第8話 王女の秘密

『うわ、くっせぇ!』


 べあくんが横転した後。ユレンの外衣コートのポケットから飛び出したカシューは、開口一番そう叫んだ。彼はぐうぐうとうめいている熊のもとへ一目散に駆け寄る。


『あれでおまえさんが負けたら笑ってやろうと思ってたんだがな……こりゃあ笑うどころじゃねえや』

「ハハッ……ご自慢の鼻を壊されぬようお気をつけくだされ、カシュー殿」

『なんだ、嫌味かそりゃ?』


〈竜の耳〉と森の警備隊長が、湿った笑い声を交わした。


 先ほどレイトリーンが採った植物は、このあたりでよく見かける、いわゆる雑草の一種だ。茎をつぶしたときに出る汁が独特の臭いを放つ。人間でも不快に思うものであるから、嗅覚が鋭いべあくんたちが苦手とするのも当然である。


 そして、今回の戦いの決定打となった、もうひとつの要素。レイトリーンが気づいたべあくんの弱点――魔紋まもんは、体内を流れるマナの色が表面に浮き出たものだ。人間の血管が皮膚の上からだと青く見えるのと似ている。そこを傷つけられるとより多くマナを消耗するため、魔紋を弱点とする魔物は多かった。


「魔紋を狙いやすいようにするため、王女殿下御自らが隙を作った、ということですね。いやはや、とても姫君の発想とは思えませんが……」

「ターレス殿」

「しかし、お見事でした」


 武器を回収しながら、ターレスはそんなふうに呟いた。はじめは彼をにらんでいたエイヴァも、賛辞の言葉を聞くと、黙ってうなずく。


「あ、ありがとう。あなたたちの役に立ててよかった」


 レイトリーンは丁寧にお辞儀をした。両耳がほんのり赤い。彼らのやり取りをほほ笑ましく見守っていたユレンは、それが一段落すると、レイトリーンに歩み寄った。いったん杖を脇で挟んで、革の水筒を掲げる。


「とりあえず、リーンさんは手を洗おうか」

「ユレン様」

「そのままだとかゆくなっちゃうから。臭いも取れなくなるしね」


 彼がせっせと水筒の口を開けていると、レイトリーンは後ずさった。


「い、いえ……わたくし一人のために、貴重なお水を使わないでください」

「いやいや。これはみんなのためだよ。それに、この先に水場があるから大丈夫」


 ユレンはにこにこ笑って、王女に手を出すよう促した。差し出された両手に、ゆっくりと水をふりかけていく。それだけでは汁が取り切れないので、時々軽くこすった。


 そうしている間、レイトリーンがべあくんたちの方を一瞥する。


「ところで、カシューさんは先ほどから何をなさっているのですか?」


 ユレンはつかの間顔を上げた。彼の相棒が、熊の前足まわりを歩き回っては、淡く光る体をこすりつけている。納得してうなずいた。


「べあくんの傷を治しているんだよ。いくら森の中とはいえ、あのまま放っておくのは危ないから」

「そのようなことができるのですか?」

「うん。カシューは、というか、〈竜の耳目〉はみんなできるはずだよ」


 正確に言えば、〈翡翠竜〉ヤーデルグレイスの〈目〉や〈耳〉は生物の傷を癒す力を使えるのだった。ユレンはカシューの能力しか見たことがないのだが、ほかの者たちも同じことができる、とは聞いている。


