第5話 森の異変

 森の入口とされている場所は、一見木立のようだった。奥は薄暗くてよく見通せない。だが、道は確かにそこへ伸びていた。


 多少なりともひるんでいる依頼人たちをよそに、ユレンはさっさと木立へ分け入る。そして、彼らを手招きした。


 道とも呼べぬ木々の狭間を歩く。根をまたぎ、枝を払って歩いていると、寒気とも怖気おぞけともつかぬ感覚が一行の間を駆け抜けた。ヤーデルグレイスの領域に入った証だ。〈竜の目〉や地霊たちが来訪者を観察し、この森に不要なものを払いのけているのだという。エイヴァなどは気味悪そうにしていたが、事実を知っているユレンは平然としていた。


 寒気に負けず歩きつづけると、少し視界が開ける。生い茂る木々の間隔が広がり、下草が見通せるようになり、獣道が現れた。


「わあ……!」


 レイトリーンが歓声を上げる。淡白な護衛たちも、このときばかりは息をのんで、森に見入っていた。


「なんと豊かな森か。とても異変が起きているようには見えない」

「ここはもう〈翡翠竜〉のお家だからね。今の外と違って、竜の加護が行き届いているんだよ」


 しみじみと呟いたターレスに、ユレンは淡々と答えた。杖で慎重に周囲を探りながら、足を踏み出す。この分だとゴーグルはなくても大丈夫そうだ、と判断して、目の覆いを上にずらした。


「こ、これは……!」


 後ろの方から上ずった声が上がる。ユレンは「ん?」と振り向いた。レイトリーンが何かに釘付けになっているようだった。


「図鑑で見た植物がたくさん……! あら、あれはリスさんかしら。見たことない種類の子ね」

『あー……まあ、王女サマにとっちゃ、珍しいよなあ』

「はっ、これは希少なヨゾラギンダケ!? 乾燥させて軸の部分を炒って粉末にすると腫れを抑える薬になるという……」


 少女の喜びの叫びは、カシューの乾いた呟きすらもかき消した。彼女の視線の先にあるのは、青黒い傘に白銀色の斑点が散っているキノコだ。彼女の言葉でそれに気づいたユレンは、さすがに声を張った。


「その通りだけど、そのままでは毒キノコだから。素手で触らないでね」


 ユレンの大声に驚いたのか、その言葉にはっとしたのか。レイトリーンは、ヨゾラギンダケから手を引いた。頬を染めて、恥ずかしそうに追いついてくる。


「も、申し訳ありません。つい興奮してしまって。わたくしは、仕事のためにこちらへ参ったというのに……」

「大丈夫だよ。怪我さえしなければね」


 にっと笑ったユレンは、歩みを再開する。人数分の足音を聞きながら、歌うように言葉を繋いだ。


「それに、ヤーデ……〈翡翠竜〉は、この森に興味を持ってくれる人が大好きなんだ。もちろん、それで森を傷つける奴は許さない! ってなるけど。リーンさんみたいに楽しんでくれる人は、彼にとっても嬉しいお客さんだと思うよ」


 レイトリーンは驚いたように目をみはり、視線をさまよわせる。先ほどの自身の振る舞いが、そんなに恥ずかしいのだろうか。


「そ、そうでしょうか……?」

『おうよ。今のうちにめいっぱい楽しんで、その姿をあるじに見せつけてやれ。そしたら、少しは機嫌を直すだろうよ』


 もぞり、とポケットから這い出たカシューが便乗する。レイトリーンは、ようやっと口もとをほころばせた。


 ユレンの頭上までのぼったカシューは、そのまま王女を見下ろした。


『にしても、案外詳しいな、王女サマ。植物が好きなのか?』

「は、はい。花や草木を見るのは、昔から好きです。彼らに囲まれていると、安心するので」


 レイトリーンは胸の前で手を組む。なんとなく緊張しているふうだった。


「本当に……時々ですけど。彼らが話しかけてくれているように、感じることがあるんです。上手く説明できなくて……エイヴァ以外の誰にも、信じていただけませんけれど……」


