楽園計画 ~死者の声を糧に、理想郷を描く~

パンドラ

大火の魔女と理想を背負う男

 険しい岩の渓谷を一人の男が行く。

 男の行く手を阻むように灰塵が舞う。

 ここは不毛の大地。何もかもが焼き尽くされ、植物の芽すらも燃え尽きた土地。

 魔女により、滅びた国の跡地。


「ああ、ああ。わかってる」


 男は周囲に人影はない。にもかかわらず、誰かと会話しているかのように言葉を発している。

 白く積もる灰の中で。


「もちろんだとも。そのために、私はここに来たんだ」


 白い灰が舞い起こる中、男は昏く燃え盛る都市を目指して進む。

 そこにいるはずの、【大火の魔女】を目指して。


 ――大火の魔女。その名を知らぬ者は、もはや周辺諸国に存在しない。

 “燃え盛る一週間”と呼ばれる災害の爪痕は、人々の心に深い恐怖を刻み付けた。

 魔女とは悲劇によって生まれる怪物だ。その中でも大火の魔女がひと際有名な理由は、栄華を誇っていた大国が、ものの一週間で全域が炎に包まれ滅ぼされたからだ。誰もが名前を聞き、誰もが恐れていた強国が、ただの一週間で。

 そんなこと、魔女以外に誰ができる。故に恐れられるのだ、≪大火≫の魔女と


 当時何があったのか、正しく語れるものはいない。彼らは悉く、骨すら残らぬ灰になってしまっていた。

 魔女の炎から逃れられた関係者はいない。灰は何も語らない。真実は炎に包まれ消え去った。

 だからこそ、真実を語ろう。語れるものは全て死に絶えた、真実の歴史を。



 大国ディアンテラ。その国土にある町の一つに彼女はいた。

 彼女の名はルトラウラ。心優しい、慈愛の心に溢れた女性だった。

 町の外れにある孤児院の院長を務めており、若いながらも確かな能力と、溢れる友愛の精神によって彼女は町の中でも一定の人徳を獲得していた。彼女が美しい人だったのも、一役買っていたかもしれない。


