第13話 妖精の舞踏会 2

(もう聞いているじゃない)


 絡み合った思考の糸を、澄んだ声が切り裂いた。天井が高い建物の中で話しているときのような、奇妙な響きがある。


 レイトリーンはまばたきして、素早くあたりを見回す。自分とエイヴァ以外の姿はない。しかし、声は響きつづけた――歌声の合間を縫って。


(われわれは、森の一部)

(森の声は、われわれの声)

(やっと気づいてくれたね、〈日輪にちりんの賢者〉の娘)


 騒がしい声に耳を澄ませて、気づいた。この声は、ずっと歌っていた声と同じものだ。


「もしかして……水霊?」


 彼らは、問いには答えなかった。ただ、無邪気な笑い声があたりを包む。


 レイトリーンは慌ててエイヴァの方を見た。彼女は再び妖精に迫り、そして逃げられたところのようだ。頭を振って水滴を払っている。――笑い声に気づいた様子はない。


 水霊たちは再び歌い出す。レイトリーンは、歌声に意識を向けた。また言葉を聞けるのではないか、と期待したからだ。しかし、じっと耳を傾けているうちに、言葉ではないあることに気づく。


 レイトリーンは両目を開いた。叫び出しそうになり、慌てて口もとを覆う。呼吸を整え、浮かんだ文字を整理して、深く息を吸った。


「エイヴァ!」


 レイトリーンが呼んだとき、護衛がちょうどこちらに後退してくる。息を弾ませた彼女は、双眸に驚きをにじませていた。


「いかがなさいましたか、レイトリーン様」

「ひとつ気づいたことがあるのだけれど……聞いてくれる?」


 彼女は眉を上げる。が、すぐに表情を引き締めて主人と向き合った。


「もちろんでございます。どのようなことでしょうか」

「水霊たちが、ずっと歌っているでしょう。その歌が……円舞曲なんじゃないかと思って」

「円舞曲?」


 素っ頓狂な声を上げたエイヴァは、しかしすぐに口を閉じた。しばらく歌声に耳を澄ませたのち、「あっ」とこぼす。


「確かに、円舞曲のように聞こえますね」

「やっぱり」


 エイヴァにもそう聞こえるということは、聞き間違いではなさそうだ。安堵したレイトリーンに、護衛が真面目な顔を向ける。


「実は私も、気になった点がございます」

「何かわかったの?」

「水の攻撃が規則的、と申しますか……拍子を刻んでいるように感じたのです」

「それって、もしかして」


 レイトリーンが食いつくと、エイヴァは力強くうなずいた。


「曲に合わせて水の球を発射しているのでしょう」


 力強く断言するなり、彼女はその場で一礼した。


「ありがとうございます、レイトリーン様。これで妖精のもとに向かえます」

「待って、エイヴァ」


 レイトリーンは、すぐに剣を構えようとした護衛を呼び止める。怪訝そうに振り返った彼女を見据え、自分の胸に手を当てた。


「わたしに行かせてくれないかしら」


 エイヴァはぎょっと目をみはる。


「な、なりません! 危険すぎます!」

「ええ。だから、エイヴァにはその『危険』を取り除いてほしいの」

「それは、つまり……」

「あなたは水霊たちの攻撃を払うのに集中して。その隙に、わたしは妖精さんのもとへ行く」


 レイトリーンは言い切った。


 無理を言っている自覚はある。それでも、これだけは自分でやりたかった。試練を自分で乗り越えたいというのもある。が、それ以上に、あの妖精と向き合いたい。


 わざわざ水霊たちが歌に合わせて水の球を投げているのには、意味がある。妖精と一対一で対面すれば、その意味がわかる。根拠はないが、なぜかそう感じているのだ。


 王女と護衛は、しばし無言でにらみ合う。ひりひりとした時間の果てに根負けしたのは、護衛の方だった。


「……わかりました。水の球は、私がすべて払います」


 困ったように眉を寄せつつも、エイヴァは言う。レイトリーンは顔を輝かせた。


「ありがとう!」

「その代わり、決して無茶をなさいませんよう。危険だと感じたら私のもとへお戻りください」

「わかった」


 レイトリーンはしかとうなずく。エイヴァも、ふと口もとをほころばせた。やわらかい笑みはすぐに、いつもの鋭い表情の中に消えてしまう。彼女が剣を構えると同時、レイトリーンもすぐ踏み出せるように足をずらした。


「では、参ります」

「ええ。――お願い」


 王女の一言に小さくうなずいて、エイヴァは三度みたび駆け出す。今度、彼女が見据えているのは水霊たちの方だ。妖精の相手をするのは、レイトリーンの役目である。


 宙に浮いていた水の球が、一斉にエイヴァへと向かった。その音を聞くなり、レイトリーンも地を蹴る。目線を泉の妖精に固定しつつ、森を覆う歌声にも意識を向けていた。


 妖精はひらひらと舞っている。その動きに合わせて、透き通ったドレスと髪も踊っていた。息をのむほど美しい姿。しかし、今のレイトリーンは見とれるどころか焦りを感じていた。


