第10話 霧中の毒牙 1

 森深く。濃霧の中に、音はない。水分を含んだ草木の濃密な香りばかりが、一帯に充満している。こういうとき、元気に跳ねまわるはずの地霊や水霊たちも、すぐそばにはいなかった。自然のものでない霧に閉じ込められた二人と一匹は、動かない。


 少年はゴーグルの下で目を細める。実際に今、どういう体勢なのかはわからない。だが、想像はできていた。そしてその想像は、大きく外れていなかった。


 彼の背後にターレスがいて、腕を回して押さえ込んでいる。さらに、反対の手で彼の首に短剣を突きつけている。


 ターレスの息遣いに乱れはない。かすかに聞こえる心音も穏やかだ。


「もう少し早く動くべきでしたかね」


 ターレスがささやく。


「そうすれば、あなたの片目を完全に潰せたのに」

「……それは困るなあ」


 ユレンは平静を装って笑みをつくった。返答はない。ただ、耳元で空気が震えたような気がした。


『おい、兄さん、どういうつもりだ』


 彼らの足もとで、カシューが威嚇する。問いかけは、地底から響いているかのようだった。ターレスは答えない。カシューは歯を鳴らし、毛をふくらませた。


『ユレンから離れろ、クソ野郎!』


 叫び終わるより早く、飛び出した。


 ターレスは小さくため息をつくと、片足を無造作に振り上げる。『ふぎゃっ』と濁った悲鳴がこだました。杏色の塊が、投石のごとく飛んでいく。


「カシュー!」


 ユレンは思わず身を乗り出した。直後、首筋に痛みが走る。生ぬるい液体が肌を伝う。心臓に氷柱をねじこまれたような心地で息を詰めた。


「動かないでと言ったでしょう。それとも、斬首がお望みですか?」


 抑揚のない声がささやく。ユレンが口を開きかけたとき、正面の茂みが揺れた。草まみれになったカシューが転がり出てくる。


『この下衆! 何しやがる!』

「おやおや。あれだけ景気よく吹っ飛んで、無傷とは。ただのねずみでないことは確かなようですね」

『誰がねずみだコラ! 手に穴開けてやろうか!』

「やあ怖い」


 ターレスはひょいと肩をすくめる。それから、さりげない所作で短剣を滑らせた。刃先が的確に小さな傷口を突く。ユレンの口から、意思とは関係なく、うめき声が漏れた。それを聞いてか、カシューが固まる。


「そんなことをしたら、お友達が傷つきますよ? いいんですか?」

『てめえっ……!』


 カシューの毛が逆立つ。小さな体の周囲で、膨大なマナが渦巻いた。それでも彼は、その場から動かない。ユレンは杏色に目を留めつつ、意識の一部を背後に向けた。


「どうしてこんなことをするの? 確認したいことがあったんじゃないの?」

「ええ、そうですよ。ですが、素直に訊いても教えていただけなさそうなので。ちょっと工夫してみたわけです」

『どこが工夫だ、こんなの――!』

「何を訊きたいの?」


 カシューの怒鳴り声にかぶせて問う。するとターレスは、一段声を落とした。


「あなたのことですよ、ユレン殿」

「おれ?」

「そうです。――あなたは何者ですか」


 カシューがぴくりと身を震わせる。一方のユレンは、目をしばたたいた。


「おれは、おれだよ。カロの町に住んでる、ただのユレン」

「私が聞きたいのはそのような戯言ではありません。もうおわかりでしょう」


 素直な答えを、ターレスはぴしゃりとさえぎる。両腕に力がこもった。


「聖域である〈神樹〉に案内するなどと平気な顔で言い放ち、竜の伝令であるはずの〈耳〉を四六時中侍らせ、挙句、魔物に名をつけ言葉を交わす――これが、ただの子供のなせるわざですか?」