 孤児院は決して裕福ではなかった。

 それは、救わねばならない子供たちの多さを意味している。

 この町の貧富の差、歪んだ社会構造、それらは弱者に牙を剥く。すなわち――子供たちへと。


「それでも、人を信じて。優しくありましょう」

「憎しみは苦しみを生み出すだけ。どうか、だから、苦しくても踏みとどまらないといけないの」

「笑顔でいましょう。誰よりも幸せそうに」


 これは、ルトラウラがよく子供たちに言い聞かせていた言葉だった。

 辛くても憎んではいけない。人は必ず優しさを持っているはずだから、と。


 子供たちが卑屈になるのは環境のせいだと、必死に働いて環境を改善しようとした。

 子供たちが健やかに成長できるように、苦労らしき苦労を表に見せなかった。

 場所が場所ならば、時代が時代ならば、彼女は聖女としてもてはやされていたに違いない。それほどに、滅私奉公に勤めた人物だった。


 全ては子供たちのために。ただそのためだけに、ありとあらゆる全てを行っていた。


「先生! ルトラウラ先生!」

「はあい、どうかした?」

「せんせー!」


 子供たちが楽しそうにルトラウラの元へ駆け寄ってくる。

 子供たちは母親としてルトラウラを愛し。それ以上にルトラウラは子供たちを愛した。


 孤児院の経営が苦しい中でも、どんな苦境に晒されても、彼女たちはお互いがいればそれでいい。幸せな空間が、そこにはあった。


 陽だまりの中、庭で遊ぶ子供たちを眺めるルトラウラ。

 古びたボールは、何度も修復されてもう見るも無残な姿だ。それでも、子供たちからすれば愛するべき先生がくれた遊び道具。

 取り合いになるほどの人気なものだった。


 ルトラウラの周りでは、大好きな先生の側で安心して眠る子供たちや、一緒になって子供たちの面倒を見ている年長の子たちがいた。

 何事もなく、平和で、平穏で、健やかな場所。誰よりも彼女が愛した場所。彼女が目指す理想が実現していたのだ。


 不意に、孤児院の入り口に馬車が止まる。

 馬車。そんなものを使うなんて、よほど裕福な人物だ。ルトラウラは一人体を固くする。

 子供たちはその様子を見て、少しだけ不安がる。

 己の失態を理解し、大丈夫だよと彼女は子供たちへ笑いかけた。


 馬車から男が下りてくる。貴族その人ではなくても、服装を見れば身分の高い人物だとわかる。

 彼は縁で休んでいるルトラウラを見つけると、子供の事など気にせず――むしろ侮蔑するような表情を浮かべながら――一直線にやってくる。


「その銀髪。貴方がルトラウラですね」

「はい。失礼ですが、貴方様は……」

「マーシュ様の使いです。よもや、この町で過ごしておきながら、この名を知らぬわけではありませんよね?」

「いいえ。もちろん、存じ上げております」


 マーシュ。それはこの町を仕切る貴族の一人息子だ。好色家として有名で、町の女性の間では悪名高く、ルトラウラの耳にももれなくその噂は入っていた。


「でしたら話が早い。マーシュ様が貴方を呼んでいます。私と一緒に来てください」


 男は品定めするようにルトラウラを眺め見る。

 ふむと一声出したところを見るに、男から見ても彼女は十分評価に値する見た目をしているようだ。


「先生に失礼なことするな!」


