第三章
第14話 〈日輪の賢者〉
突然、視界に色があふれた。
ユレンは「わっ」と叫ぶ。大きく傾いた体を、杖と木の幹で支えた。先ほどまで霧しか見えなかった場所に、枝を無尽蔵に広げる木々が並んでいるのを見つけ、まばたきする。
『おっ。霧が晴れたな』
「
『連中を追って、俺っちたちはここまで来たわけだが……だぁれもいねえなあ』
「うーん」
まさか、道を間違えたということはあるまい。そうは思うのだが、どこも似たり寄ったりの景色なのも確かだ。ユレンは思わず頭を抱える。
「自分の五感への信用が揺らいできた……」
『何を言ってんだか。気をしっかり持てよ。俺っちだってついてるんだからよ』
そんなやり取りをしながら進むこと、しばし。ずっと鼻とひげを動かしていたカシューが、ひときわ大きな反応を見せた。
『――おっ。王女サマのにおいがするな』
「本当!?」
『おう。このまま進め』
力強い言葉に「うん」と返し、ユレンは草をかき分けた。走り出したくてうずうずする心をなだめる。こんな、獣道もないような場所で走ったら、何に足を取られるかわかったものではない。
岩を避け、枝を払い、茂みを潜り抜けて進む。やがて、視界の中心に白いものが見えた。形はよくわからない。が、カシューが『おっ。いたいた』と叫んだ。その意味するところは、ひとつだ。
ユレンは白いものの輪郭がわかるくらいまで歩いた後、息を吸う。
「リーンさん?」
森の生き物たちをおどかさない程度に、しっかりと呼びかける。声に気づいてくれたらしく、白いものがわずかに動いた。ユレンの方からさらに近づいて、やっとそれが淡い金髪であることを知る。
「ユレン様!」
「あ、やっぱりリーンさんだ。よかったあ」
澄んだ声が少年の名を奏でた。呼ばれた本人は相好を崩し、いくつかの木の根によってできた段差を飛び越える。ようやくレイトリーンの顔が認識できるところまで来て、そこにいるのが彼女ひとりでないことにも気づいた。
『ユレン、ユレン、かわいい子。お久しぶりね』
立ち上がったレイトリーンの頭上を、妖精が飛んでいる。透き通った髪と瞳を持ち、水のごときドレスをまとう少女。ユレンはそのきらめきを目にして声を聞き、あっ、とこぼした。
「ティーネちゃん! 久しぶり!」
『うふふ、うふふ。また会えてうれしいわ』
妖精は、無邪気に笑ってユレンのまわりを一周する。それを見ていたレイトリーンが、口もとを両手で押さえた。
「お名前があったんですね。すみません。わたくしったら、妖精さんなんて呼んでいて……」
「ああ。ティーネちゃんっていうのは、おれが勝手に呼んでるだけ。そこの泉――『ティーネの泉』に棲んでいる妖精だから、って」
『気にしなくていいわ、レイトリーン。もともと、わたしにはたくさん名前があるのだから。どれもがわたしで、どれもがあのこよ』
頭をかくユレンの横で、妖精がくすくすと笑う。彼女はすぐに、下の方へと顔を向けた。視線の先にいるのは――しかめっ面のカシューだ。
『そちらの〈竜の耳〉は、“
『それが一番、人間に伝わりやすいからな。んで、確認なんだがよ。水舞の妖精さん』
『何かしら?』
『あの歌と霧は、おまえさんの試練か?』
『そうよ。ヤーデルグレイスに、王族が来たらなんでもいいから足止めしてくれ、っていわれていたから。その通りにしたの』
妖精は、あっけらかんと答えた。カシューがポケットの中から身を乗り出し、何かを言おうとする。しかし、その前に、騒がしい足音が響いた。
「レイトリーン様! ……と、案内人殿?」
枝をかきわけてやってきたのは、エイヴァだった。汗と水で体中びしょぬれだが、表情は冴えている。口調もいつも通りだ。
きょとんとしている彼女に、ユレンは大きく手を振る。
「あ、エイヴァさん。無事でよかった」
「は、はい。このたびは……ご迷惑をおかけしました」
エイヴァは、戸惑った様子で頭を下げた。妖精の歌で正気を失ってここまで来たらしい、とレイトリーンが説明してくれる。ユレンは軽く相槌を打った。予想していた通りの事態になったが、二人で上手く乗り切ったらしい。
