第30話 再起の旅
夕暮れの空が薄紅から鈍い灰色へと染まり、遠くに見え始めたマケフ領の街並みもどこかかすんでいる。馬車の窓から覗く畑や点在する建物は穏やかな田園風景であるはずなのに、敗走するエルフ族にとってそれはただ無力感を増すだけの何もない風景に見えていた。
馬車の揺れに合わせて外を見つめる久遠の瞳にはかすかな疲労と失意が滲む。馬車の内部に視線を戻せば、いまだ気を失ったまま寝かされている運と、彼に付き添う疲れた顔の五十鈴がいる。彼女は表情に言いようのない哀しみを浮かべ、燃え尽きた故郷の記憶と失われたものへの喪失感を心のうちから追い出すように、運の看病にだけ気を向けているように見えた。
沈黙が馬車の中に重く垂れ込めていた。
冷えてきた風が窓から冷たく吹き込み、かすかに焦げた木の香りが鼻を刺す。そこはもうオクヤの森ではない。久遠も五十鈴も、全身に灰を浴びながら戦い続けた結果だった。
「このすすの匂いでさえ、故郷や二度と戻らぬ仲間たちの思い出であるような気がします」
五十鈴は風がその香りを払い去っていくのを惜しむように目を閉じた。
マケフ領が次第に近づいても、そこにある安息に救われるという感覚はないようで、ただ深まる絶望のなかで彼女たちは静かに前に進むしかなかった。
「う……うう……」
そんななか、横になっていた運がうめき声をあげた。
「お兄ちゃん!」
「運殿!」
目を覚ました運を覗き込むように、二人は運の顔を見た。
「久遠……五十鈴も……」
二人に気づいた運は一度は安堵の表情を見せるも、すぐにその表情には緊張が走った。
「しまった! 黒騎士は!」
運は飛び起きるように上半身を起こしたが、そこが直前の記憶とはまるで異なる場所であることに気づいて意気消沈するように肩を落とした。
「……そうか。俺は負けてしまったのか、あの黒騎士に」
運は自分の身体の無事を確かめるように両手を見つめた。
「あんな激突になったんだ……生きてただけ儲けもんか……」
「もうっ! バカッ! バカバカッ! お兄ちゃんのバカッ!」
そう言いながら久遠は運の胸に飛び込んで泣いた。
「心配かけてすまなかったな、久遠」
「知らないっ! もう知らないもんっ!」
運は久遠の頭に手を置いた。
「そしてありがとう。ヒールしてくれたんだろ? 身体の痛みがまったくない」
久遠は涙が溜まったままの目を運に向ける。
「でも、死んじゃったら、もう治せないんだよ?」
「そうだったな」
「うわ~んっ! お兄ちゃんが生きてて良かった~!」
運は久遠の頭を何度も撫でた。
「運殿、もう大丈夫なのですか?」
「ああ。五十鈴もありがとう。俺を助けてくれたんだろ? 意識を失う直前に駆けつけてくる五十鈴の姿が見えたような気がしたんだ」
「はい……ですが、そのあとは黒騎士の前からおめおめと逃げ帰ってきました」
「だけどそのおかげで命拾いしたよ……五十鈴は命の恩人だな」
「とんでもありません。我々エルフ族も運殿、久遠殿のおかげで最低限の被害で済んだのです」
そこで運は初めて悔しさを滲ませたような表情をした。
「しかしオクヤの里はもう……。エルフ族はこれからどうするつもりなんだ?」
「族長が言うには、しばらくマケフ領にお世話になるそうです。私たちはなんとか逃げ延び、今はもうマケフ領が遠くに見えるところまでやって来ています。先行させた者が言うには、領主様はすでに我々を受け入れる準備を整えてくださっているとか」
「そうか……あそこはエルフ族とも交流があるんだったな。領主のエアロスターもいい奴だったし」
「それにたしかラムウ教キャンター枢機卿の親族だから、まわりの貴族も迂闊に手を出せないとか言ってたよね」
「そうですね。その辺りの事情も含めて我々はマケフ領に保護していただく。そういうことになりそうです」
「俺たちが見学に来てたとき、オクヤの里に戻る前にも今回の侵攻に関して色々と準備をしておくと言っていたからな……今にして思えば、この結果を予想していたのかもしれないな」
「領主様は聡明なお方ですから。……聞けば、以前から里の者に対し避難を勧めてくれていたそうです。エルフ族も頑なに自身の力を過信せず、領主様の忠告に従っていればこうまで最悪の結果にはならなかったのかもしれませんね」
「……行き場所が完全になくなったわけじゃないのが不幸中の幸いだな」
「はい、そのとおりです」
五十鈴は重く頷いた。
またしばらくの沈黙が続くなか、運は窓の外を見る。そこには夕闇に紛れるように歩むエルフたちの姿が広がっていた。敗走や長旅の疲れで足を引きずる者や、肩を落とし顔を伏せた者も多く、静かな行列は哀しみに染まっていた。自らの勝利を疑っていなかった誇り高い姿はそこになく、皆ただひたすらに前へ進むことでうしろを振り返らないようにしていた。
傷を負った仲間を支え合いながら進む者たちの足元にはところどころ赤土が舞い、焦げた布や傷んだ武具がチラリと見える。まるで燃え尽きた故郷の残り火が影となって彼らの身体を引っ張っているかのようだった。
――これだけ……か。ここには兵が多いようだが、一般市民は先に逃げたのか……?