 年長者の一人が、何かを感じ取ったのか男とルトラウラの間に割って入る。


「駄目! リディ!」

「……なんですかこのガキは」

「すみませんすみません。どうかお許しください……っ!」


 すぐさま庇うように、ルトラウラがリディを抱きかかえる。

 男は拳を握り締めていたが、主人が呼んだ女を傷つけるわけにもいかず、何とか拳を下ろした。


「いいでしょう。すぐに支度してきなさい。馬車の前で待ってますからね」


 男はこれ以上話すことはないと、馬車の方へと帰っていく。

 それを見て、ルトラウラは安心して一息入れる。


「でも、先生」

「私なら大丈夫。少し出てくるだけだから、シーリィと一緒になって皆の事をお願いね」

「……うん」


 優しく子供の頭を撫でて、彼女は立ち上がった。

 寝ている子供たちを起こさないようにそっと。不安そうな子供たちを安心させるように笑顔で。

 内に秘めた不安は、決して表には出さないまま。


 馬車に乗り、彼女は貴族の屋敷へと向かう。

 道中、彼女はこれからどうなるかを考えていた。

 もしかしたら子供たちを売れと迫られるのではと思うと、恐々とする。本当にそう言われたのなら、なんとしてでも拒否するつもりでいた。


 全ては愛しい子供たちのために。貴族に立ち向かう事だって、彼らの笑顔を思えば恐ろしいことではない。


 馬車が到着し、豪勢な館にたどり着く。孤児院とは比べ物にならない。何ならば、そこら辺の調度品を少し集めれば孤児院そのものが買えてしまうのではないかという豪華さだ。

 そんな部屋部屋の中でも、特に豪華な廊下を通り、彼女は一つの部屋の前に案内された。


「入り給え」

「……失礼します」

「おお、噂通り美しい。銀色の髪も、なんと珍しい」


 マーシュは脂ぎった金色の髪を短く切りそろえた男だった。

 影で豚やら鐘など散々言われている通り、贅沢を過ごした体は太ましい。

 見るも醜悪な姿だが、ルトラウラは決して外見で人を差別しない。


「恐縮です。それで、何の御用でしょうか」

「ん? まあ後でもいいだろう、ほらほら、近くに寄れ」


 ルトラウラは毅然として動かない。その様子に、マーシュは少し機嫌を悪くしたようだが、その真剣な視線にさらされるのも悪くないとすぐに機嫌を戻した。


「なに、巷で噂の美しい女性に興味があってね。呼んでみたのさ。いやあ、噂なんて当てにならないものだ」

「ご期待に沿えなかったのならばこれで――」

「そう結論を急ぐな。私が言いたいのは、お前は噂なんかで聞いたよりも遥かに美しいということだ」


 褒めている、がマーシュの眼には好き物のそれでしかない。

 ルトラウラは複雑な心境だった。どうするべきか迷っている。


「それで、何の御用でしょうか」

「会話を楽しむ余裕もないか。そんなに子供たちとやらが心配か?」


 彼女は歯を食いしばる。逆らうわけにはいかない。

 でも、子供たちに手を出すのなら――。


「条件付きで、私がお前の援助をしてやっても良い。」


 彼の口から出てきたのは、ルトラウラが想像もしていなかったことだ。

 貴族は汚らしい子供の事など好かないだろうと彼女は思っていた。実際、使いの男は子供たちをかなり消し去りたいという視線を向けていた。

 

