第16話 古竜の寵児
その赤ん坊は、〈
赤ん坊を見つけたのは〈翡翠竜〉ことヤーデルグレイスである。奇妙な音が聞こえたので、何事かと森に下りてみたら、住処たる大樹のそばで人間の子が泣いていた、という具合だった。
ヤーデルグレイスは驚き戸惑いながらも、赤ん坊を保護した。人間とよく交流している
人の子とはなんと手のかかることか、と、ヤーデルグレイスは驚嘆した。腹が減れば泣き、粗相をすれば泣き、眠いときですら泣く。手近な物を口に入れようとする、あるいは放り投げる。ちょっと動けるようになったかと思えば、気になる物に鼻がつくほど顔を近づけようとする。
人の赤ん坊を見たことはある。しかし、長い時間触れ合ったことはなかった。そんな竜にとって子は、未知の生物のようなものだった。
小さな外来生物に翻弄されながら、ヤーデルグレイスはその子の親探しもした。といっても、手がかりは何もない。赤ん坊はおくるみに包まれていたが、それだけだった。身元がわかるようなものはひとつも持っていなかったのである。時折森にやってくる賢者たちに話を聞いてみたが、なかなか進展がない。
そんな状況でありながら、ネフリート王国の王族にはこのことを話さなかった。
パトリック王は善人だ。話を聞けば、喜んで手を貸してくれるだろう。ヤーデルグレイスはそれを知っていた。しかし、人の口に戸は立てられぬ、ということも知っていた。
何かの拍子に、この話が王城の内外に広まったらどうなるか。パトリックやヤーデルグレイスを疎ましく思っている者の耳に入ったらどうなるか。「〈翡翠竜〉が保護した人間の子供」などというのは、彼らにとって格好の獲物だ。何とか利用しようとするだろう。最悪、森の深部に忍び込もうとするかもしれぬ。
ヤーデルグレイスはそれを危惧したので、賢者たち以外に赤ん坊のことを明かさなかった。
その賢者たちは、赤ん坊の親を突き止めることがなかなかできなかった。しかし、赤ん坊の面倒を見ることにはよく協力してくれた。彼に名を与えたのも、賢者の一人である。
親がわからぬまま時が過ぎ、赤ん坊はすっかり森の一員となってしまった。ヤーデルグレイスを親のように慕い、賢者や〈竜の
この頃、ヤーデルグレイスはふたつのことに気づいた。
ひとつは、子が色々なものに顔を近づけるのが、赤ん坊だからというわけではない、ということだ。この子はどうやら、遠くのものや小さなものを見るのが苦手らしい。ゆえに、よく見ようと顔を近づけてしまうのだ。
ヤーデルグレイスは、人間の身体に詳しい賢者を呼んだ。賢者は子を診察すると、竜の推測を肯定した。その上で、こう語る。
「まあ、目が見えにくい人なんてのは、外の世界には割といるし、原因も様々ですよ。この子の場合は、生まれるのが早すぎたか何かで、目がうまく育たなかったんでしょう」
「それは何か治療が必要なのか」とヤーデルグレイスが問うと、賢者は「どうかなあ。今のところ見えてはいるみたいだし……。もしかしたら、すでに何らかの処置がされているかもしれません」と答える。竜のしかめっ面を見ると「ま、様子は見ておきますか」と付け加えた。
養父の鱗と同じ色の瞳を見開いている子に、へらりと笑いかける。
「大丈夫、大丈夫。ほら、私だって目はあまりよくないですけど、それなりに生きていけてますんで」
「そなたの場合は、暗い部屋にこもってばかりおるからだろうが。一日一回は日の光を浴びろと言うのに」
ヤーデルグレイスが指摘すると、賢者は「やあ手厳しい」と両手を挙げた。
この赤ん坊は一方で、普通の人々には見えないものたちが見えているらしい。これが、ヤーデルグレイスが気づいたこと、ふたつめである。
というのも、赤ん坊は明らかに地霊や水霊の声に反応し、彼らの姿を追うようなそぶりを見せるのだ。挨拶にやってきた地霊と握手をしたときには、ヤーデルグレイスも彼の〈耳目〉もたまげた。
その手の魔法を継承している〈日輪の賢者〉ですら、声を聴くのが精いっぱいだ。地霊の姿を認識する人間など、ヤーデルグレイスですら何百年ぶりに遭遇したかわからない。
ますます、ネフリート王家に知らせるわけにはいかなくなった。
時折賢者の治療と支援を受けながら、子はすくすくと成長した。幸い、失明などという大事には至らず、活発ながら素直な子に育っていった。
あちこち歩き回れるようになると、森小人や妖精と遊ぶようになった。見えにくいがゆえの苦労や悩みも出てきたが、そんなときはヤーデルグレイスや森の民が寄り添って、少しずつ問題を解決している。
〈竜の耳目〉との交流も増えた。中でも杏色のねずみの姿をした〈竜の耳〉に懐き、よく一緒にいるようになった。
子が森じゅうを駆け回り、よどみなく会話できるほどの年頃になると、ヤーデルグレイスは子の将来について考えるようになった。彼にとって、この地は楽園であると同時に厳しい環境でもある。今は森の民の力を借りて上手くやっているが、一生涯それが続く保証はない。
何より彼は人間だ。〈神樹〉を離れて動けるようになったのならば、人間の社会に戻してやるべきではないか。
そんなふうに悩んだ末、ヤーデルグレイスは子に「一度森を出ないか」と提案した。子は最初に不思議がり、次に反発した。ヤーデと一緒にいたい、特に不自由はしていない、ここがいい、というのだ。珍しく食い下がる子に対し、ヤーデルグレイスはいつもより厳しく返した。
「わがままを言うでないわ。野うさぎの動きすら追えない、熟れた実と青い実の区別すらつけられない者が、ずっと森で生きていけるわけがなかろう」
――この一言がもとで、相談は大喧嘩に発展した。正確には、子が感情を爆発させた。心配と親心から発された言葉は、子の一番やわらかい部分を傷つけてしまったのである。
あわや家庭崩壊の大惨事、というところだったが、森小人たちや〈竜の耳目〉が間に入ったことで、なんとか落ち着いた。お互いに謝って、改めて話し合いをし、最終的には子がヤーデルグレイスの言葉を受け入れた。
子は森を出るための準備を進めた。もちろん、ヤーデルグレイスや森の民も手伝った。
森小人たちは「外でなるべく怪我をしないように」と彼に杖とゴーグルを贈った。そしてヤーデルグレイスは、子と一番仲がよい〈竜の耳〉に、彼についていくよう命じた。「子が大怪我をしたとき以外は治癒能力を使わないように」と付け加えることも忘れなかった。
こうして、突然〈神樹〉のそばに現れた子は、杏色のねずみとともに森を出た。紆余曲折の末、カロの町に居つくこととなったのである。
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