 布のこすれる音がする。妙に温かい吐息が、少年の耳をくすぐった。


「そしてもうひとつ。あなたは〈翡翠竜〉にずいぶん親しげな口を利くようだ」


 ユレンは体をこわばらせた。嘲笑が、鼓膜から背筋までを震わせる。


「隠しているつもりだったんですか? 私から言わせれば、まだまだですよ。素人もいいところです」

『……自分は玄人くろうとだ、とでも言うような口ぶりだな』


 すぐさまカシューが食ってかかる。しかし、ターレスはそれを無視した。


「察するに、あなたは〈翡翠竜〉ヤーデルグレイスと深い関係にある。それも、王家と竜の絆とはまったく別種の関係だ。違いますか?」


 ユレンは目を閉じた。深呼吸して、瞼を上げる。カシューは黙っていた。表情などはまったくわからないが、なんとなく、ひどく迷っているのが伝わってきた。


「……そうだ、と言ったらどうするの? それを聞いて何がしたいの?」


 カシューが後ろ足で立ち上がった。ターレスは、静かに短剣を引く。しかし、武器をしまったわけではない。ユレンの耳元で、それをもてあそんでいた。


「そうですねえ。〈翡翠竜〉のもとにでも、連れていっていただきましょうか」

「今まさに、連れていこうとしてる最中じゃない」

「私一人を、に決まっているでしょう。無能王女についてこられては困るんですよ」


 ぴくり、と金色の眉が動く。唇の隙間からこぼれた音は、今までにないほど低かった。


「リーンさんのこと、そんなふうに思ってたの?」

「当然でしょう。魔法を使えないばかりか、いつも父王の陰に隠れてばかり。そんな王族は敬うに値しない」


 ユレンは唇を結んだ。カシューも背を丸めている。彼を取り巻くマナが、刻一刻と濃さを増していた。


「国王陛下も甘すぎるのですよ。中途半端に留め置かず、さっさとよそに嫁がせればよいものを。ああ、嫁の貰い手もなかなかないのかもしれませんねえ」


 湿った笑い声が、乳白色をかき混ぜる。

 ユレンは細く息を吐いた。


「……そう。そんなふうに思ってて、でもリーンさんたちをだまして、ここまで来たんだね」

「ええ、そうです。上司の命令でしたから、大人しく従順な護衛を演じておりましたが、まあ疲れましたね。〈神樹〉の手前まで耐えきれる自信がありませんでした。ですが……あなたと出会えたのは運がよかった」


 あからさまな金属音。そして――ターレスを取り巻いていた、薄っぺらくもやわらかい空気が消え失せた。


「さあ、を〈翡翠竜〉のもとまで連れていけ。さもなくば――」

「――いやだね!」


 ユレンはめいっぱい息を吸って、頭を後ろに振った。鈍い音がする。さすがに動揺したのだろう、ターレスの腕の力がわずかに緩んだ。


 その瞬間、ユレンは彼の腕から抜け出て、走った。何かが鋭く風を切る。すぐさまカシューが飛び出して、ユレンの背後に体当たりをかました。


 彼が体を張って弾き飛ばしたのは、ターレスが投げた短剣であった。短剣は木の幹にぶつかって、草の上に力なく落ちる。


 ユレンはその間に杖を見つけていた。あまり遠くに飛ばされていなくてよかった。茂みの中に埋もれる白銀を見て、安堵の吐息をこぼす。


 杖を手にしたユレンは、すぐに取って返した。杏色のねずみが、ターレスのまわりを走り回っている。


『ほれほれどうした。捕まえられるもんなら、捕まえてみやがれ』

「鬱陶しいねずみだ」


 舌打ちしたターレスが、腰の革帯ベルトに手を伸ばす。別の短剣を引き抜いて、振りかぶった。


 瞬間、ユレンが踏み込む。杖を鋭く突きこんだ。疾風のごとき一撃が、ターレスの手をしたたかに打つ。短剣が指を離れて、地に落ちた。


「カシュー!」

『おうっ』


 ターレスを挑発していたカシューが、ユレンの足もとにぴたりとつく。彼の優秀な探知機は、未だ動いていた。


 短剣を拾ったターレスが、一人と一匹をにらむ。


「その杖、補助具じゃなかったのか?」

「これも正しい使い方だよ。『いざという時は、身を守ることに使え』って、作った人たちが言ってくれたからね」

『なかなかいてぇだろ? 盾にもなる素材らしいぜ、こいつ』


 なぜかカシューが得意げに、杖を鼻先で示す。ターレスは、また舌打ちして、短剣を構えた。そのままじりじりと下がっていく。ユレンも、逃すまいとばかりに足をずらした。しかし、黒ずくめの元護衛の姿は、徐々に霧へと溶け込んでいく。


「やる気か? 普段でさえ杖が要るあんたが、この霧の中で立ち回れるとは到底思えないが」

「視界が悪いのは、あなただって同じでしょう」

「残念。俺は鍛えているんだよ」

「おれだってそうだよ」


 ユレンは口を尖らせる。同時、ターレスの姿が消えた。霧に隠れたわけではない。消える前、空気が鳴った。

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