第一章
第2話 カロの町のユレン
偉大なる竜がすむとされる〈
森の西側、辛うじて人が通れる細い道の上に広がるのが、カロの町だ。町の周囲には麦畑や果樹園が広がっている。人々は、聖なる森の恵みと作物を分け合いながら、穏やかに暮らしていた。
ユレンは町の東側、森の近くにある小さな家に住んでいる。日の出前、まだ町が静まっている時間に起きて、勢いよく窓を開けるのが日課だ。
「わっははー! いい天気だね、寒いね!」
今朝も輝かんばかりの歓声を上げた少年は、やわらかい髪を思いっきり風に遊ばせる。朝日を糸にして
『やれやれ……今日も朝からやかましいな、おまえさんはよぉ』
早朝の冷気に頭から突っ込んでいたユレンの背後から、嘆きともからかいともつかぬ言葉が飛ぶ。木枯らしほど高くはなく、春嵐ほど低くもないその声は、小柄なユレンよりもさらに低いところから響いていた。少年は驚きもせず振り返り、寝台の隣の小机を見てほほ笑む。
「おはよう、カシュー!」
『はいよ、おはようさん』
小机には、藁を敷き詰めた箱が置いてある。その中で丸まっていた生物が、体を伸ばしてあくびをした。小さな体は杏色の体毛に覆われ、頭の上から黒くて小さな耳がふたつ、生えている。糸より細いたくさんのひげは、鼻と一緒にひくひくと動いていた。毛の隙間から手足と短い尻尾がのぞく。いうなれば、ねずみである。
そのねずみは、扁桃のような瞳をユレンに向ける。
『おいユレン。元気なのはいいけど、そろそろ窓を閉めてくれ。冬眠しちまいそうだ』
「まーたそんなことを。カシューが冬眠するところなんて、見たことないよ?」
相棒からの苦情を受けたユレンは、笑いつつも窓を閉める。それから手足をゆっくり伸ばし、最後に肩を回した。
「さてと、朝ごはんの準備をしよっか」
みずからを鼓舞するように言ったとき。寝床から飛び出したカシューが、素早くユレンの手の甲に飛び乗る。そこから一気に肩の上まで駆けのぼった。当然のように少年の肩を占拠した杏色のねずみは、ひげをぴくぴくさせる。
『ちなみに今日の献立は?』
「カチコチのパンと、お豆スープの残りと、
『おう、いいねえ。俺っちにはカチコチのパンをそのままくれな。あと、ひらひらの葉っぱもあるとありがたい』
「ひらひらの葉っぱは切らしちゃったから、乾燥お豆でいい?」
『また豆か。まあ、しかたねえわな』
「ごめんねー」
普段と変わらないやり取りをしながら、一人と一匹は隣の広い部屋へ行く。昨夜のうちに整えておいた薪を奥の暖炉まで持っていき、てきぱきと組み上げた。熱心に作業するユレンの横で、カシューが重いものを鼻で押している。火打石などが入った箱だ。
ユレンは、火おこしがあまり得意ではない。時間をかけてどうにかこうにか点火する。すると、炉に赤い光が灯り、中から小さな
火蜥蜴たちは、わらわらと薪のまわりに群がった。
「おはよう。みんな、来てたんだ」
ユレンが暖炉をのぞきこむと、火蜥蜴たちは嬉しそうに尾を振って、高い声を上げる。ユレンの背中にのぼっていたカシューが、少し目を細めた。
『何?“ここは任せろ”って?』
火蜥蜴たちは「ぐあーっ」と鳴きながら尾を立てている。力を発揮するときの動作だ。火の調節をしてくれるらしい。
彼らにお礼を言ったユレンは、暖炉から離れて、スープの入った鍋を持ってくる。その間にも火の勢いはどんどん強まっていた。火が安定したところを見計らって、ユレンは鍋と網を暖炉に置いた。
「あっためるだけだからね」
そう声をかけると、火蜥蜴たちは歌うように答える。彼らを一瞥した少年は、ほかの食材の準備を始めた。
そうこうしているうちに日が昇り、家じゅうが陽光で満たされる。そして、鍋もくつくつと音を立てはじめた。
「そろそろいいかなあ?」
『いいんじゃね? ……おっと、あんまり顔近づけんなよ。鼻が焼けるぞ』
「はあい」
ユレンは鍋を取り出し、抱え込むように運ぶ。無事に食卓まで辿り着き、盛り付けをすれば朝食の完成だ。カシューには宣言通り、小さく切ったパンと乾燥させた豆、それからきれいな水を出す。カシュー自身は牛乳をうらやましそうにながめていたが、ユレンは首を振る。
「あげないよ。ねずみにお母さん以外の乳をあげちゃだめだって、ヤーデが言ってたもん」
『俺っちをそこらのねずみと一緒にすんなよな!』
「って言われても。どっからどう見てもねずみじゃんか」
『何をぅ!?』
騒がしい言い合いは、もはや儀式のようなものである。ひとしきりやって気が済むと、一人と一匹はけろっとして食事に向き合った。
食前の祈りを捧げて食べ始める。石のごときパンをスープにひたしながら、ユレンはふと思いついたことをこぼした。
「そういえば、今年はいちごが来ないね」
『ほんとだな。いつもならテレーゼおばばがでっかい箱で持ってくるのに、今年はそんな気配もねえ』
かたいままのパンを地道にかじっていたカシューが、ユレンを見上げて立ち上がる。
『あんまり採れてないのかもな』
「ね。今年は小麦も足りるかわからないって、町長さんが言ってたし」
パンとスープを交互に食べながらも、ユレンは眉を曇らせる。その話を聞いたときの、町民の不安そうな表情を思い出して、ほんの少し憂鬱になった。
そんな彼を一瞥して水をなめたカシューが、ひげを震わせながら窓の外をにらんだ。
