第9話 淵と霧

 休憩を済ませた一行は、また森を進んだ。枝葉の密度がどんどん上がり、まだ日中であるはずなのにあたりは薄暗くなっていく。だが、青白い光が点々と道を照らしてくれるおかげで、足もとを心配する必要はなかった。不思議な灯火の正体は、草花だ。指先ほどの小さな花が密集して咲いていて、それら一凛一凛が光を放っているのである。このほかにも、浅いところではまず見ないような草や花がぽつぽつと生えていた。


「たすけて……」


 小さな声が進む先から聞こえてきたのは、そんな道を黙々と歩いていたときである。誰もが驚いて足を止めた。最初は空耳かとみんなが思っていたが、違う。


「たすけて……たすけて……」


 か細いささやきが、土を撫ぜ、枝葉を揺らす。レイトリーンが息をのんだ。


「助けを、求めている……? 誰かが迷い込んだんでしょうか」

『いや、ちげぇな。ありゃあふちの妖精だ』

「淵の妖精? どんな妖精ですか?」


 ターレスが歩み寄ってきて、ユレンの方をのぞきこむ。その表情は、未知の動植物を前にした少年のようだった。ユレンは意識して目もとを引き締め、二人を振り返る。


「“助けて”って言い続けることで人間をおびき出して、二度と出られないくらい深い穴に引きずり込む妖精だよ」


 レイトリーンが「実在するんですね……」と身震いした。その後ろでエイヴァが若干目を泳がせたような気がしたが、ユレンには真偽のほどはわからない。


『しかしなあ。こんな場所でそれをやる意味がわかんねえよ。木こりたちが入れる領域は、とうに超えてるぜ』

「うーん。もしかして……試練、だったりする?」

『……あ』


 カシューがぴたりと固まる。王女と護衛たちも「あっ」と声を揃えた。


 草木が揺れる。どこか遠くで、ぎえーっ、ぎえーっと鳥らしき声がした。しばしの沈黙の後、ターレスが指を鳴らす。


「そういうことなら、様子を確かめにまいりましょう。もちろん、引きずり込まれないよう、十分に距離をとって」

『兄さん、楽しんでねえか……?』


 上機嫌な男に、カシューとエイヴァが湿っぽい視線を送る。しかし、反対する理由もない。人間と〈竜の耳〉の一行は、渋々ながら声のする方へ歩いていった。


 獣道からわずかに逸れて、草木をかき分けていった先。声の発生源らしき場所を見つけた四人と一匹は、茂みに身を隠して、そちらをうかがった。ほんの少し開けた場所。丈の短い草がぽつぽつと生える中から、助けを求める声が響きつづけていた。


「リーン様。危険ですので、お下がりください」

「ありがとう。エイヴァたちも気をつけてね」


 まだ声の発生源からは距離があるのだが、エイヴァは主人をかばうような位置にいる。ターレスも結果的に王女の前に出ているが、彼の場合は使命感より好奇心が勝っていそうだ。もちろん、先陣を切っているのはユレンとカシューである。