「どうだ? 金銭面的に厳しいのだろう?」

「その、条件というのは」


 食らいついた。マーシュの笑みが深まる。


「お前が私の女になれ。お前ほど美しい女はそういない。なあに、悪いようにはしないさ」


 わかっていた言葉だった。その可能性をルトラウラが考えなかったわけじゃない。

 でも、援助は魅力的だ。子供たちにこれ以上苦労させないで済む。

 ルトラウラがマーシュに従えば、それだけでいい。彼女からすれば、己が我慢するだけで愛する子供たちが幸せに暮らせるようになるのだ。


 出した答えは――。


「わかり、ました」


 その日から数日が経った。

 屋敷から帰る前に渡された金子は、彼女が一年頑張っても到底追いつかない額で。

 これでよかったのだと、ルトラウラは自分を納得させた。

 貴族の後見があれば、孤児院に手を出せる人は少なくなる。子供たちを守るためにも、これでよかったのだと……。


 そうして、お金が手に入ったことで、子供たちの生活は豊かになった。

 時折マーシュに呼ばれることはあったが、話し相手を少しするぐらいで済んでいた。

 これでよかったのだと、ルトラウラは一人ごちる。これから色々なことをされるだろうが、幸せそうな子供たちの姿を見ていれば報われる。

 これでいいのだと……。


「ねえ、先生」

「ん? どうかした、シーリィ。先生、これから町に買い物に行かないとなの」

「僕たちもついて行く!」

「駄目よ。お願いだから、お留守番していて」


 不満そうにしている子供たち。

 それでも、町へ連れて行けば彼らを悪意に晒すことになる。彼女はそれが耐えられなかった。


「じゃあ、帰ってきたらお話聞いてくれる? 大事なお話があるの」

「うん、帰ってきたら、なんでも聞いてあげる」

「なら、お留守番する……」


 愛しい子供たちの頭を撫でて、彼女は町へと向かった。

 孤児院がある区画から、買い物へ向かうには川を通らないといけない。これは、貧民区画とそうでない場所を分けるためだった。

 一歩通常区画へ足を踏み入れれば、そこは貧民区画にとっては生きづらい世界。

 買い物一つするだけで、物を盗むんじゃないかと疑われ、金を払えば、どこで盗んだんだと迫られる。

 彼女は子供たちをそんな目に遭わせたくはなかったのだ。


 でも、彼女にとって今日はそう言った悪意も辛くなかった。

 帰ったら大事な話があると子供たちが言っていたのだ。それを笑顔で受け入れてあげるために、笑顔で帰らないといけない。

 だから、気にしている余裕なんてどこにもなかった。


 そうして、帰ろうとしたとき、彼女は違和感に気が付いた。

 普段はさっさと帰らせようとする一般区画の人々が、やたらとルトラウラを引き留めてくる。

 何か作意を感じた彼女は、子供たちが心配になり、買い物を途中で切り上げて帰ろうとする。

 それでも引き留められるが、無理やり振り払ってでも帰り道を急ぐ。


 川を越えたあたりで、何が起きているのかが判明した。


 燃えている。愛するべき子たちの家が、安らぎの場所が。

 彼女は思わず持っていた紙袋をその場に落とす。


「……嘘」


 孤児院を取り巻く人々は、誰一人として手出しをしようとしない。

 その代わりに、笑っていた。


「貴族様に逆らったんだって」

「馬鹿よねぇ」

「金にもならん子供ばかり集めていて、小汚いと思っていたんだ」


 信じられない言葉だった。ルトラウラは自分の耳を疑った。


「最初からこうすればよかったのよ」

「俺らよりもいい物食ってたガキが消えてすっきりしたぜ!」


 富める者も貧する者も、等しくこの状況を喜んでいる。

 それが、どうしてもルトラウラには信じられなかった。


「ルトラウラ」

「マーシュ、さま」


 背後から声を掛けられたと思ったら、そこには契約したはずの相手、マーシュがいた。


「どう、して。あの子たちを、守ってくださると……」

「ん? ああ、そんなことは言っていない。お前を援助してやると言っただけだ。お前さえ手に入れば、残りかすになど興味はない」


 彼女は自分の耳を疑った。何を聞いたか、信じたくなかった。


「しかし、お前が手に入ったとしても最優先が他にいるのは面白くない。だから、消すことにしたんだ」