 むむ、とカシューが声を漏らす。ユレンも思わず頭を上げそうになって、こらえた。代わりにレイトリーンの方を向く。


「あると思うよ、そういうの」

「驚かれない、んですね」

「うん。おれだって、地霊や水霊すいれいとお話ししてるもの」


 レイトリーンがえっ、とこぼす。それまで黙っていた護衛たちも、わずかにざわついたようだった。


 地霊というのは、ある土地に宿り、その土地を守ったりその土地の自然に親しんだりするもの。水霊は、決まった水場――湖や川などに棲むものだ。風に乗って世界中へと渡り気候に影響を及ぼす、天霊てんれいと呼ばれるものたちもいる。彼らは、ほとんどの人の目に見えない存在だ。魔法使いや研究者は『精霊種しょうりょうしゅ』という名前でひとまとめにしているようだが、ユレンにはそのあたりはよくわからない。


「地霊たちの声が聞こえるのですか?」

「うん。姿も見えるよ」


 答えると同時、ユレンは小さな老人がそろそろとレイトリーンに近づいていくのを見つけた。思わず指をさす。


「そこに森の地霊がいるよ。リーンさんのことが気になってるみたい」

「ええ?」


 素っ頓狂な声を上げたレイトリーンは、自分の足もとを見下ろす。彼女の目には土と石と落ち葉しか映っていないのだろう。老人と視線が合わない。が、「こんにちは……?」と挨拶をしていた。老人は相手の戸惑いなど気にもせず、ぐ、と拳をつくって持ち上げる。彼の低い声を聞き取ったユレンは、すぐさま通訳した。


「『お久しぶりです、お嬢。立派になられましたな』だって。お知り合い?」

「え? あ……生まれて間もない頃、両親が第三子誕生の報告をヤーデルグレイス様になさっているので……そのときに、連れてこられたんだと思います」

「なあるほどお」


 そういうものがあるのか、とユレンは軽く考えていた。一方のレイトリーンは、しょんぼりとうつむく。


「ごめんなさい。わたくしがきちんと魔法使いになれたなら、あなたともお話しできたかもしれないのに」


 それはほんのかすかなささやきで、ユレンには聞こえていなかった。しかし、老人の返答はばっちり耳に届いたので、内心疑問に思いながらもそのまま伝えることにした。


「『お気になさりますな。ネフリート王家の血縁であっても、我々の声を聞ける者はごくわずかです』って」


 レイトリーンは、息をのんで少年と地面を見比べた。その様子を見たユレンは、老人の頭上あたりを指さす。事情が事情だ、失礼だと咎められることはないだろう。王女はすぐに、彼の指さしの意味に気づいたらしい。示されたところをしっかりと見て、頭を下げる。


「……ありがとうございます」


 その声は、わずかに震えていた。地霊の老人もそれに気づいたのだろう。慰めるように彼女の足を叩いた。そうしながら彼が呟いた内容に、今度はユレンが目を丸くする。


「『ユレンおれみたいなのの方が珍しい』って? そうなの? ……そんな顔しないでよ。おれだって、町に出てから見える人がいなくてびっくりしたんだから」


 老人は、やれやれと言わんばかりに首を振る。当然、その姿はレイトリーンたちには見えていないのだが、彼女はユレンの言動からその様子を察したらしい。ふふ、と小さく笑い声を漏らした。――後ろでターレスが難しい顔をしていることには、二人とも気づいていなかった。


 ユレンと老人の『じゃれあい』が一段落したところで、それまで大人しくしていたカシューが顔を出す。


『ちょうどいいから、ひとつ聞きてえんだがよ。おまえさん、ここ最近、あるじに会ったか?』


 レイトリーンとエイヴァが、はっと表情を引き締めた。


〈竜の耳〉の問いに、老人は首を振る。ユレンは、肩まで下りてきたカシューと顔を見合わせた。


「じゃあさ、何か森で変わったことはなかった? どんな小さなことでもいいんだ」


 その問いに――老人は、びくりと震えて固まった。それから、今度は激しく首を振る。頭が吹っ飛んでいきそうな勢いだ。ユレンはその態度を追及しない代わりに、眉を寄せて黙り込む。


