第3話

 目が眩む光が消えた後、最初に感じたのは“音”だった。


 靴がアスファルトを擦る音と、信号機の音色。

 喧しいバイクのエンジン音に、誰かの笑い声。

 車が道路を走り抜ける音、人々の雑踏と喧騒。


 そして――懐かしい日本語の響き。


 どれもが酷く懐かしく、そして俺がずっと求め続けたものだ。


「あぁ。日本だっ。間違いない。ここは東京か? 動画で見たまんまだ。俺が生まれ育った街じゃないのは残念だけど、もうそんなの大した問題じゃない。はははっ」


 目を開ければ――視界一杯に広がる摩天楼の群れ。


 下はアスファルト。目の前には巨大な交差点。

 往来を人々が行き交い、傍を自動車が走り抜ける。

 チカチカと点滅する青、黄、赤の信号機。

 慌てた人々が小走りに横断歩道を渡っていった。


 間違いなく東京、間違いなく日本だ。

 記憶通りの懐かしき我が故郷!


 本当に懐かしい。俺は……帰ってこれたんだな。


「よかったね、タイキ! 無事に故郷に帰れたんだね!」

「あぁ、本当によかった。ありがとうフルミー。……それと悪いな。お前を自由にさせてやれなくて。しばらくはなにかと不便にさせるが、どうか許してくれ」

「わたしは大丈夫だよ? こういうのも新鮮で面白いし!」


 ありがとう。感謝を告げ、胸ポケットに隠れるフルミーを撫でる。


 コルウェルなら妖精は何処に居てもおかしくなかった。

 だがここ日本で妖精が飛び回れば騒ぎが起こるだろう。


 帰還したばかりで周囲の人に見つかって騒ぎが起きる、というのも面倒だ。

 なので申し訳ないが、彼女にはしばらくポケットの中に隠れて貰う。いずれ彼女が外を飛び回っても大丈夫な環境を作るつもりだから、それで勘弁してもらおう。


「これからどうするの? とりあえずお金を稼いだりする?」

「……そうだな。見た限り俺が向こうに転移してからあまり時間が経ってないみたいだし、一度実家に帰ってみるよ。四国にあるからちょっと遠いが――」



「えぇ!? あんた探索者になったの!? 本気!?」

「ちょ、ちょっと京子ちゃん!? 声が大きいって!」



 “歩き続ければ辿り着けるだけこれまでよりずっとマシだ”。


 そう続けようとした俺の耳に随分姦しい声が聞こえてきた。

 目を向ければ、二人の少女が往来で騒がしく会話している。


「やめた方がいいって瑠璃子、あんたどんくさいんだから!」

「で、でもでも頑張ればとっても稼げるって言うし……」

「確かにダイバーが稼げるって話はよく聞くけど、そんなの上澄みだけ! 底辺層は碌に稼げず他の仕事を掛け持ちしてどうにか活動してるの! あんたがダイバーなんてなったら借りた武器すぐ壊して借金漬けになるのは目に見えてるんだから!」



「分かったら大人しく普通の仕事に就きなさい!!!」



 一方が厳しく言えば、もう一人はひーん! と涙目になっている。


 一見すれば世話焼きな少女が友人にお節介を焼く普通の光景だ。きっと国全体を見渡せばそこまで珍しいやり取りでもないだろう。日本はそういう国だからだ。


 ――だが。俺はそのやり取りに違和感を覚えずにはいられなかった。


「探索者……? 探索者って、なんだ……?」


 言葉自体は聞き覚えがある。ゲームやアニメでよく耳にした名称だ。


 サブカルやエンタメに関わりがある人間にとっては珍しい単語じゃない。

 特に俺が生まれたのはサブカル全盛期と言ってもいい時代。インターネット技術の進歩。そしてダンジョン系小説が流行った事もあり、日本では何度も耳にした。


 しかし違う。俺が違和感を覚えたのは彼女たちが口にした経緯だ。


 ――どうして彼女達は現実にある職業のように探索者を語るんだ?