 悪びれもせず、マーシュはルトラウラへ近づいていく。彼女がどんな表情を浮かべているのかも気にしないで。


「なあに。これからは苦労ない生活をさせてやる。だから、あいつらなんか忘れて――ぶごっ!」

「ふざけないで! みんな! 私の、私の子供たち!」


 マーシュの顔面を勢いよく殴りつけ、ルトラウラは燃え盛る孤児院へとひた走る。

 背後で誰か止めるようにと声が上がるが、一目散に走る彼女が炎に飛び込む方が早かった。


「けほっ、けほっ。みん、な。どこ、私が、助けに……っ!」


 炎に包まれた孤児院の中。煙で視界が悪く、木造の建物は大部分が倒壊していた。

 それでも諦めない、諦められない。燃え盛る木の柱を素手でどかし、必死になって子供たちを捜索する。

 手が焼けようと、のどが焼けようと、髪の毛が縮れようと知ったことではない。彼女の最愛、彼女のいるべき場所、彼女の全て。それらを求めて、探し回る。

 そうして、見つけた。二人が抱き合って倒れている姿。


「シーリィ! リディ!」


 仲良しの二人組。年長で、よく手伝ってくれる二人。

 その二人に駆け寄り――既に息絶えていることに絶望する。

 二人の表情は、どれほど苦しんだのか、非常に醜いものになっていた。

 その顔から、もう悲鳴が聞こえてきそうなほど。助けをどれだけ求めたことか、どれだけ苦しんで死んでいっただろうか。


 よく見ると、彼らの手も足もよく焼けている。この子たちも、他の子を助けようを燃え盛る孤児院の中をかけずり回ったのだ。

 どれだけ辛かっただろう。どれだけ無念だっただろう。どれだけ声を上げたかっただろう。

 でも、誰も助けてはくれなかった。どれだけ失意の底に沈んだことだろう。


「……許せない」


 全てが灰になっていく。愛しい記憶も、愛しい子も、愛しいものも……。


 悲劇により、魔女は生まれる。世界を歪ませるほどの憎悪が魔女を作り出す。

 ルトラウラの綺麗だった銀髪が紅く染まっていく。


「許せない、許していいはずがない。この子たちを奪った世界を。この子たちを傷つけた人々を。愚かな人々を信じようとした、誰よりも愚かな私自身を……っ!」


 優しかった彼女の眼差しにもはや面影はない。憎悪にまみれ、もはや何物もその瞳に映すことはないだろう。


 こうやって、世界を呪う魔女は生まれた。生きとし生けるものを憎み、存在を許さない否定の魔女。大火の魔女が――。

 一夜にして、この町は滅びた。もちろん、目撃者はいない。皆、灰となり等しく天に還った。



 燃え盛る町の中。舞い上がる灰。儚く散る火の粉が歓迎する中で、男は彼女を見つけた。

 炎よりも赤く揺らめく髪。光を失った昏き瞳。大火の魔女――ルトラウラ。


「……誰だ」

「こんにちは。君が、ルトラウラさんだね」

「お前も、奪いに来たのか」


 彼女の言葉に反応して、業火は形を変える。熱気によって陽炎が揺らめく。


「いいや、私は――」

「私から、これ以上、何を奪うと言うのか!」


 問答無用。継ぐ言葉も聞かずに、炎が男に襲い掛かる。

 叩きつけられた炎が飛び散り、辺りを明るく照らす。

 彼は未来を予知していたかのようにその場から逃れており、炎は無を燃やしただけで済んだ。


「私たちが何をした!」


 大火の魔女が叫ぶ。嘆きに反応して、周囲の炎がますます激しく天を焦がす。


「私たちはただそこで暮らしていただけだ! その私たちが何をした!」


 炎が家を砕く。


「何を傷つけた! 何を損ねた! 何を壊した! 何を奪った!」


 炎が世界を歪ませる。


「何も、何も、何もだ! 私たちは何もしていない! それすらも許されないというのか!」


 何もかもが、灰へと還っていく。天高く空へと返っていく。


「こんな世界、間違っている! 許されてはならない、許してはならない!」


 憎悪に狂う魔女を見て、男は悲しそうに眼を細める。

 何かに耳を貸すように、少しだけ視線を横へと向けた。


「――ああ、そうだね。届けよう、君たちの言葉を」


 男はまたしても虚無へと語り掛ける。相手がすぐそこにいるかのように。


「滅びてしまえばいい! 燃えて、消えて、全て跡形もなくなくなってしまえばいい! あの子たちの悲しみを、あの子たちの苦しみを! 知らぬままに生きることなんて、許されていいはずがない!」


