ユレンの祝福

蒼井七海

序章

第1話 王女の使命

 謁見の間は、寒々しい静寂に包まれていた。レイトリーンは、すでに下げている頭をさらに低くする。叱責されているわけではない。叱られるような覚えもない。それなのに冷たい汗が噴きだすのは――人々の視線を恐れているからだろうか。


「そんなにかしこまらなくていい。顔を上げなさい、レイトリーン」


 頭上から声がかかる。レイトリーンは恐る恐る、それに従った。彼女の正面。一段高いところにある玉座に、敬うべき人物が座っている。金赤の髪と髭、夏の草木のごとき緑の瞳、少し日に焼けた肌の、精悍な男性だ。彼はレイトリーンの父であり、このネフリート王国の王である。


「突然呼び出して済まないな」

「いえ……」


 恐縮する娘に対し、国王パトリックは悪童のような笑みを向ける。


「執務室で話してもよかったのだが、事が事だ。『格好をつけるのも大事だろう』ということで、このような形になった」

「左様、でしたか。その、『事』というのは、一体……?」


 レイトリーンは問うた。手足が震えている。


 今、謁見の間にいるのは、国王と第二王女とごくわずかな臣下だけだ。この状況に加えて、格好をつける――つまり、王城の外を意識した演出が必要というのは、よほどの大事なのではないか。


 うむ、とうなずいたパトリックは、重々しく続けた。


「おまえに頼みがある。〈翠蓋すいがいの森〉の中心部――〈神樹〉のもとに行ってもらいたい」


 レイトリーンは、青空のごとき瞳を見開いた。


「それは、つまり――」

「そう、〈翡翠竜ひすいりゅう〉に会いにいってもらいたいのだよ。かの竜の加護が弱まっていることには、おまえも気づいているだろう?」


 レイトリーンは、唇を引き結んでうなずいた。



 人は竜の住処をいたずらに侵さず、守る。その代わり、竜はその力でもって、人の国に加護を与える。


 ネフリート王国建国の折、豊穣を司る〈翡翠竜〉ヤーデルグレイスと初代国王との間で、このような盟約が交わされた。以来六百年あまり、この国はいにしえより生きる竜に守られている。水は清く、土は豊かで、ゆえによく草木が育って花が咲き、作物が実る。国民は飢えを知らず、穏やかに暮らしてきた。竜が干渉できない空の変化や他国との小競り合いなどは起きたが、それでも大きな乱れはなく、今までやってこられたのだ。


 しかし、この春はいつもと様子が違った。長い冬が終わっても芽吹く野草の数は少なく、いくらかは枯れてしまった。小麦やいちごもいつもほど収穫できず、採れたとしても昨年のものより小ぶりだったり、味が悪かったりした。


 そんなことが王国全土で起きた。どうしたことだろう、と町や村の人々は不安に顔を曇らせる。魔法使いたちは、人の目に映らぬものたちにも活気がないことに気づき、眉をひそめた。竜との盟約を受け継ぐ王族は、もっと深いところ――肝心かなめの、竜の加護が弱まっていることを察知したのだ。



「なぜ加護が弱まったのか、〈翠蓋の森〉で何があったのか――そこまでは、私にはわからない。直接見ないことにはな」


 謁見の間全体を見ていた瞳が、下へと動く。父王の視線を感じたレイトリーンは、居住まいを正した。


「そこで、だ。レイトリーンにはヤーデルグレイス殿と面会して、今の状況を確かめてきてほしい。可能であれば加護が弱まっている原因を取り除いてもらいたいが……まあ、そこは無理しなくてもいい。危険もあるだろうからな」


 パトリックの口調は厳かだが、声色はやわらかい。王として、というより、父として娘に話しかけているふうだった。臣下の一部が眉をひそめる。その冷たい視線が、王女の背に刺さった。


 レイトリーンは眉を下げる。張りつめた空気のせいもあってか、不安がいつもより早く、表ににじみ出てきた。


「〈翡翠竜〉様が、わたくしに会ってくださるでしょうか。王家の者でありながら、一切の魔法が使えない王女に」

「あのお方はそのようなこと、気になさらないさ」


 パトリックは豪快に笑って言うが、レイトリーンの表情は晴れない。うつむきかけた彼女に対し、父王は優しく言い募った。


「それに、これはおまえにしか頼めないことなんだ」

「え……?」


 レイトリーンはぱっと顔を上げる。玉座の王は、演説でもするかのような口ぶりで続けた。


「まずもって、竜の領域に踏み入ることができるのは、竜に認められた者か我々王家の人間だけだ。しかし、私やアーダルベルトが都を離れるわけにはいかない。ロシーナは……少々、自由すぎるからな。気難しい〈翡翠竜〉殿のご機嫌を損ねてしまうやもしれん」


