第二章

第6話 試練 1

 ユレンたちの前に立ちふさがった熊は、よく見るおとなの熊よりもさらに大きかった。顔まわりや足には白い文様のようなものが走っている。両目は朧な光を放っていて、そのまわりを魔法の源――マナが漂っていた。


「魔物か!」


 熊の正体を言い当てたエイヴァが、外衣コートを脱ぎ捨てる。白と青緑でまとめられた近衛隊の制服が露わになった。突如現れた色彩に驚いていたユレンは、抜剣の音で我に返る。


「ま、待って待って!」


 誰にともなく叫んだユレンは、熊の方へ一歩踏み出した。


「べあくんってば、こんなところで何やってるの!? お客さんがびっくりしちゃうよ!」


 少年の悲鳴に、王女たちが呆気にとられる。戦う気満々だったエイヴァですら、わずかに剣を下げていた。


「べ、べあくん……?」

「お知り合いですか?」


 珍妙な名前を繰り返した護衛の後ろで、レイトリーンがおずおずと手を挙げる。彼女の問いに答えたのは、少年の背中にのぼったカシューだった。


『この森の警備隊長、みたいな奴だよ。魔物や妖精が好き勝手しねえように見回ってるんだ。普段はもうちょい奥にいるんだが……。あ、ちなみに“べあくん”ってのは、ユレンが勝手につけたあだ名だ』


 丁寧な解説を終えた〈竜の耳〉は、ユレンの肩によじ登って熊を見る。


『よう、べあ公。こんなところで何やってんだ』

「ヤーデルグレイス様の命令で、ここにいる。今の俺は門番だ」

あるじの? 何を言われたんだよ』


 カシューの声が一段低くなった。先ほどの地霊とのやり取りを思い出したのだろう。ユレンも思わず顔をしかめる。


 ふたりの予感は的中した。『べあくん』が、視線を彼らの背後に投げる。


「『外から来た者を通してはならん』と」


 ユレンは息をのんだ。カシューも、ジジッ、と威嚇の声を漏らす。


『おい待てよ。そりゃまさか、俺っちたちも含まれてんのか?』

「むしろ、おぬしらを意識しての命令だろうな。『ユレンたちも今は入れるな』と言い含められている」

「な、なんで……!」

「理由は聞かされていない。予想はつくがね」


 ユレンはぐっと詰まった。声を荒げて反発したいのをこらえる。依頼人の前だ。あまり幼稚な姿を見せない方がいい。


「俺とて、おぬしらを追い返すのは心苦しい。カシュー殿のご不興をこうむりたくはないしな」

「それでも通せない、ってこと?」

「うむ。……このご命令も、長くは続かないだろう。どうか堪えてくれ」


 ユレンとカシューは、思わず顔を見合わせた。


 先ほどの地霊と同じだ。『森の異変』の原因に少なからず心当たりがある。が、それをユレンたちには明かさない。それはそれとして、〈翡翠竜〉ヤーデルグレイスの態度に困惑しているようでもある。


 ユレンは呼吸を整えて、大きな熊をしかと見つめる。


「あのね、べあくん。今日のおれは案内人として来たんだ。レイトリーン王女が、ヤーデに会いたがっているんだよ」

「存じている。〈竜の目〉たちがすべて見ていた」

『おいおい、マジで言ってんのか?』


 カシューが後ろ足で立ち上がった。耳が忙しなく動いている。


 ネフリート王族の出入りを、正当な理由なく拒むのは盟約違反だ。彼がそれを指摘すると、べあくんは困ったように歩き回った。それから、つと頭を上げる。


「……待てよ。ユレン、おぬし、自分は案内人だと言ったな」

「ん? うん、そうだよ」

「それならば、少し話が変わるやもしれん」

『あ? どういう意味だ、そりゃ』


 首をかしげるユレンの横で、カシューが疑問を言葉にする。熊は少し考えたのち、この場の全員を見た。


「もうひとつ、ヤーデルグレイス様から言いつけられていることがあるのだ。『もし、パトリックかその子が来たならば、試練を与えよ。奴らがその試練を乗り越えられたなら、通していい』と」

