの言うことはもっともだ。ユレンは、王女の顔を思い浮かべる。自分の護衛が原因でユレンが流血したと知れば、彼女は卒倒しかねない。


「そうだね。お願いしていい?」

『おう。こそばゆいのは我慢してくれよ』


 ユレンが苦笑してその場に座り込むと、カシューは素早くよじのぼってきた。


 すべての治療が済むと、カシューは再び少年の肩の上におさまった。立ち上がったユレンは、杖を拾う。霧に包まれた森を見回して、ため息をついた。


「ターレスさんには、逃げられちゃったね」

『ま、仕方ねえさ。〈耳目〉や地霊どもが動いてるだろうから、ひとまず連中に任せようぜ』


 カシューがひげを整えながら言う。ユレンは小さく顎を動かして、乳白色の世界を見据えた。


「行こう。リーンさんとエイヴァさんを探さなきゃ」



*****

(注:白杖や歩行補助の杖を振り回してはいけません。棒術・杖術を学ぶ際は専用のものを使い、適切な指導・監督のもとで練習しましょう)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る