第7話 試練 2

 ユレンたちは、そんな戦いを少し離れたところから見ていた。もちろん、ユレンには何が起きているのかさっぱりわからない。けれど、両者一歩も譲らぬ戦いをしていることだけは感じていた。


 エイヴァはきっと全力を出している。一方、ターレスは少し力を抜いているのだろう。そして当然、べあくんも手を抜いていた。本気の彼にかかれば二人は落ち葉同然に吹き飛んでしまうだろうから。それをしないのは、試練だから、というのもあるのだろう。けれど、一番の理由はきっと――戦いの前にカシューが言った通りだ。


『まったく、困った警備隊長だぜ。森の中で派手にやりやがってよぉ』


 ユレンと似たようなことを考えていたのだろう。カシューが、ポケットの中から顔を出し、呆れたように呟いた。ユレンは思わず苦笑する。


 試練の会場に目を戻す。そこでユレンは気がついた。草と土埃が飛び交う中に、少女がひとりで佇んでいることに。


「リーンさん! もうちょっと離れた方がいいよ!」

『ユレンの言う通りだぜ。思ったより規模がでかくなりそうだ』


 声を張った少年に倣って、〈竜の耳〉も叫んだ。二人の声が聞こえたのだろう。レイトリーンは目覚めたように振り向いた。その立ち姿からは、戸惑いの色がにじんでいる。


「で、ですが、わたくしは――」


 彼女は何かを言おうとした。しかし、そこにふっと影が差す。べあくんの大暴れに巻き込まれた太い枝が飛んできたのだ。


「危ないっ!」


 ユレンは杖を放り出した。レイトリーンのもとに飛び出して、その手を引く。よろめいた彼女の足もとに枝が突き刺さった。あと少し、動くのが遅かったら、顔に当たっていたかもしれない。やっとそのことに気づいたのだろう、レイトリーンの顔から血の気が引いた。


「大丈夫?」

「は、はい。……申し訳ありません」

「気にしないで。それより、いったん退避しよう」


 レイトリーンの手を引いて、ユレンたちは木陰に戻る。細い手指が震えていることを知ったが、少年は何も言わなかった。杖を拾って、土を払う。態勢を立て直して、ようやくうつむいている王女を振り返った。


「あ、さっきはさえぎってごめんね。なんて言おうとしてたの?」

「そ、それは……その……」


 レイトリーンは、さらに縮こまってしまった。それでも、胸の前で両手を握って声を絞り出す。


「この試練の挑戦者は、わたくしですから……わたくしも、何かしなければいけない、と思うのです」


 彼女は、うつむけていた顔を護衛たちのいる方へ向けた。ユレンもその視線を追う。相変わらず視界はいつも以上にかすんでいて、白黒の影を捉えることは難しい。


「ですが、わたくしがあの戦いに割り込んだところで、足手まといにしかなりません。かといって、ほかにできることもない。戦うことも、強さを証明することも、できそうにありません」


 どうしたらいいかわからない、という王女の悲痛な告白は、激しさを増す試練のただ中にあって、やけにはっきりと響いた。ユレンは黙って、彼女と同じ方を見る。


 慣れ親しんだ場所の空気は、いつもよりどこか冷たくて。緑のにおいはずいぶんと淡い。それでも五感を研ぎ澄ませば、いつもと変わらぬ営みの音が、香りが、感触が伝わってくる。どれほどかたく門扉を閉ざしても、その隙間から漏れてくる温かさを、すべて閉じ込められるわけではないのだ。


「――武器を振るって、魔法を使う。それだけが戦うってことなのかな。それだけが、強さなのかな」


 ふと、ユレンは呟いた。「え?」と素っ頓狂な声がする。目を開けると、まじまじとこちらを見つめるレイトリーンと目が合った。


「あのね。多分、なんだけど。〈翡翠竜〉も今、戦っているんだと思うんだ」

「〈翡翠竜〉……ヤーデルグレイス様が?」

「うん。いつも以上にぴっちりと森を閉じて。そこに住むみんなに、慣れない命令なんてして。何かの『異変』から森を守るために戦ってる。そんな気がするんだ。そのやり方が合っているのかどうかはわからないけど、とにかく彼なりに、今できる戦法で立ち向かってる。なんか、それが、彼らしいな、かっこいいなあって思うんだよ」


 話しているうちに、自然と笑みがこぼれた。なんとなく恥ずかしくなって、適当におどけて頬をかく。王女が何を感じたのか、ユレンにはわからない。返事や相槌はなかったが、彼女はじっと彼の方を見ていた。


 そのとき、カシューが身を乗り出す。同時、轟音が大地を揺らした。


『うぉっ! あれはさすがにやばいんじゃねえか!?』


 彼の悲鳴に引きつけられて、ユレンとレイトリーンは音の方を振り返る。頭を振ったべあくんに、女騎士が吹き飛ばされていた。


「エイヴァ!」


 レイトリーンが悲鳴を上げる。ユレンも無意識のうちに、最悪の想像をしていた。けれど、想像通りにはならなかった。エイヴァは受け身をとって、すぐに立ち上がる。傷を負った様子はない。それを確認したレイトリーンが、胸をなでおろした。