「うん。多分、あそこだね。二人とも、何か見える?」


 ユレンは声をひそめて、王女の護衛たちに問う。彼の隣にやってきたターレスが、左手を額にかざした。


「妖精らしきものの姿は見えません。が……声のするあたりに、かなり大きな穴が開いています。森の獣が掘るような大きさではありませんね」


 べあくん殿のような魔物ならどうかわかりませんが、と呟きつつ、彼は腰に手を伸ばした。黒衣の下の武器が、わずかに音を立てる。


「助けて」という声は、やまない。


「これが試練だったとして、何が達成条件なのでしょう」

「順当に考えるならば、妖精を『助けだす』ことでしょうな」

「しかし、穴をのぞいたら引きずり込まれるのですよね?」

が本当に淵の妖精で、カシュー殿の説明通りなら、そうなりますな」


 護衛たちがささやきを交わす。どちらの声も尖っていた。もちろん、本人たちは真剣なだけで、口論をしているつもりはないだろうが。


 ユレンも、どうしたものか、と考える。一番安全なのは、無視して立ち去ることだ。しかし、これが試練だった場合、安全策が正解とは限らない。


「あの……」


 そよ風よりも小さな声掛けに、しかし全員が振り返った。ひかえめに挙手しているレイトリーンが、やや前のめりになる。


「穴をのぞかずに妖精さんを助け出すことは、できないでしょうか?」


 発言した本人を除く誰もが、顔を見合わせた。ターレスが頭をかく。


「もちろん、それができれば理想的ですが……例えば、どのような方法があるとお考えでしょうか」


 彼の問いかけは、王女に対するものとしてはやや刺々しかった。しかしレイトリーンは怒ることなく、真剣に考え込む。


「た、例えば……縄や紐を使って引き上げる、というのは……」

「申し訳ありませんが、あの大穴に垂らせるほどの縄や紐は、持ち合わせておりません」

「そ、そうですね。……あ、では、枝を使って長い梯子を作って、垂らしてあげるというのは?」

『簡単に壊されちまいそうだなあ。あいつ、国の兵士すら片手で引きずり込める力持ちなんだよ』

「枝では、心もとないですね……」


 レイトリーンがうなだれる。その様子を見ていたユレンは、うなりながら周囲に視線を走らせた。あ、と、ある一点に目を留める。


「あれなら、縄の代わりになるかも?」


 そう言って彼が指し示したのは、獣道の脇にわんさと生えている蔦のような植物だ。葡萄の蔓やキヅタよりも太く、葉の色がかなり濃い。


『確かに、ありゃあ結構丈夫だけどよ。淵の妖精を釣る縄にするにゃ、強度が足りないぜ』

「二、三本を編んでみたらどうかな? 実際、縄ってそうやって作られているでしょう?」


 それを聞いて、エイヴァとターレスが手を打つ。レイトリーンも瞳を輝かせた。


 手段が見つかれば、あとは行動するだけである。四人はさっそく、特に太そうな蔦を集めてきて、一生懸命編んだ。そしてこれは、レイトリーンの得意分野であった。「すっごく上手だね」とユレンがこぼせば、彼女は「時々、花冠などを作っているもので」とはにかみながら教えてくれた。四人がかりで太い縄を作り上げた後、ユレンは人差し指をぴんと立てた。


「ここでもう一工夫。好物で淵の妖精をおびき出そう。ただ縄を投げ入れたんじゃ、飛びついてくれないかもしれないからね」

「なるほど。しかし、好物というのは?」


 ターレスの問いに、ユレンは屈託のない笑みを返す。彼が指さしたのは、近くの木の根元に生えているヨゾラギンダケだった。


『あいつの好物、毒キノコと人の魂だからな』


 後ずさった王女をよそに、カシューが笑う。


「し、しかし、素手で触れない毒キノコなのですよね」


 レイトリーンが不安げにユレンとキノコを見比べる。そうなんだよね、と彼が返したところで、エイヴァが前に出た。


「……素手でなければよいのですね?」


 そう言った彼女は、荷物から分厚い手袋を取り出して、嵌める。どうやら、高熱や毒などを防ぐ魔法が施されているらしい。肌感覚でそれに気づいたユレンは、感嘆の声を漏らした。


 エイヴァは、少々緊張した様子でヨゾラギンダケを手に取る。それを縄の先端に巻き付けると、ユレンを振り返った。彼は小さくうなずく。


「あとは、これを穴に投げるだけ! エイヴァさん、ターレスさん、後ろで手伝ってくれる?」

「了解しました」

「もちろんです。力仕事はお任せください」


 ゴーグルを下ろしたユレンの声がけに、護衛たちはすぐさま応じた。ターレスが縄の半ばを、エイヴァがキノコを巻いていない方の先端あたりを持つ。


「いっせーの……せ!」


 三人で掛け声をかけあって、縄を振った。ヨゾラギンダケがくくりつけられた縄は、狙った通りの場所へ落ちていく。それまで絶え間なく響いていた声が、ぴたりとやんだ。同時に蔦の縄が大きくしなり、ユレンたちの両腕に驚くほどの重みがのしかかる。


「今だ!」


 ユレンは叫んで縄を引く。すぐに三人分の力がかかり、縄が跳ね上がった。釣れたのは毒キノコではなく、小さな豚のようななりをした、毛むくじゃらの妖精である。


『わ、わー! 本当に助けられたの、はじめてー!』

『うわあ、俺っちも初めて見たわ』


 天高く飛んだ淵の妖精を見上げて、カシューが呆然と呟いた。


 釣り上げられた妖精は、観念してユレンたちの前に立つと、試練達成を言い渡す。『ヤーデルグレイスを引っ張り出すんでしょ? がんばってね』と言い残して、大穴に飛び込んでいった。


 助けを求める声は聞こえない。一行は、化かされたような気分になりながらも、先へ進んだ。



 その後、森で一夜を明かし、さらに奥へと踏み込んでいく。


 道中に何度か『王族向けの試練』を課されたが、どれも平和な内容だった。高木の果実採集の手伝いや、魔物の巣の掃除、などという具合だ。一般市民や並みの兵士ならば平和とは思えないものなのだが、エイヴァやターレスは並みの兵士ではなかった。そして何より、森の民と親しいユレンやカシューがいる。そんな一行は、妖精や魔物や小人が課す試練をやすやすと越えていった。最初の試練が一番大変だったな、とカシューがこぼすと、全員がうなずいたものだ。


 そんな調子で半日が過ぎた。まさに未踏の地というべき森を進んでいる途中、ユレンはふと足を止める。――何かに呼ばれた気がした。


「ユレン様?」


 後ろから、澄んだ声が呼びかける。はっとしたユレンは、振り返って詫びた。


「ごめんなさい。なんでもないよ」


 頭を傾けるレイトリーンから視線を引きはがし、ユレンは歩みを再開する。震えそうになる体をなんとかなだめて。


 呼ばれた気がした。が、それは決して応えてはいけないものだ。


 さらに十分ほど歩いたところで、〈竜の耳〉が異質な音を捉えた。ユレンがすぐそれに気づいたのは、自分の外衣コートのポケットで丸まっていた彼が、急に飛び出してきたからである。