 サブカルの話題で盛り上がる中、探索者という単語が出るのは分かる。

 往来で堂々とそういう話をする人は珍しいと感じこそするものの、有り得ない訳ではないだろう。陽キャなオタクなどとっくに珍しくなくなっていたから。


 けれど彼女達は“稼ぐ”と、現実にある職業のように話していた。

 これが違和感でないとすれば、一体何が違和感だというのか。


 少なくとも俺が日本にいた頃、探索者が職業になった話は聞いた事がない。地方で暮らしていたから耳に入らなかった、という事もないはずだ。サブカル好きが多い日本でそんな事が現実に起これば、ネット上などで話題にならない訳がないからだ。


 つまり変化が起きたのは俺が転移した後という事になる――が、


「……よく見れば所々おかしな恰好をした人達がいるな。なんで鎧を着てる? どうして刀や銃を普通に持ち歩いてるんだ! 銃刀法はどうしたんだよ!?」


 道行く人たちの結構な数が武装している事実に眩暈がしてくる。

 ありえないだろう。発したはずの言葉が口の中で掠れて消えた。


 日本は世界でトップクラスに治安が良い国と言われていたはずだ。

 自分が暮らしていた国の事だ。よく覚えている。

 外国ならニュースにもならない小さな事件が大事件として扱われる、平和ボケした安全だが何処かおかしな国。それが俺の記憶にある日本という国だ。


 そんな国の人々が揃って武装している? 何かの冗談だろう。

 間違いなく日本。だからこそ違和感が強く俺の精神を蝕んだ。


「えっと、これが普通じゃないの? 向こうじゃみんな武器持ってたでしょ?」

「……確かにコルウェルでは武器を持つのが当然だった。けど日本は違うんだ。俺の故郷じゃ人間の敵になるのは同じ人間だけ。それすら凶器の所持が禁止されていたから、一般人は武器を持たなくてもいいほど平和で安全なのが当たり前だったんだ」

「そうなんだ。……あ! じゃあタイキがいない間にそうなったとか?」

「それもおかしいんだ。日本の政府はかなり腰が重いって言われてた。それだけの変化を起こす為には長い時間を掛かなきゃいけない。そして世界そのものの変化が加速してたあの時代、10年も経てば街並みがガラリと変わっていてもまったくおかしくない。特に東京は首都で、外国からの影響も一番受けやすい場所だったから」


 それなのに……、俺の目には当時と大差ない街並みが映っている。


 ――まさか。違和感に苛まれていると、脳裏に閃くものがあった。


 ……まさか。まさかっ! 途端、急速に口の中が渇いていく。

 暗い感情が思考を埋め、目の前が真っ暗になる錯覚を覚えた。


 有り得ない。有り得て欲しくない。閃いてしまった考えがどうか間違っていて欲しいと、信じてもいない“何か”に祈った。俺は今、きっと滑稽な姿を晒してる。


「な、なあ。少し時間いいだろうか? 聞きたい事があるんだが」

「はい? ええ、大丈夫ですよ。あまり長くならない程度なら」

「ここって……日本だよな? 日本の首都・東京だろう?」

「? いえ、ここはアズマ皇国の皇都・緋龍ですが。……これってドッキリか何かでしょうか? そういう事であればお断りさせて頂きたいのですが……」

「あ、ああ。悪いな。変な質問をしてしまって。ありがとう」


 いえ。と、質問に答えてくれた女性は訝しげな表情で去っていく。


 俺には彼女が本気でここをアズマ皇国だと信じているように見えた。

 日本ではなく。……もう一度言おう。日本ではなく、だ。


 通行人の中から適当に選んで声を掛けた。ドッキリは考えられない。


「は、はは。アズマ皇国? 何処だよそれ。ここは日本のはずだろ?」

「タイキ、大丈夫? まだ違うと決まった訳じゃないよ。元気出して?」

「……ありがとうフルミー。そうだな。まだ違う国と決まった訳じゃない。あの人が変な勘違いをしてる可能性もあるんだ。もう何人かにも話を聞いてみるよ」

「その意気だよタイキ! 大丈夫、わたしがずっと隣にいるからね?」


 可愛らしく声援を送る妻に再び感謝を告げ、調査を再開する。


 ……だが。調査の結果はとても結果は芳しいとは言えなかった。

 何人かに尋ねたものの、彼らは揃ってここをアズマ皇国だと口にした。


 男性。女性。老人。若者。社会人。学生。その他にも様々なタイプの人たちに質問したが、誰もが同じ回答をした。日本と答えた人は一人もいなかった。


 ――もはや確定的だった。疑う余地もない。


 ここは日本に酷似した別の国……アズマ皇国なのだ。


「……はは。ははははは。そうか。ここはアズマ皇国なのか。日本じゃなく? 日本じゃない日本じゃない日本じゃない日本じゃない日本じゃない日本じゃない。……日本、でないのだとすればっ。俺はこれまで、いったいっ、何の為に……ッ!!!」


 ゴォン!!! 殴り付けたアスファルトが砕け、弾け飛ぶ。


 フルミーが泣きそうな表情で傍に寄り添ってくる。言葉はない。

 彼女を気遣う余裕すら俺にはなくて、無力感から青空に吼えた。


「――あァアアアアアアアアアアアアアアッッッッッ!!!!!!!!!!」



 ――俺は、地球への帰還に失敗したのだ。

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