第12話 妖精の舞踏会 1

 レイトリーンは無我夢中で走っていた。木の根につまずくこと五回、草に足を取られた回数は数え切れないほど。それでもなんとか、エイヴァの影を見失わずにここまで来ていた。


 霧はまだ濃い。晴れる気配はまったくない。空気は奇妙に冷えている。が、走り続けているからか、寒さはほとんど感じなかった。


「エイヴァ! 待って、エイヴァ!」


 何度目になるかわからない叫び声を上げた。影の動きは止まらない。やっぱりだめか――と思ったとき、エイヴァの影がふっと霧の中に沈んだ。レイトリーンは慌てて、足を速める。


 つまずきかけても前へ出て、手を伸ばしたとき、唐突に視界が開けた。


 今までより広い空間に出る。相変わらず霧が立ち込めているものの、多少見通しがよい気はした。すぐ近くで水の跳ねる音がする。水場特有の、湿ったにおいが漂ってきた。


 つかの間呆然としたレイトリーンは、すぐさま護衛の姿を探す。彼女は前方で立ち尽くしていた。菖蒲色の瞳が困惑に揺れている。


「……ここ、は? 私は、一体……」

「エイヴァ!」


 レイトリーンは、たまらない気持ちになって駆け寄った。主人の姿に気づいたエイヴァが、大慌てで姿勢を正す。


「レイトリーン様」

「よ、よかった……元に戻ってくれた……」

「も、申し訳ございません。状況を教えていただいてもよろしいでしょうか。歌声を聞いたあたりから、記憶が曖昧でして」


 エイヴァはおろおろしていたが、レイトリーンは驚かなかった。やはり、彼女は今まで正気を失っていたのだ。うなずいたレイトリーンは、現状を手短に説明する。すべてを聞いたエイヴァは、青ざめて、その場にひざまずいた。


「な、なんたる失態! 護衛の私が、主人や同行者の足を引っ張るなんて……! 申し訳ありません、レイトリーン様! このエイヴァ、腹を切ってお詫びいたします!」

「お、落ち着いて。切腹なんて、絶対にだめだからね」


 剣に手をかけた護衛を、レイトリーンは慌てて制止する。なんとか彼女の気持ちを逸らそうと、言葉を重ねた。


「それより、今はユレン様やターレスと合流しないと。みなさん、たちを探しているはずよ」

「そ、それは……そうですね」


 顔をゆがめたエイヴァに、レイトリーンはそっと手を差し出す。すぐ、護衛の手が重なった。かたく分厚い、騎士の手だった。


 ほほ笑んだレイトリーンは、来た道を戻ろうと踵を返す。そのとき、ひときわ大きな水音がした。


『あら、まだ帰っちゃだめよ。王女様』


 小さな子供の声が響く。レイトリーンたちは、息をのんで振り返った。


 霧のむこう。泉の上に、小さな人が浮いていた。そこに泉があることを、レイトリーンは初めて知った。


『帰っちゃだめよ、王女様。あなたには、試練に挑戦してもらわなくちゃいけないんだから』


 泉の上の人物が、軽やかに水面を跳ねる。手のひらに乗るくらいの少女で、髪はなぜか透けていて、肌はレイトリーンより白かった。よく見ると、足の形も普通ではない。四本の指の間に、しっかりとした水かきがついていた。


「ま、まさか、妖精?」

水舞みずまいの妖精、露の落とし子、泉の乙女……いろんなふうに呼ばれるわ。どれも正解、どれもがわたし。どれもがわたしで、どれもがあのこ』


 警戒をにじませたエイヴァの問いに、妖精ははっきりしない答えを返す。再び躍った彼女は、無邪気な瞳で二人を見た。


 顔をしかめて沈黙したエイヴァに代わり、レイトリーンが口を開く。


「あ、あの……あなたの試練はどのような内容なのですか」

『まっすぐな質問。いいわね、すてきね、王女様。あなたに試練を与えてあげる。やるべきことは、ただひとつ――』


 妖精は、その場で一回転した。水をそのまま布にしたようなドレスがひるがえる。


『――わたしを捕まえてごらんなさい』


 遊ぼうとねだる子供のように純粋な一言。しかしそこには、有無をいわさぬ圧力があった。レイトリーンは息をのむ。その様子を見たエイヴァが、半歩前に出た。


「あなたを捕まえればよいのですね。なんてことはありません」

「エ、エイヴァ? 多分、泉に入らないといけないと思うけど……」

「問題ありません。着衣水泳には慣れております」

「待って待って。彼女も妖精なら、何か仕掛けがあるかもしれないわ」


 なんとか言葉をひねり出し、レイトリーンは護衛をなだめる。放っておいたら躊躇なく水の中に入っていきそうだ。む、とこぼして思いとどまったエイヴァを見てか、妖精はからからと笑った。