 兄や姉のことを引き合いに出され、レイトリーンは固まる。胸の中に黒い靄がかかるのを感じて唇を噛んだ。縮こまる娘を見下ろして、パトリックは声を励ます。


「レイトリーンなら大丈夫だ。少なくとも、ここにいる者はみな、そう思っているよ」


 レイトリーンは、失礼にならない程度に周囲をうかがう。玉座からの道を作るように整列している臣下たちは、ほとんどが感情の読めない顔を親子に向けていた。


 ただ、その中で一人だけ、意味ありげにほほ笑んでいる者がいる。灰色の髪を撫でつけた、痩せ型の男性。内務大臣、アントニオ・ベルツ・ザニーニだ。レイトリーンのことが気に入らないらしく、何かにつけて棘のある言葉を投げつけてくる。彼女が表に出ることを嫌がり、今回のような謁見のときもつまらなそうにしている。


 そんな彼が、今日に限って愛想よくほほ笑んでいるのだ。どういう風の吹き回しだろう。


 レイトリーンが眉を寄せたとき、パトリック王が腕組みをした。それと同時に、左手の指を軽く動かす。臣下たちには、王が姿勢を変えたようにしか見えないだろう。しかし、王の娘は気づいていた。大気とともにある力、魔法の源――マナが動いたことに。


 マナは彼のまわりで渦巻いたのち、ぱっと弾けた。見た目は何も変わらない。が、燭台の火の音が先ほどまでよりやや小さい。臣下たちの気配も少し遠くなったようだ。パトリックが何かの魔法を使ったに違いなかった。


 呆気にとられたレイトリーンを見て、彼は悪戯っぽくささやく。


「――それに、今回はあのザニーニがおまえを推薦したんだ、


 王女は息を詰めた。そんなわけがないのに、心を読まれたかと動転する。それでも、なんとか平静を装って「ザニーニ大臣が?」と聞き返した。パトリックは、得意げな表情でうなずく。


「おまえに対しては何かと手厳しいあの男が、今回は自分から言い出したのだよ。『レイトリーン王女が適任と思われます』とな。少しはおまえのことを認める気になったのだろう」


 レイトリーンは曖昧にほほ笑んだ。その言葉を、ザニーニのあの表情を、額面通りに受け取る気にはなれない。それでも、父王が喜んでいることは素直に嬉しかった。


 心情が顔に出ていたのかもしれない。パトリックは、娘に向かって満足そうにうなずいて、組んでいた腕を解いた。周囲の音が戻り、世界がまた地続きになる。


 親子の密談は終わりだ。二人は王と王女に戻る。パトリックは、ひたとレイトリーンを見つめた。


「行ってくれるか、レイトリーン」


 改めて問われた王女は、ひととき目を閉じる。心を決めると、その場で一礼した。


「……はい。勅命、謹んでお受けします」



     ※



 第二王女の出立が決まってから、嵐のように数日が過ぎた。竜の住処たる〈翠蓋の森〉まで、王都からはそれなりの距離がある。そのため、しっかりと準備を整えなければならない。道程の確認に、護衛の選定。そしてもちろん、レイトリーン自身の旅支度。やることは多かった。


 レイトリーンとしては、この多忙さがありがたい。動き回っていれば、余計なことを考えずに済むからだ。考えなければ、不安や重圧に潰されることもない。積極的にあちこち駆け回っていたので、城内の使用人からは「第二王女殿下がいつになく生き生きしていらっしゃる」とささやかれていた。むろん、本人は知らないことである。


 そして、出発の前日。方々に挨拶回りに行っていたレイトリーンは、中庭に面した回廊を歩いていた。


「……しばらくは、このお庭も見られなくなるのね」


 アネモネやライラック、春の花々に彩られた庭。そのやわらかな色を見ていると、胸がきゅっと締め付けられるようだった。


 人の出入りが少ないここは、レイトリーンのお気に入りの場所だ。疲れることや悲しいことがあると、時間を見つけてここまで足を運ぶのである。季節ごとに変わる花々の様子を見ていると、荒れた心がふうっと静まって、癒されていく気がした。


 目を細める。かぶりを振る。庭の方へ踏み出そうとして、やめた。少し早足で回廊を駆ける。やさしい場所から逃れるように。


 中庭が見えなくなったところで、彼女はふと立ち止まる。人の足音と話し声を拾ったからだ。騒がしい音は、少しずつ彼女の方へ近づいてくる。レイトリーンは無意識のうちに唇を引き結んだ。


「あら、リーンじゃない」


 前から声がかかる。気安い呼びかけにはけれど、温かみが感じられない。むしろ、刺々しささえあった。


 レイトリーンの反対側から歩いてきたのは、一人の少女と数人の使用人だ。使用人は全員が年若い娘で、白い長衣をまとっている。


 一方、集団のまんなかを歩く少女はずいぶんと華やかだ。髪色は父親譲りの金赤。その下できらめく瞳は母親譲りの青色。鮮やかな赤のドレスは金糸の刺繍で飾り立てられている。