『こいつぁさすがにやべえぞ』

「カシュー、どしたの?」


 ユレンは首をかしげる。しかし、カシューから答えを貰う前に、言葉の意味を察した。彼が聞いたであろう音を、ユレンも拾ったからだ。


 出所ははっきりしない。だが、確かに響いてくる旋律。美しく、けれどか細く、哀愁を誘う――女性の歌声だった。


 王女たちも気づいたらしい。歩みを止めて、あたりを見回している。


「これは、一体――」

「っ、耳をふさいで! 聞いちゃだめだ!」


 ユレンは叫んだ。叫びながら、みずからも耳をふさいだ。依頼者たちはすぐさま案内人の警告に従う。しかし、数秒後、エイヴァが耳から手を離した。かと思えば、ふらりと歩き出す。


「エイヴァ?」

「……行かなければ」


 レイトリーンがとっさに彼女を呼んだ。しかし、呼ばれた方は答えない。口からこぼれ出たのは、誰に向けたものでもない、うわごとだった。にごった目をどこかに向けて、幽鬼のような足取りで進んでいく。


『ちっ、遅かったか』


 耳を畳んだカシューが吐き捨てる。彼は走りだそうとしたが、その前に動いた者がいた。


「待って、エイヴァ! そっちじゃないわ!」

「リーンさん!?」

『馬鹿、戻れ! 死にたいのか!』


 ユレンとカシューは、駆け出した王女をなんとか引き留めようとする。しかし、一歩遅く、彼女の背中は木立の先に消えていった。


『くそっ……追うぞユレン、兄さん!』

「うん――」


 ユレンとターレスは、すぐさま足を踏み出した。しかし、ユレンの方が急停止した。より正確に言えば、止まらざるを得なかった。


 突然、白が押し寄せてくる。一瞬地面がわからなくなり、大きくよろめいた。


『ユレン!』

「ユレン殿、大丈夫ですか」

「わ、と……ごめん、大丈夫」


 ユレンは、杖を支えになんとか体を保つ。駆け寄ってきたカシューとターレスに詫びて、体勢を立て直した。ふと顔を上げ――愕然とする。


「これって……」

「……霧、ですな」


 すぐ隣に立ったターレスが、厳しい表情であたりを見回す。


 彼の言う通り、周囲は濃い霧に覆われていた。つい先ほどまではなかったものだ。そして、このあたりで霧が出ることなど、めったにない。


水霊すいれいのしわざだな。たちの悪い悪戯か、それとも試練か……』


 カシューはひげを震わせながら、ユレンの足もとにぴたりとつく。ターレスがそれを一瞥した。


「先ほどの歌と何か関係があるのでしょうか」

『さあな。歌と霧、同じ奴がやったわけじゃあねえだろうが、手を組んで仕掛けてきた可能性はある』

「なるほど」


 ターレスはそれきり考え込んでしまった。一方のユレンとカシューは、周囲の様子をうかがってみる。乳白色の霧は晴れるどころか、どんどん濃くなっているようだった。


「リーンさんたちを追いかけなきゃいけないのに……どっちに行ったらいいか、わかんなくなっちゃったよ」

『落ち着け。さっきの歌は多分、水舞みずまいの妖精のモンだろ。だったら、水場のにおいを辿ればいい』

「そ、そうだね。なんとか探って――」


 鼻とひげを全力で稼働しているカシューを見て、ユレンもゴーグルを目もとまで下ろす。そのとき、土が鳴った。


「失礼、お二方。その前にひとつ、確認しておきたいことがあるのですが」


 ゴーグルの位置を調整していたユレンは、言葉に誘われ振り返る。片手を挙げたターレスが歩いてきていた。


「どうしたの、ターレスさん――」


 ――問いかけた瞬間、少年の視界から彼の姿がかき消える。風と、鋭いものが、肌を圧した。


『ユレン、下がれ!』


 カシューの警告。ほぼ同時に、ユレンの右腕と顔の右側に衝撃が走った。杖が跳ね飛ばされて、霧にのまれる。一瞬後、遠くで澄んだ音が響いた。


「あっ――」

「おっと、動かないで」


 反射的に踏み出しかけたユレンは、しかし凍りついた。胸の前に太い腕が回されて、首筋に冷たいものが触れる。


 口を開閉させた。なんとか空気を取り込んだ。出かかった声をのみこんで、背中の温度と突きつけられる殺気に意識を向ける。――現実を受け入れろ。でなければ、死ぬ。


「少しでもおかしな動きをしたら、胴と頭がお別れしますよ。気をつけてくださいね――〈翠蓋の森〉の案内人殿?」


 口をつぐんだユレンの背後で、ターレスが低くわらった。

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