『そうね、そうね。ただ待ってるだけじゃつまらない。ただの追いかけっこじゃまだ足りない。せっかくだから、楽しくしましょ?』


 妖精が指を鳴らす。瞬間、歌が響いた。先ほどの歌とはまるで違う、楽しげな旋律だ。歌い手の姿はない。しかし、確実に何かがいると、レイトリーンは肌で感じた。


「まさか……地霊?」

『惜しい。水霊よ。わたしの大好きなお友達』


 妖精が楽しげに目を細める。一方エイヴァは、まわりを見回して眉を寄せた。


「どこから聞こえているのかわかりませんね。これでは、何かされても避けようがない」

「エイヴァ、この声が聞こえるの?」


 レイトリーンは目を丸くした。エイヴァにそのような能力はなかったはずだ。彼女にとっても意外なのか、「その、ようです」と自信なさげに答える。


『さあさあ、試練のはじまりよ。がんばってね、王女様』


 人間たちの困惑などおかまいなしに、妖精が飛び上がる。ぱしゃん、と泉の水が飛び散った。


「あっ、待ちなさい!」


 エイヴァが下草を蹴る。が、その前に水の壁が立ちはだかった。彼女がぎょっとのけぞると同時、壁は弾けてしぶきとなる。うめいたエイヴァは後ずさり、軽く咳き込んだ。水を飲んでしまったらしい。


「大丈夫!?」

「心配ご無用です。どこも傷ついてはおりませんから」


 レイトリーンがとっさに叫ぶと、すぐさま返答があった。受け答えがしっかりしていることに、彼女は胸をなでおろす。しかし、それもつかの間のことだった。水の壁がどこから現れたのか探ろうと、顔を上げて、絶句する。


 空中にいくつもの水のたまが浮いているのだ。エイヴァもそれに気づいたらしく、口を半開きにして固まっている。水は球体の形を保ちながらも、内側で流れているようだ。その流れが森の光を反射して虹色に輝いている。


 そこらじゅうに響き渡る水音の隙間から、妖精の声がした。


『あなたたちがわたしを追いかけようとしたら、その子たちが水を投げつけちゃうかもね? どうする、どうしよっか?』


 妖精の笑い声に釣られるようにして、人間たちの頭上で姿の見えないものたちがさざめく。レイトリーンはようやく、相手の言葉の意味を理解した。


「その子たち……水霊たちのしわざ、ということですか」


 あたりを見回しても、水霊らしき姿は見えない。浮いている水の球がおおよその場所を示してはいるのだろうが、球の数と声量が合わないような気もする。


 レイトリーンは唇を噛んだ。ユレンがいれば、彼らがどんな姿をしていて、どれくらいいるのか、すぐにわかるというのに。そのように考えて、だがすぐに己を叱りつける。この試練はレイトリーンに課せられたものだ。いつも案内人に頼っていては話にならない。


 ひときわ大きな金属音が響いた。抜剣したエイヴァが、主人をかばうように立つ。


「投げつけられるというのなら、すべて打ち払うまでです」


 言うなり彼女は駆け出した。


 水の球が弓矢のように飛ぶ。宣言通り、エイヴァはそれを次々と剣で払い、泉で踊る妖精のもとを目指した。しかし、払っても払っても水の攻撃は途切れない。水霊たちのはしゃぐ声とともに、新たな水の球が次々と作られて、発射されるのだ。