『再会できたからよかったが……おまえさんはなんで、こんな危ないことをしたんだ。いくら“なんでもいい”って言われてたからって、あの歌はねえだろ』
出鼻をくじかれたカシューが、低い声で妖精に問い直す。彼女は、悪びれもせずその場で舞った。
『ごめんなさい。どうしても、ユレンたちにはついてきてほしくなかったから』
思いがけない言葉を聞いて、ユレンとレイトリーンは目を丸くする。それを見た妖精が、慌てたように手を振った。
『あっ、あっ、ユレンがきらいってことじゃないわよ。今回は、レイトリーンたちだけを連れてきたかったってことよ』
「そ、そっか。どうして?」
ユレンは、動揺しつつもなんとか問うた。妖精はすまし顔で胸を反らす。
『だって、ユレンやカシューがいたら、水霊たちの動きを全部教えてしまうでしょう? それでは意味がないから』
不思議そうにしたユレンたちのそばで、レイトリーンが息をのむ。それに気づいたのは、妖精に気を取られていない護衛だけだった。
『あなたたちが森に来たときから、地霊も水霊も言ってたの。“レイトリーンに気づいてほしい”、“レイトリーンとお話がしたい”って』
「ってことは……やっぱり、リーンさんは、地霊たちの声を聴けるんだね」
『ええ、そうよ。彼女はシェイマシーナの娘だから。〈
「だから、おれたちから引き離した、ってことかあ」
ユレンはすんなり納得した。レイトリーンが「森が教えてくれた」と言ったときから、なんとなくそんな気がしていたからだ。カシューも『はーん。やっぱりな』と言いながら、ひげを手入れしている。
「ど……どういうことです? 日輪の賢者、とは一体?」
エイヴァが妖精とユレンたちを忙しなく見比べる。目を回している彼女を振り返り、ユレンは腕を組んだ。どこから説明したものか。
最初に口を開いたのは、カシューである。
『お二人さん。まず、賢者ってのが何か知ってるか?』
「ええと……魔法使いの呼称のひとつ、ですね?」
顔をしかめたエイヴァが答える。その横で、レイトリーンが静かに補足した。
「厳密には、魔法使いの中でも特に優れた智慧と技術を持った者――あるいは、特定の秘術を受け継ぐ魔法使いの一族の呼び名ですね。大陸西部の賢者は、森や山の奥深くに住んでいることが多いとか」
『そうさな。……んじゃ、パトリック王の妃が、その賢者の一族だったってことは?』
続くカシューの問いかけには、エイヴァだけでなく、ユレンも驚いた。それと同時に、胸が軋んだ。パトリック王の妃――レイトリーンたちの母親は、何年か前に亡くなっているはずだ。
レイトリーンは動じていなかった。堂々とカシューを見返す。
「存じております。北方の賢者の一族で、優秀な巫女であったと。父も母も、それ以上に詳しい話はしてくださりませんでしたが……色々あってネフリート王室に入ったのだろうとは、察しています」
『そうだな。俺っちも全部は知らねえが、いろんなところと、相当揉めたらしい』
そう言ったカシューは、ポケットから抜け出して、レイトリーンの足もとに着地する。『ま、その話は今はいいとして』と続けた。
『重要なのは賢者そのものについてだ。連中が扱う魔法はほとんどが古代から伝わっているものでな。地霊どもの声を聴く力も、その一種だ。大陸の西北に住まう〈日輪の賢者〉――シェイマシーナ王妃の一族が、この魔法を得意としていたってわけさ』
レイトリーンとエイヴァが息をのむ。それで、と呟いたかすれ声は、どちらのものであっただろうか。
「わたくしが今まで聞いていた声は……地霊や水霊のもの、ということですね。妖精さ……ティーネさんは、それに気づかせてくださった……?」
『わたしはただ、みんなの声に応えただけよ。それに、わたしはわたしで、やりたいことがあったの』
妖精は、歌うように言う。
「やりたいこと?」
ユレンとレイトリーンの声が揃った。妖精はにんまりと笑って、レイトリーンの前に行く。
『さっき、あなたとやったこと。あなたが誘ってくれたこと』
「え、あ……。踊り、ですか?」
『そう。あなたと踊りたかったの。だから、あなたから誘ってくれて、とってもうれしかった!』