「試練?」


 人数分の声が揃う。ユレンは、レイトリーンを振り返った。


「そういう決まりがあるの?」

「いいえ……聞いたことがありません」


 レイトリーンは慌てた様子でかぶりを振る。エイヴァも、「私も存じ上げません」と眉を寄せた。ターレスも当然のように首を振っている。


 カシューが嫌そうにため息をついた。


『まーためちゃくちゃなこと言い出したな、主は』

「きっと、あのお方なりに見極めたいことがおありなのだろう。それに、おぬしらにとっても悪い話ではない」


 あ? とカシューが剣呑な声を上げる。ユレンも両目をしばたたいた。


『王女が試練を乗り越えられれば、おぬしらのことも通してやれる』

「えっ、でも、入れるなって言われてるんじゃ……」

「『ユレンたちを入れるな』とは言われているが、『王女の案内人を入れるな』とは言われていない」

『屁理屈じゃねえか』


 カシューの指摘を、べあくんは聞き流した。言葉の代わりに重いまなざしを一行に注ぐ。


「試練というのは、一体何をするものなのです?」


 ターレスが慎重に問うた。大柄な熊はそれに対して、あっけらかんと答える。


「試練の内容は、我々森の民に一任されている。俺の試練は単純だ。俺と戦うこと。達成条件は、強さを俺に見せることだ」


 それを聞いて、一同はたじろいだ。彼らの困惑を察したのか、べあくんは淡々と言葉を足す。


「とはいえ、うら若き乙女にいきなり武器を持てとは言わん。戦うのは護衛の二人でいい。……もちろん、王族お得意の魔法を使ってもらっても構わんよ」


 べあくんの最後の言葉に、レイトリーンが全身を震わせる。ユレンには彼女の表情がよく見えなかったが、ぴりりとした沈黙から、彼が王女の何かを刺激してしまったことは察した。ただ、口出しするのも違う気がして、「どうしよう?」と聞くにとどめておく。


 エイヴァとターレスが、心配そうにレイトリーンを振り返る。身を固くして考え込んでいた彼女は、細くため息をついた後、顔を上げた。


「エイヴァ、ターレス。……力を貸していただけますか」


 二人は軽く目をみはった後、恭しく低頭する。


「御意」

「ご満足のいく戦いをご覧に入れましょう」


 調子のいいことを言ったターレスを、エイヴァが横目でにらむ。しかし彼は気づいた様子なく、外衣コートを脱いだ。近衛騎士と違い、黒一色の質素ないでたちである。しかし、腰には太い革帯ベルトを二本巻いていて、小さな武器がいくつも提げられていた。そのうちのひとつ、短剣を抜いた彼は、熊に向き直る。エイヴァもそれに倣って、再び剣を構えた。


 二人の様子を見たべあくんは、満足そうに「よし」と呟く。


「言っておくが、ユレンとカシュー殿は手出し無用だ」

「わ、わかったよ」


 大丈夫だろうか、と思いながらも、ユレンは彼らから距離を取った。とりあえず木の幹にすがった彼のかたわらで、カシューが『楽しんでやがるな、あいつ』と吐き捨てる。


 人間二人と大きな熊が向き合う。人間の方が武器を持っているとはいえ、普通なら勝敗は明らかである。だが、二人に怯えの色はなかった。


「どこからでもかかってくるとよい。死なない程度に手加減してさしあげよう」

「舐められたものだ」


 小さく吐き捨てたエイヴァが、地を蹴った。


 べあくんが左前足を持ち上げる。そこへ、光るものが飛んだ。ターレスが投げた暗器だ。黒い足がそれを薙ぎ払った瞬間に、女騎士ががら空きの胴へ飛び込んだ。


 エイヴァは剣を振り上げる。斬撃は、確かに熊へと届いた。しかし、分厚い皮膚を傷つけるには至らない。太い毛が何束か、宙に舞った程度だ。


「なかなかやるな。リック坊が、娘の護衛に選ぶだけはある」


 べあくんが、楽しそうに呟いた。エイヴァは答えず、歯噛みしながらも飛びのいた。一瞬後、熊の前足が地をえぐる。続けて足を振り下ろそうとしたべあくんは、けれど寸前で軌道を修正した。目を狙って放たれた短刀を、蠅を払うような動きで弾く。


「かたじけない、ターレス殿!」

「いえいえ。……さっきは、いい一撃が入ったと思ったのですが」


 飄々と応じた歩兵部隊の男は、けれど冷たいまなざしを熊に向けた。


「もう少し手数を増やしてみますか。いけそうですか、エイヴァ殿」

「無論」


 今度はエイヴァが先に動いた。熊が前足を振り上げるのを見越して、その足に斬撃を叩きこむ。彼女は、その結果を見届けることもせずに、敵の下を転がった。そのまま死角へ回り込み、続けざまに剣を叩き込む。釘を槌で打ち込むように執拗な攻撃を加えているうち、エイヴァは手ごたえを感じた。いら立ったようなうなり声が聞こえ、熊の顔が彼女の方を向く。


 そのとき、また別の斬撃が、下から熊を襲った。それまで援護に徹していたターレスが踏み込んできたのである。右手に片手剣、左手に短剣を持った彼は、人の目で追えないほどの速さで剣戟を叩きこみ続けた。


「むんっ」とうなった熊は、ターレスに向かって右前足を振り下ろした。そのまま草と土をかいて、ついでのようにエイヴァの方へ投げつける。彼が足を振りかぶると同時に飛びのいていたエイヴァは、すんでのところで意地の悪い攻撃をかわした。


「ターレス殿! ご無事ですか!」


 エイヴァは、立ち込める土煙に向かって呼びかける。間もなく、その中から漆黒の影が飛び出した。


「なんとか。いやはや、危ないところでした」


 軽い返答は、ややしゃがれて響いた。奇跡的に無傷のターレスは、敵の動きに警戒しながら距離をとる。それから、また別の方向へと駆けだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る