 それらを誇示するように歩く彼女は、レイトリーンの前に立つと、ややいびつな笑みを浮かべた。自分と同じ色の瞳に射すくめられたレイトリーンは、反射的にうつむく。


「ロシーナお姉様……」

「あなた、明日には出発するのでしょう? こんなところで油を売っていていいの?」


 第一王女ロシーナは、妹を容赦なくにらむ。言葉の内容は何気ないものだが、それを奏でる声はひどく鋭い。


 レイトリーンは、縮こまりそうになるのをなんとかこらえてほほ笑んだ。


「いえ、その……。先ほどまで、出発前の挨拶回りをしていたのです。それが一通り済んだので……これから、お部屋に戻ります」

「ふうん。リーンに挨拶する相手なんていたのねえ」


 つまらなそうに言ったロシーナは、ふいにレイトリーンの方へ顔を突き出す。


「ま、いいんじゃないかしら? 今生の別れになるかもしれないのだし」

「別れ……ですか?」


 強烈な印象を与える言葉に、レイトリーンはひるんでしまう。顔をこわばらせた妹を見て、ロシーナは無邪気に笑った。さりげなく挙げた手を一振りする。


 マナが動いた。レイトリーンは身構えたが、だからといって何もできない。ちらちらと瞬く光が、彼女の目の前で弾ける。額に刺すような痛みが走った。


 レイトリーンは額を押さえる。背を丸めた彼女を見て、ロシーナがけらけらと子供のような笑い声を立てた。


「この程度も防げないあなたじゃ、無事に帰ってこられるかどうかも怪しいもの。〈翠蓋の森〉に着く前に倒れないよう、せいぜい気をつけなさいね」


 レイトリーンは黙って上半身を起こす。ロシーナは、乾いた嘲笑を妹に浴びせかけた。


「まあ、〈翡翠竜〉様にお会いできたところで、あなたみたいな役立たずがまともにお話しできるとは思えないけれどね。こんな子を使者に選ぶだなんて、お父様もザニーニ大臣も、何を考えているのかしら」


 悪意を隠す気もない姉の言葉に、レイトリーンはやはり反撃しなかった。こちらが一反論すれば十返ってくることを知っているからだ。収拾がつかなくなるくらいなら、黙って終わりを待つ方がいい。


「あらあら、どうしたの、リーン? 怖くなっちゃった? やめるなら今のうちよ」


 だから、これ以上は発言しない。それがレイトリーンの、いつもの選択であった。


 しばらくは、ロシーナの笑い声ばかりが響き渡っていた。しかし、そこへ新たな音が割って入る。


「ロシーナ、こんなところで何をしているんだ」


 それは、高い靴音と、涼やかな青年の声だった。名を呼ばれた第一王女は顔をこわばらせて立ち止まる。第二王女も目を見開き、使用人たちはその場にひざまずいた。


 レイトリーンと同じ方向から歩いてきたのは、国王と同じ色を持つ青年だった。彼は少女――妹たちを見ると、なんとなく状況を把握したらしい。小さくため息をついて、とりあえずロシーナを見据えた。


「これから音楽の稽古ではなかったか? 遅れたら、また先生の雷が落ちるぞ」


 ロシーナは、先ほどとは打って変わって頬を引きつらせる。


「そ、そうですね。急いで音楽堂にまいります」

「それがいい」

「では、ごきげんよう。リーン、アーデルお兄様」


 ドレスの端をつまんで一礼した後、ロシーナは使用人たちを振り返る。「行くわよ! 急ぎなさい!」とやけ気味に声をかけた後、ぎこちなく走り去っていった。


 レイトリーンは、女の集団を呆然と見送る。それから、一拍置いて我に返った。無言で去ろうとする青年――アーダルベルトを見上げる。


「あ、あの、お兄様……」


 とっさに呼び止めると、アーダルベルトはじろりと彼女を見た。続きの言葉を考えていなかったレイトリーンは、そこで黙ってしまう。彼女を振り返った王子の相貌に、目立った感情の波はない。


「準備は済んだのか?」

「……はい」

「そうか。なら、今日はもう休め」


 それだけ言って、アーダルベルトは妹に背を向ける。


「無事に行って帰ってこい。父上に心配をかけさせるなよ」


 去り際の一言は、冷たく響く。返事も聞かずに歩き去ってしまった兄を、レイトリーンは無言で見送った。誰もいなくなった回廊で、ひとり足もとに視線を落とす。


 ――そして、翌日。不安とわだかまりを抱えたまま、第二王女は王都を発った。

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