「きりが、ないな……このっ!」


 悪態をつきながら、エイヴァは剣を振るって走る。いくらか水をかぶってしまっても足を止めなかった。いよいよ泉に迫った彼女を見て、妖精は両目をみはる。


『あらあら。あなた、すごいのね。こういうの、人間の言葉で、根性がある、というのだったかしら?』


 次の時、妖精は水を蹴った。しぶきとともに、小さな体が宙を舞う。なびいたドレスが霧の中、水晶のような輝きを放った。


 レイトリーンは思わず見とれてしまう。しかし、小さな少女が森を飛んでいる姿を見て、我に返った。妖精が泉を離れている。彼女を捕まえる好機なのではないか。


 判断するなり、レイトリーンは駆け出した。四度ほど水を浴びつつも、なんとか妖精の姿を見出す。彼女が低いところへ来た瞬間、思いっきり両手を伸ばした。指先がドレスの端に触れる。


 そのとき、背中に衝撃が走った。遅れて感じた冷たさで、水の球を受けたのだと悟る。悲鳴を上げる間もなく、体が地面に叩きつけられた。


「レイトリーン様!」


 顔面蒼白のエイヴァが走ってくる。レイトリーンは上半身を起こして手を振った。


「大丈夫よ。濡れただけ」

「しかし――」

「本当に大丈夫。心配をかけてごめんなさい」


 転んだのはやわらかい草の上だった。おかげでほとんど痛みはない。レイトリーンが自分の足で立ち上がると、エイヴァはやっと歩調を緩めた。いつも鋭くこわばっている目尻から、ほんの少し力が抜ける。ほっとすると同時、罪悪感が黒雲のようにこみ上げた。


 護衛にばかり苦労をさせてはいけない。そう思って自分から動いたというのに、結局足を引っ張って、心配させてしまった。


 いっそ何もしないで隠れていた方がよいのか。


 いや、そんな有様で〈翡翠竜〉に認めてもらえるわけがない。


 ふたつの思いが胸の奥でせめぎ合う。


「ご無事で何よりです」


 主人の葛藤を知ってか知らずか、エイヴァはそれだけ言ってレイトリーンのかたわらに立った。剣は抜いたまま、しかし構えず、一向に数が減らない水の球を見上げる。


「妖精を追いかけようとすれば水をかけられ、水を避け続けていれば妖精に逃げられる……といったところです」


 その妖精は、泉の上に戻って鼻歌をうたっている。曲調もその表情も明るかった。


 機嫌を損ねていないのはよいことだが、こちらが遊ばれているようにも感じてしまう。エイヴァも似たような思いなのか、眉間にしわを刻んでいた。


「面目ございません、レイトリーン様」

「エイヴァが謝ることではないわ。むしろ、すごいです。わたしでは、あそこまで妖精さんに迫れませんから」

「はっ――」


 視線をさ迷わせたエイヴァは、それ以上のことを言わず、低頭した。


 鼻歌が響きつづける。同じ曲を繰り返し歌っているようだ。頭を上げたエイヴァが、苛立ちをあらわに泉の方を向いた。


「もう一度、かの妖精のもとへ参ります。水霊の姿は見えませんが、何か法則がわかるやも知れませんので」

「……わかった、気をつけてね」

「御意」


 主人の言葉に短く応じたエイヴァは、再び突撃する。待ってましたとばかりに水の球が動き出した。剣と手足でそれを振り払う護衛を見つめ、レイトリーンは拳を握る。


 不用意に飛び出していっても、同じ目に遭うだけだ。しかし、このまま見ているのはあまりにも辛かった。最初の試練のときのように、少しでも役に立てることがあれば――焦燥がじりじりと胸を焼く。


 エイヴァの頬に、ひときわ速い水の球が直撃した。彼女はわずかによろめいたが、足は止めない。悪戯をした幼子のように笑っている妖精を見据え、踏み出す。


 レイトリーンは、ぎゅっと目をつぶった。


『確かに、魔紋のことを伝えたのは森かもしれぬ。しかし、その声を聞き、その声に従って動いたのはおぬしだ。まごうことなき、おぬしの力だ』


 黒い熊の言葉が脳裏に響く。


 レイトリーンは祈った。形だけでなく、心の底から。


「お願い……」


 その言葉が真実なら。本当にこれが自分の力なら。今ここで、森の声を聞きたい。聞かせてほしい。


 心のうちでそう叫んだとき。


(もう聞いているじゃない)


 絡み合った思考の糸を、澄んだ声が切り裂いた。

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