『“死なない程度に手加減する”ってのは守ってんだな、べあ公』


 カシューもしみじみと呟く。


 そのとき、ユレンたちのまわりに地霊たちが現れた。いや、枝の間などに身を隠していただけで、今までもずっといたのだが、隠れるのをやめたらしい。


(熊がんばれ)

(人間がんばれ)

(いい動き。たのしい動き)

(いやいや、まだまだ。甘すぎる)

(熊さん、熊さん。足の紋はだいじにね)

(足の紋はだいじだね。大地とつながっているものね)


 彼らは好き勝手なことを言い、歓声を上げている。さながら祭りの観客だ。


『やれやれ。王女サマご一行が大変なときに、のん気な奴らだぜ』

「あ、あはは……。ここって、めったに人が入ってこないから、みんな珍しがってるんだろうね」


 ぷるぷると頭を振ったカシューに、ユレンは引きつった笑みを浮かべる。


「戦う以外の強さ……自分なりの、戦法……?」


 レイトリーンがぽつりとささやく。かと思えば、振り返った。いきなり地霊の話をしたので驚いただろうか、と、ユレンは慌てて説明しようとした。しかし、王女はすぐに少年から視線を逸らし、あたりを見回しはじめる。


「リーンさん?」


 声をかけても返事はない。よっぽど集中して、何かを探しているようだ。ややして、レイトリーンは近くの木の根元に駆け寄った。しゃがみこみ、ユレンを見上げる。


「ユレン様。べあ様は、においに敏感なお方でしょうか?」

「え? それは、まあ……おれたち人間よりは、ずっと敏感だと思うよ」

「なるほど。……ありがとうございます」


 ユレンは、翡翠色の目をしばたたいた。彼が脈絡のない問いに戸惑っている間に、レイトリーンはみずからの足もとを指さす。


「こちらに生えている草をいただいてもよろしいでしょうか」

「い、いいけど……。なるべく根っこは採らないようにね」

「気をつけます」


 言うなりレイトリーンは、小さな草むらの中の植物を摘んだ。かたい茎と細長い葉が印象的なそれを何本かまとめて、自分のかたわらに置いた。それから、近くの土を適当につかむ。白い手が汚れることにも構わず、土を手早くまとめ、ゆるめの球状に成型した。


 土の団子を右手に持ったレイトリーンは、左手で先ほどの草を拾う。そして――それを握りつぶした。


 およそ王女というものの印象からかけ離れた行動に、ユレンたちは絶句する。彼らが固まっている間にも、レイトリーンは植物をぐっと握りこみ、手の中で丁寧にすりつぶす。そして、緑まみれになった手を、団子とすり合わせはじめた。


 このあたりで、ユレンとカシューは彼女の意図を察する。まっさきに動いたのは、ねずみと同等の鼻を持つカシューであった。


『おいユレン。俺っちは避難させてもらうぜ』


 言うなり、相棒の返事を待たず、ポケットに潜り込んだ。いまだ呆然としているユレンの前で、レイトリーンが立ち上がり、走り出す。そのときになって、彼はとうとう吹き出した。


「よく気づいたなあ。――それ、べあくんが一番苦手なやつだよ」



 少年の呟きを知らぬまま、レイトリーンはひたすらに走った。べあくんに注視されないように気をつけながら、彼の巨体に近づく。そして、めいっぱい息を吸った。


「エイヴァ、ターレス! 彼の足を――足の『魔紋まもん』を狙ってください!」


 先ほどまでとは別人のような声が、森を揺らした。同時、声の主は片足を引いて体をひねり――右手に持った土の団子を振りかぶる。


「えいっ」


 熊がそれを見た瞬間、レイトリーンは団子を投げた。いびつな孤を描いて飛んだ団子は、狙いよりやや左に逸れて着弾する。べあくんが、今までにないくらい、目を見開いた。


「ぬぅっ……こ、れは……!」


 苦悶の声が漏れる。同時、風に乗って、巨人のおならに植物特有の青臭さを混ぜたようなにおいが、そこらじゅうに広がった。


 熊は激しくかぶりを振る。


 今までで一番大きな隙を、エイヴァとターレスが見逃すはずもない。お互いに目配せした二人は、それぞれ左右の前足めがけて駆け出した。そして、同時に武器を振るう。


 長剣による突きと、投げられた短剣。それらは、左右の足の白い文様を的確に捉えた。ぶつり、と縄が切れるような音。野太い熊の雄叫び。それが重なりあったのち、黒い体が傾いて。


 次の瞬間、森の一角に地響きがとどろいた。

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