バンザイをした妖精を見て、レイトリーンが顔を赤らめた。ユレンは首をかしげ、思わずエイヴァを振り返る。しかし、彼女も黙ってかぶりを振った。あとで話を聞いてみよう、とユレンは決意する。
『シェイマシーナは歌と踊りがとっても上手だったから。きっとあなたも上手なんじゃないかって。だから、あなたがわたしより大きくなったら、いっしょに踊りたかったの』
「そうだったのですね。わたくしは、きっと……お母様のようにはできていなかったと思いますが……」
『確かに、シェイマシーナとはちょっと違ったわ』
容赦ない妖精の評に、レイトリーンは声を詰まらせる。妖精は『でも』となんでもないように続けた。
『すてきな踊りだったわ。すてきな時間だったわ。体のまんなかがあったかくなって、森がいっそう輝いて見えた。ありがとう、レイトリーン。この試練、ヤーデルグレイスからの頼みごとの中で、一番楽しかったわ』
「は、はい。こちらこそ……ありがとうございました」
ドレスをつまんで一礼した妖精に、レイトリーンが返礼する。試練の終わりを悟ったユレンたちは、肩の力を抜いた。しかし、妖精がくるりとユレンの方を向く。その顔は少しだけ、沈んでいるように思えた。
『でも、ユレンには謝らなくちゃ』
「おれに? 謝る? 何を?」
いきなり水を向けられたユレンは、何度もまばたきする。妖精はそんな彼のもとまできて、左手を握った。
『ああ、よかった、よかった。カシューに治してもらったのね』
ユレンは息をのんだ。――謎の液体を受け止めた手を清めてくれた水霊たち。彼らがどこから来たのかは、考えるまでもない。当然、彼らの行動を見ていた妖精も、事態を把握していたのだ。
『ごめんなさい。ごめんなさい。わたしのせいで、あなたが危ない目に遭った』
「ティーネちゃんのせいじゃないよ! むしろ、リーンさんを引き離してくれてよかった、というか、なんというか……」
勢いよく答えたつもりだった。しかし、言葉は尻すぼみに消えていく。そのレイトリーンたちがすぐそばにいることを思い出したからだ。
「危ない目? 何かあったんですか、ユレン様」
案の定、彼女はすぐに踏み出してくる。ユレンは目を泳がせた。何と答えようかと考えているうちに、追い打ちをかけられる。
「ターレス殿がいないことと、何か関係があるのですか」
エイヴァだ。いつも鋭い両目をことさらに鋭くして、こちらをにらんでいる。そのことがユレンにすら伝わった。顔をこわばらせたレイトリーンが、あたりを見回す。
「そう、そうです。ターレスは……てっきり、別行動をしているか、はぐれてしまったのかと思っていましたが……」
「それは、その……」
『あのクソ野郎なら、逃げたぜ。毒薬をぶちまけてな』
混沌としていた空気を、不機嫌な一声が割った。
レイトリーンとエイヴァが、声も出せずに凍りつく。
ユレンはぎょっとして、毛を逆立てているねずみを見下ろした。
「ちょっと、カシュー!」
『隠し通せることじゃねえだろ。さっさと知っておいてもらった方がいい』
「だからって……言い方ってものがあるでしょ!」
『――わかんねえか、ユレン』
カシューはゆっくりと少年を振り返る。普段はまるい両目が、いつになく細っていた。
『俺っちは怒ってるんだよ。あんときおまえさんに怒鳴ったぶん以上に、あいつに怒ってる。森を傷つけ、おまえさんを傷つけたあいつは――俺っちの敵だ』
「カシュー……」
ユレンは途方に暮れる。そんな言い方をされては、なんと返したらよいかわからない。
「ユレン様」
立ち尽くしている彼に、レイトリーンがそっと声をかけた。差し出しかけた手が、宙をさ迷う。ユレンと視線を合わせた彼女は、平静を装って、唇をひらいた。
「離れていた間に何があったのか……聞かせていただけませんか」
問いかける声は、わずかに震えている。ためらいつつも、ユレンはうなずいた。うなずくことしかできなかった。
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