『今年の不作ぶりはどうしたことかね。〈翡翠竜〉の加護ある国とは思えねえや』
「〈翡翠竜〉の、加護……」
相棒の言葉を繰り返した少年は、パンをちぎる手を止めた。豆を頬に詰め込んでいるねずみを見つめる。
「ねえカシュー。最近、その加護は感じられてる?」
頬をぱんぱんに膨らませたカシューが、ぴたりと動きを止める。ユレンの質問の意味に気づいたのだ。
『感じてはいるぜ。ただ、先月あたりから違和感があるな』
「違和感?」
『おう。森が遠くなったっつーか、
そっか、と相槌を打ったユレンは、残り少ないスープをじっと見つめた。
「やっぱり、森に何かあったのかな」
『かもな。それか、主が拗ねて引きこもってるか』
「あり得るのが怖いよ……」
森の中心まで行ってみようか。そんな思いが頭をかすめたが、ユレンは思いとどまった。半月ほど前、同じことを言ってカシューに止められたからだ。「やめた方がいい」と言われた。理由は教えてくれなかった。おそらく、この杏ねずみは何かに気づいている。気づいていて、あえてユレンに話さないのだ。おしゃべりな彼が黙っているのには、それ相応の理由がある。
小さく息を吸ったユレンは、「よし!」と叫んで気合を入れる。ようやくふやけたパンにかじりついた。
「とりあえず、今日は町の様子を見てみる。それからいろいろ考える」
『おう。なに考えてるのか知らねえけど、いいんじゃね?』
水をなめながら答えたカシューにうなずいて、ユレンは冷えた牛乳を飲み干す。暖炉で彼らを見守る火蜥蜴たちが、楽しそうな声を上げた。
朝食の片づけを済ませたユレンは、町に出た。丈の短い
今日はよく晴れている。元気な陽光を浴びて目をつぶったユレンに、相棒が話しかけた。
『ゴーグルしとけよ』
「そうするー」
特に目的地があるわけではない。杖を左右に振りながら、時折壁の端や地面を軽く叩く。そうしてのんびり歩いていると、遠くから誰かに呼びかけられた。徐々に近づいてきた声の主は、黒い短髪の男性だ。生成りのシャツと薄手の上着を着て、腰に色鮮やかな帯を巻いている。近所の工房の次男で、ユレンのことをよく気にかけてくれる人だ。
「ようユレン。今日は『目隠し』なんだな」
「うん。いい天気だからね」
ユレンがほほ笑むと、男性も空を見上げて「そうだなあ」と笑う。自然と隣に並んだ二人は、そのまま話を続けた。
「これから仕事か?」
「ううん。今日はまだ予約入ってないよー」
ユレンがゴーグルを持ち上げて答えると、彼はにやりと目を細める。
「ってことは、頼んでもいいってことだな?」
「町の中で終わることならいいよ」
ユレンの仕事の大半は、言ってしまえば雑用だ。荷運びに簡単な掃除、伝言や手紙の配達など、町の人々からのお願いを引き受けて、お金などをもらっている。時には隣町までの届け物を頼まれることもあるのだった。そういう依頼は控えてほしいと言い出したユレンに、男性は怪訝そうな顔を向ける。
「なんかあるのか?」
「近々〈
「……そか。おまえに言うことじゃないかもしれないけど、気をつけてな」
工房の次男は、わかりやすく眉を下げた。町の人々も〈翠蓋の森〉がおかしいと気づいているのだろう。ユレンは、考え込みそうになるのをこらえて「ありがとー」と笑顔をつくった。
工房の次男とはそこで別れた。それからは、カシューとひそひそ話をしながら町を見ていく。
しばらく歩いていると、にわかに行く先が騒がしくなった。年かさの大人たちの切羽詰まった声が聞こえてくる。
「んにゃ? なんだろ」
『けんかでもしてんのか?』
カシューがポケットから鼻先だけを出す。相棒の様子には目もくれず、ユレンは声のする方を目指した。
町で一番大きな通りに入り、馴染みの商店が見えてくる。住宅と店を兼ねた建物の前に、何人かの大人たちが集まっていた。彼ら同士で雑談をしているわけではなく、誰かに声をかけているようだ。「やめておきなよ」「危ねえぞ」といった言葉が聞こえてきた。
「みんな、どうしたの?」
ユレンは意識して声を張る。すると、大人たちが一斉に振り返った。商店の主であるアウルスが、黒茶の瞳を輝かせる。
「おおユレン、ちょうどいいところに! おまえからも、この嬢ちゃんに言ってやってくれ!」
「……嬢ちゃん?」
彼の一言が気になって、ユレンは人だかりの方へ駆け寄る。自然と道を開けた人々の間から、輪の中心へと顔を突っ込んだ。ゴーグルを外して――お、と声を詰まらせる。
そこには確かに、少女がいた。背が高く、線の細い印象だ。丈の長い
町の人でないのは確かだ。ユレンは首をひねって、大人たちを見回した。
「旅の人? この人に、何を言えばいいの?」
「止めてやっておくれよ。この子、〈翠蓋の森〉に行くっていうんだ」
ユレンの疑問に答えたのは、亜麻色の髪を頭巾でまとめた女性だ。南の方に住んでいる農家の奥さんである。彼女の答えに、ユレンはますます頭を傾けた。
「そんなに慌てることかなあ? みんなも森には行くじゃない」
「そうだけど、そうじゃねえんだ」
再びアウルスが口を開いた。本気で慌てているらしく、振った両手がぶるぶると震えている。
「嬢ちゃんは、森の中心――〈神樹〉に行きたいっていうんだよ!」
叫びに近い言葉を聞いて、ユレンは初めて眉を跳ね上げた。
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