「それは初耳ですね。興味深い能力だ」

「人間の治癒魔法とは、少し違うように見えますね」


 護衛二人も、まじまじとカシューの方を見つめる。いつの間にか王女のそばに戻ってきていたらしい。


 そうしている間に、カシューの仕事も終わった。べあくんから離れた彼は、いつもと変わらぬ俊敏さで、ユレンの肩にのぼった。


『ふいー。疲れた疲れた』

「お疲れ様」

『おう。やっぱ魔物の再生は体力使うな。“試練”なんてよくわからんことを言い出すのは、これっきりにしてほしいもんだぜ』

「――すまぬな。苦情はぜひとも、ヤーデルグレイス様に直接伝えてくれ」


 今までより少し低いところから、べあくんの声が響く。横転した体を起こした熊は、立ち上がらないまま人間たちを見つめていた。


『その口ぶりだと、もう通ってよさそうだな?』

「ああ。おぬしらは俺の試練を乗り越えた。先へ進むがよい」


 彼は、ぐうっと顔を王女たちの方へと向ける。


「お二人とも、すばらしい戦いをありがとう。久しぶりに血が騒いだよ」

「はっ。こちらこそ、貴重な経験をさせていただきました。ありがとうございます」


 少々おどけたべあくんの賛辞に、エイヴァが胸に手を当てて応じる。ターレスは黙って、しかし深く頭を下げた。小さく笑った黒い熊は、「そして」と隣の少女を見上げた。


「レイトリーン王女。俺の弱点を見抜いた観察眼と、その知恵、そして自ら戦場に踏み出す勇気。見事であった」

「ありがとうございます」


 一礼したレイトリーンはしかし、表情を曇らせる。


「ですが……あなたの弱点を見抜いたのは、わたくしではありません」

「というと?」

「わたくしでも、ユレン様たちでもない……誰かの声が聞こえたのです。きっと、森が教えてくれたのだと思います」


 エイヴァが、はっと主人を振り返る。一方、ユレンとカシューは顔を見合わせた。


 レイトリーンは、周囲の反応を知らぬまま、かぶりを振る。


「ですから、わたくしの力で試練を乗り越えたとは言い難いのです」

「――それは違うぞ、ネフリートの王女よ」

「……え?」


 静かな否定に、王女は弾かれたように顔を上げた。


「確かに、魔紋のことを伝えたのは森かもしれぬ。しかし、その声を聞き、その声に従って動いたのはおぬしだ。まごうことなき、おぬしの力だ。それを否定するということは――おぬし自身と、ユレンの力を否定したことになるぞ」

「それは、どういう……」

「素直に誇ってよい、ということだ」


 べあくんは一言だけを残して、のっそりと立ち上がった。詳しいことを話す気はないらしい。茂みの方まで歩いて、人間たちに道を開ける。


「えっと……ありがとうね、べあくん」


 ユレンが黒い背に声をかけると、彼はちらりと振り返った。


「うむ。試練を用意しているのは俺だけではないだろう。重々気をつけてな」

『いや、ほかを把握してねえのかよ』


 カシューがすかさず指摘したが、べあくんは鼻で笑っただけだった。


 茂みのむこうに消えていく熊を見送る。『警備隊長』に文句を言う相棒をなだめたユレンは、改めて依頼者たちに呼びかけた。


「さ、行こう。水場に着いたら休憩しようか」

「は、はい」

「よろしくお願いいたします」

「食事の準備などありましたら、お手伝いしますね」


 三者三様の返答に、ユレンは口元をほころばせる。これから踏む道を杖で叩いて、歩き出した。――まだべあくんがこちらを見ていることには、気づいている。が、レイトリーンたちには内緒だ。



「シーナの力を継いだのは、三人目だったか。僥倖、と言うべきであろうな」


 彼の言葉は、〈竜の耳〉にすら聞かれることなく、緑の闇に溶けていった。



     ※



 しばらくして、一行は森の狭間を流れる小川を見つけた。まわりには座るのによさそうな大きさの岩や倒木がある。ここで休憩と水の補充を行うことにした。


 疲労に耐え切れず倒木に座り込んだレイトリーンのそばで、エイヴァが周囲に目を光らせる。ターレスがみんなで持ち寄った保存食を選別している横で、ユレンは小川から水を汲んだ。


 水筒を満たしたユレンが戻ると、いよいよ一行の空気が緩み、休憩時間らしくなった。休憩のお供は、ほんの少しの保存食。すりつぶした芋に豆や野菜を練り込んで棒状し、焼き固めたものだ。ユレンや護衛たちにとってはいつもの昼食とさして変わらないものだったが、王女であるレイトリーンには新鮮な食事だ。彼女が珍しそうに棒状の食べ物をながめているのを、ユレンはしばし見守った。


 ユレンが半分ほど自分の分をかじった頃、カシューが足に乗ってくる。あげた分の食事を全部頬に詰めたらしく、顔が少し変形していた。


『なあ、王女サマがたよ。ひとつ聞いてもいいか?』

「は、はい。なんでしょう」


 慣れない食事に四苦八苦していたレイトリーンがその手を止める。エイヴァとターレスも、杏色のねずみの方を見た。彼は『ちょっと踏み込みすぎかもしんねえけど』と気まずそうに前置きして、続ける。


『王女サマは、魔法が使えねえのか?』


 ――問いかけひとつで、空気が凍った。


 レイトリーンは全身をこわばらせる。ターレスは、無言のままカシューを見つめた。そして、王女の隣に立っているエイヴァは、顔をゆがめて武器に手をかけた。彼女の怒気を留めるかのように、レイトリーンが口を開く。