 明らかに何かを隠しているふうだ。同時に、おびえているようでもある。あまり刺激しない方がいいだろうか。


『何をそんなにびくびくしてんだよ。主に何か言われたか?』


 気を回していたユレンをよそに、カシューがあっさり踏み込んだ。驚いた少年は、止めることもできずにねずみと老人を見比べる。


 老人はまた、首を振った。それから、もぞもぞと口ひげを動かした。


「『何も言われてはいない。が、気になることはある』……?」


 レイトリーンたちにも伝わるようにと、ユレンが彼の言葉を口に出す。老人は、うなずいて続けた。


「『ヤーデルグレイス様は、このところ、気が立っておられる。外の世界をひどく警戒しておられるようだ』……外を警戒? ヤーデが?」

『マジで引きこもってんのか』


 カシューが背を丸めて目を細める。地霊は、私らも参っとるんですわ、と頭をかいた。それを見たユレンは、肩をすくめる。


「ヤーデの様子がわかっただけでも収穫だよ、ありがとう」


 地霊の老人は、ほっとした様子で手を振って、木々の狭間に消えていった。完全に見えなくなるまで見送って、ユレンは王女たちを振り返る。


「……というわけで、やっぱり何かあったみたいだ。その『何か』は教えてもらえなかったけど」

「人間に友好的なヤーデルグレイス様が、外を警戒していらっしゃるだなんて……。どんな大事が起きたんでしょうか」

「さっきの地霊の話だけじゃわからない。もうちょっと進んで、情報を集めてみよう」

「わかりました」


 王女が答え、護衛たちも追随するようにうなずく。一行は、先ほどよりもやや重い空気の中で、歩みを再開した。


 異変が起きたのは、それから半時間ほど歩いたときであった。


「みんな、疲れてない?」


 ユレンはふと、依頼人たちを振り返る。護衛二人は問題なさそうだったが、レイトリーンが少し縮こまっているように見えた。それでも彼女は「大丈夫です」と答える。しかし、エイヴァが身を乗り出した。


「リーン様。お顔色がよろしくないようですが……」

「本当に大丈夫。少し考え事をしていただけだから――ひゃっ!?」


 突然、視界からレイトリーンの姿が消えた。そのように、ユレンの目には見えた。実際は木の根につまずいてよろけたらしい。彼が少し前に「根っこが張り出してるよ」と忠告してまたいだものだった。


 エイヴァとターレスがとっさに支えたので、王女は転ばずに済んだ。ただ、明らかに落ち込んでいる。


「ああっ……ごめんなさい……」

「謝らないでください。それより、お怪我はありませんか」

「ないです……。ありがとうございます」


 彼女はすぐに自分の足で立ったが、先ほどまでよりさらに小さくなってしまった。外衣コートのポケットに潜んでいたカシューが、鼻をひくひくさせながら出てくる。


『森を歩きながら考え事してる時点で、疲れてる証拠だぜ。このまま進むのは危険だ』

「そうだね。どうせそろそろお昼時だし、一回休憩にしよう」


 ユレンは、腰の水筒を軽く揺らす。荷物を広げられそうな場所を探そうとして、しかし動きを止めた。


 風が、木々のざわめきがやむ。地霊たちが慌てた様子で木陰に身を隠す。獣のにおいが鼻をつき、遠くから――何かの音が、近づいてきた。


「案内人殿?」


 訝しげにユレンへ声をかけたエイヴァ。しかし、彼女もすぐに身構えた。そのそばで、ターレスが「おやまあ、これは……」と顔を引きつらせる。彼らも異変に気が付いたのだ。


 全員の視線が道の先に集中したとき。がさり、と乾いた音を立てて茂みが揺れた。そのむこうから、大きな影が現れる。


「なっ……」


 護衛たちが、叫びともうめき声ともつかぬ音を漏らした。


 黒茶の体毛。四足歩行の、ずっしりとした体の獣。突如現れ、一行の前に立ちふさがったそれは――熊だった。

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