 炎が世界を覆いつくす。この炎は彼女の憎悪そのものだ。

 消えることのない傷の証。全てを拒絶し、全てを等しく灰にする、平等な怒り。

 分け隔てなく、愛したものたちと同じように――。


「そんな物語は、悲しすぎる」


 男はローブを身にまとったまま、業火へと向かって走る。

 無作為に無造作に暴れ狂う炎の間隙を縫い、男はルトラウラを目指す。

 ちらりと火の粉が跳ねる。男が一歩踏み込むと同時に、背後から炎に包まれた廃材が彼目掛けて落ちてきた。


 しかし、彼はそちらへ視線を向けることもなく避けてみせる。

 炎の網も避け、火の粉がかかるのも無視して、男は一直線に走り続ける。

 近づくごとに、炎は激しさを増していく。彼女の激情が、絶望がどれだけ深いのかを思い知らされる。

 だとしても、男は止まる気などなかった。止まれない理由があった。


「あの子たちだけが死に! 傷つけた者どもはのうのうと生きている! そんなことが、あっていいはずがない!」

「……ああ、そうだね。だから、君は救われなければならない」


 後ろに目があるのか、未来予知でもしているのか、男は炎をぎりぎりのところで避けながら進み――ついにルトラウラの手首をつかむ。同時に、掴んだ手が炎に包まれる。

 皮膚どころか骨すらも焼く紅き炎。だが、男は掴む手に更に力を入れる。

 初めて、ルトラウラの眼が男の姿を捉えた。


「聞け! ルトラウラ!」

「……誰だ、お前は」

「お前の子の、声を届けに来た!」


 ルトラウラの瞳に感情が戻る。困惑の色。

 その色は、すぐさま別の色に変わることとなる。


『先生、ルトラウラ先生、もうやめて』

「……えっ」

『僕たちのせいで苦しまないで』

「シー、リィ? リディ?」


 炎の揺らめきが、一瞬だけ固まった。


「違う。そんなはずは。幻聴だ、こんなもの……」

『ごめんなさい』

『僕たちのせいで、ずっと悲しませてて』

「違う、違う違う違う! シーリィも、リディも! あの日炎に飲まれて、私は、助けられなくて……っ!」


 頭を抱えて喚く。掴まれた腕を振り払おうと暴れるが、力は所詮女性のものだ。男は意地でも放さない。


「あの子たちが、私に、謝るはずがない。きっと憎んで――」

『そんなことないよ、先生』

『僕たちはずっと、先生を見てたの』

『ずっとずっと、謝りたかった』


 やめて欲しいと、悲鳴を上げている。聞きたくないと体を捻じる。

 それでも、男はその手を放さない。焼けた肉の臭いが、辺りに立ち込めてきた。


『僕たちのせいで、優しかった先生が変わってしまった』

『僕たちは先生の笑顔を見るのが凄い好きだったのに。僕たちのせいで、笑えなくしちゃった』

「あ、ああ……」


 段々と、彼女の体から力が抜けていく。


『ずっと言いたくても、恥ずかしくて言えなかったことが、やっと言える』

『ありがとう、

『僕たちはお母さんといられて、とても、幸せだった』


 その時、確かに彼女の眼は捉えた。

 己の手を掴む男の傍らに立つ、最愛の子たち。そのうちの二人の姿を。


 彼女を取り巻いていた炎が、消えた。


『それじゃあ、僕たちも行くね』

「待って、待って!」

『みんなを待たせてるから』

「待って、お願い、ねぇ」

『ありがとうお母さん。僕たちはずっと――』

「待って!」


 二人の姿が、霧が宙に掻き消えるかのように消える。


「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 ――幸せだった。それだけを言い残して。



「……落ち着いたかな」

「……ああ」


 町を覆っていた炎は消え去り、灰が辺り一面を白く染めている。

 灰の上に横たわるルトラウラの髪は紅いまま。元の色には戻っていない。

 それはきっと、彼女の中の憎悪が完全に消えたわけでないことを表しているのだろう。


「殺してくれ」


 当然の言葉だった。


「私は、憎悪のままに多くの悲劇を招いた。今更、生きようとは思わん。だから、殺してくれ」

「……断る、と言ったら?」


 ルトラウラの表情は暗い。そのまま行けば、自死を選ぶだろう。


「君は悲しみを知る者だ」


 だから、男は言葉が途切れることなく続ける。


「どうか、その悲しみを、理不尽を、この世界を良くするために使ってくれないか?」


 その言葉は、彼女の興味を引いた。二人の視線が合う。

 男は笑ってみせた。


「共に来て欲しい。ルトラウラ、この世に悲しみが少しでも生まれない国を――楽園を――作りたいとは思わないか」

「楽園、だと」

「そうだ。悲しみを、理不尽を知る君だからこそ、少しでも悲しみを減らせるんじゃないかと私は思う」


 空は青く、明るい日差しが男を照らしている。


「私は国を作ろうと思っている。一人でも悲しむ人が少ない国を。どうか、力を貸してほしい」


 そう言って、男は倒れたままの彼女へと手を差し伸べる。


「君の力が必要だ、ルトラウラ」

「私の、だと? この血に濡れた、忌むべき魔女の?」

「ああ、そうだ」


 目を合わせ続け、一瞬たりとも逸らさなかった。

 ルトラウラは逡巡し、何かを決めたように口を開く。


「お前の名は、なんだ」

「私の名前か?」

「ああ」


 男は差し出した方とは別の手で顎をさすり、考えて見せる。

 そうしてから一度笑い、答えた。


「トードだ」

「そうか。トード」


 ルトラウラはトードが差し伸べた手を掴み、起き上がる。


「それがあの子たちのような悲劇を減らせるというのなら、私は手を貸そう。それが、悲劇を振り撒いた私にできる、罪滅ぼしだ」


 これがやがて稀代の善王と呼ばれる男、トードと。

 彼を側で支え続けたという魔女、ルトラウラの出会いだった。

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