 本当はひと息に妖精のもとへ向かいたい。が、それでは意味がないのだ。水霊の歌に耳を澄ませ、それに合わせて土を蹴り、跳躍する。


 妖精が両目を見開いた。頬を染め、口のを持ち上げる。


『まあ、まあ』


 歓声を上げた妖精は、高く跳んで泉から離れた。レイトリーンは、すぐさま後を追う。もちろん、相手の歩調に合わせることを忘れずに。


 妖精は霧の中へ飛び込んだ。姿がまったく見えなくなって、レイトリーンは一瞬ひるむ。しかし意を決して、彼女が消えたのと同じ方向へつま先を向けた。


「レイトリーン様!」


 盛大な水音と女性の叫び声が重なる。レイトリーンは少しだけ振り返り、髪を濡らしたエイヴァを見た。


「わたしは大丈夫。できるだけ、続けて!」

「……承知しました!」


 ためらいながらも答えたエイヴァは剣を握り直す。水の球を、次から次へと薙ぎ払った。


 一方のレイトリーンは、霧にかすむ妖精をひたすら追う。水霊の歌は途切れない。息が上がる。足が重たくなってきた。


 舞踏はあまり得意ではない。不出来というわけではなかったが、姉より上達が遅かった。それにレイトリーン自身、踊るよりも本を読んだり草木と触れ合ったりする方が好きだった。今日が初めてだ――踊りを習っていて、習わせてもらえてよかった、と感じたのは。


 張り出した木の根や穴、石などに気をつけつつ、レイトリーンは。知らない曲に合わせて、指導もなしに踊るのはとんでもなくきつかった。自分は今、ひどく無様な格好なのではないか、とすら思った。それでも、妖精は空中でくるりと回って手を叩く。


『すてき、すてき。思ったとおりだわ。あなたも踊りが上手なのね』

「こ、光栄……です……」


 レイトリーンはなんとかそれだけを返す。必死になっていたせいで、妖精の奇妙な言い回しに気づかなかった。


「あの――水舞の妖精さん、でよろしいでしょうか?」

『いいわよ。言ったでしょう。どれもがわたしで、どれもがあのこ。どうしたの、王女様?』


 小首をかしげる妖精に向かって、レイトリーンは手を伸ばす。


「一緒に、踊りませんか?」


 妖精は、水滴のような目を丸くする。かと思えば、二度ほど輪を描いて飛んで、レイトリーンのもとまでやってきた。


『ええ、ええ。ぜひとも、喜んで!』


 王女の細い手に、妖精の小さな手が触れる。痛いほどの冷たさを感じたが、不思議とそれが心地よかった。


 レイトリーンは再び森へと意識を向ける。歌は、まだ聞こえた。よし、と胸中で呟いて、足を踏み出す。


 円舞曲を踊っているというよりは、小さな子と回って遊んでいるような感覚だった。それもしかたのないことだ。泉の妖精と人間、体格差があるどころの話ではない。


 やっとの思いで曲に合わせて足を運ぶ。時折、よろめいたりつまずいたりした。そのたびにレイトリーンは慌てていたが、妖精はまったく気にしていないようだった。


 そろそろ限界だ、と思ったとき。ふっと水霊たちの歌がやむ。ふらつきながらもなんとか止まったレイトリーンを見て、妖精が笑い声を立てた。


『ああ、こんなに思い切り踊ったのは久しぶり!』

「楽しんで、いただけた……でしょうか……」


レイトリーンが荒い息の下から問うと、妖精は舞台女優のように両腕を広げた。


『ええ、ありがとう、王女様。シェイマシーナの音ではなかったけれど、とってもとっても楽しかった』

「えっ――」


 心臓が高鳴る。妖精の口から出た名前に、レイトリーンは覚えがあった。彼女がそのことを問う前に、妖精は天を仰ぐ。


『水霊たち、試練はおしまいよ。もう、止めて大丈夫』


 次の瞬間、遠くで響いていた水音がやんだ。かすかにエイヴァの叫び声が聞こえる。レイトリーンは唖然として、妖精を見つめた。


「試練が、終わり? どうしてですか?」

『どうしてって、決まっているじゃない。わたしが捕まったからよ』


 妖精は楽しそうに腕を持ち上げる。レイトリーンの手が、妖精の手をしっかりと握っていた。


 レイトリーンはまじまじとそれを見つめ――小さく吹き出す。白い顔に混じりけのない笑みが咲いた。


「そうですね。捕まえました」

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