「……そうです。気づいていらっしゃったんですね、カシューさん」

『まあ、なんとなくな。森歩きでも試練でも、一回も魔法を使わなかったし。べあ公に魔法のことを言われてから、明らかに様子がおかしかったしな』


 レイトリーンがうつむいた。ユレンは、彼女の淡い金髪を見つめ、首をひねる。


「なになに、どしたの? 魔法が使えないのが、そんなにおかしなこと?」

『あのなあ。ネフリート王族は、代々みんな魔法使いなんだよ。カロの連中もよく話してるじゃねえか』

「そうだっけ?」


 ユレンも、魔法そのものは好きだ。魔法使いは尊敬している。だが、自分にその力はなく、そこに何のこだわりもなかった。そのため、誰が魔法を使えるとか使えないとか、そういう話にはあまり興味がないのだ。使える者は使える。使えなくても生きてはいける。それでよいではないか、と思っていた。


「……魔法使いであることが、ネフリート王族の誇り。また、魔法を使えることが、〈翡翠竜〉様に認めていただける条件のひとつだともいわれております。実際、父も兄姉も、卓越した魔法使いです」


 レイトリーンが打ち明けたのは、そんなユレンが触れたこともない世界の話だった。ヤーデルグレイスが王族の魔法の才能を気にしているなどという話も、初めて聞く。彼は知らず知らずのうちに身を乗り出して、王女の声に耳を傾ける。


「ですがわたくしは、未だに一切の魔法を使えません。城にある魔法関連の書物は、読めるだけ、繰り返し読みました。先生をつけていただき、マナを扱う練習を続けてもいます。ですが、何をいくらやっても、成果は出ません。大気からわずかな水を集めることすら、小さな明かりを灯すことすら、わたくしにはできないのです。できないまま……この年齢になってしまいました」


 語る彼女のほほ笑みには、自嘲の色がにじんでいる。


 ユレンは、なんと声をかけてよいのかわからなかった。ゆえに、ただ相槌を打った。人間たちが心をさ迷わせる一方、カシューはいつもの調子でひげと鼻を動かしている。


『んんー……マナは問題なさそうなんだがな……』

「はい……。それは、お父様や先生にもよく言われます」

『それにおまえさん、生まれた後にあるじのところに来てるだろ。そこで何も言われてなかったよな』


〈竜の耳〉に指摘されて、王女と護衛が顔を見合わせる。彼らが無言のやり取りをしている間、カシューは虚空を見つめて記憶を辿っていた。彼は、王が赤ん坊のレイトリーンを連れて竜のもとを訪ねたとき、そこにいたのだ。ユレンは、やや遅れてそのことに思い至った。


「さ、さすがにわたくし自身は覚えていませんが……変わったことを言われた、という話は聞いたことがありません」


 カシューが考え込んでいることを察したのだろう。レイトリーンが慌てて、そんなふうに答えた。カシューは『だよな』と呟いて、その場で立ち上がった。


『主はおまえさんを見て、何も言わなかった。つまり、第二王女も健康であり、魔法使いの才能があると判断したってことだ。さっきのおまえさんの論法が正しければ、〈翡翠竜〉に認められたおまえさんは魔法が使える、ってことになる』

「で、ですが……」

『ああ。現実として、おまえさんは今、魔法を使うことができない。体に何かが起きているのか、別の理由があるのかはわかんねえけどな』


 カシューは言うだけ言って、毛づくろいを始める。レイトリーンとエイヴァが緊張した様子でいても、お構いなしだ。そのうち、エイヴァが半歩踏み出した。


「べ、別の理由とは、一体なんなのです? それがわかれば、リーン様は魔法を使えるようになるのですか?」

『さあなあ。そこまでは、俺っちには何とも』


 エイヴァが歯を鳴らした。こちらは真剣なんだ、とその横顔が語っている。ユレンは、王女の護衛と相棒を見比べた。そうしているうちに彼は毛づくろいを終えて、大きなあくびをする。


『そんなに気になるんだったら、主に直接訊けばいい。歴代王族みんなと顔見知りだし、会えばわかることもあんだろ』


 投げやりな返答に、追及する気すら削がれたらしい。エイヴァはしばし固まったのち、不服そうに引き下がった。そんな彼女にターレスが「まあ落ち着いて」とささやく。


 食事を進めながらその様子を見守っていたユレンは、保存食を食べ終えると、軽く手を叩いた。


「えーと、つまり」


 よくとおる声に誘われて、全員が少年の方を見る。彼は、春先の太陽のごとくほほ笑んだ。


「――〈神樹〉に行く理由が増えた、ってことだね!」


 誰もが唖然としてユレンを見た。乾いた沈黙を破ったのは、カシューの『ま、そういうこった』という一言であり、王女の笑い声であった。


 口もとを手で覆い、目を細める彼女は、肩の力が抜けたようである。


「ええ、ユレン様の仰る通りです。引き続き、案内をよろしくお願いします」

「任せて」


 ユレンは、小さな拳で胸を叩いた。

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