運は首を傾げながらふと疑問に思ったことを五十鈴に尋ねる。
「みんなの安否確認は?」
「満足にできていません……みんな、それぞれ必死に散って逃げたものですから」
「一般市民は……? ミューやフィリーとか、ちゃんと逃げられたんだろうか……?」
「わかりません……」
五十鈴は力なく首を横に振った。
「目的のわからない黒騎士はともかく、公国軍の狙いは最初からエルフ狩りだったはずだ……この様子じゃ、捕まってしまった人もけっこういるんだろうな……」
「無念です……」
「すぐにでも助けに行きたいところだが、どこに連れて行かれたのかがわからないと……」
「それならまだそれほど時間が経っておりません、普通に考えればコエ領でしょう」
「そうなのか?」
「まず間違いなく。コエ領は反エルフの代表格ですから。今回の戦争の主格でもあります」
それを聞くや否や、運は自身の拳を手のひらに打ちつけた。
「なら、早いところ殴り込みに行くか」
運は哀愁を振り払うように口の端を吊り上げ、自信たっぷりに笑って見せた。
「だ、大丈夫なのお兄ちゃん? 身体は?」
「久遠が回復してくれただろ?」
そう言ったところで運は大事なことを思い出す。
「……あ、そういえば俺のトラック、大破してしまったんだっけ」
「大丈夫。私の回復魔法でトラックも一緒に直ったみたいだから」
「そっか。久遠様々だな」
「うん……」
だが久遠は浮かない顔をしていた。
「どうした? 得意げに抱きついてこないのか?」
「さすがに、今はそんな気分にはなれないよ」
「……それもそうだな」
運が必死に振り払おうとしても三人の間の空気は重いままだった。
「お兄ちゃん、正直に聞くね? 今度またあの黒騎士と戦うことになったら、勝てそう?」
「今のままじゃ、無理だな」
「レベルを上げれば?」
「キツいと思う。実は俺のレベル、エヒモセスに来た直後のトラック無双のせいかそれなりに高いんだ。だから黒騎士との力の差に追いつくほど伸びしろがあるかどうか、正直微妙だと思ってたところなんだ」
「でもそれじゃあ、あの黒騎士はなんなの? どうしてあんなに強いの?」
「それはわからん……だが、実際に戦ってみて一つ思い当たったこともある。……たぶん、黒騎士も俺と同じ轢く側の人間、トラックドライバーなんだ」
「「え!?」」
久遠と五十鈴は息を飲んだ。
「あいつが最後に使ったスキル、カウンターウェイトっていうのは、トラックの重心を整えるための鉄塊、重りのことなんだよ……黒騎士はトラックスキルが使える。それはすなわち、俺と同じくトラックドライバーだからだ」
「それじゃあ、黒騎士は轢く側の強さを持ちながら、お兄ちゃんよりもレベルが高いってこと……?」
「だろうな……しかし俺との差があまりに大きかったからな。ほかにもまだ俺たちが知らない秘密でもあるのかもしれん」
「どうなんだろう……? お兄ちゃん、良かったら私にもう一度ステータス見せて?」
「おう、いいぜ」
運はナビ画面にステータスを表示させ、久遠のほうへ向けた。
「相変わらず、普通の人間と極振りトラックだろ?」
「あはは、そうだね……って、あれ? お兄ちゃん、あれからステータスの数値が変わってなくない?」
久遠は苦笑いを浮かべながらも首を傾げた。
運はそれを気にした様子もなく、あっけらかんと即答する。
「ステータスの数値? 変わってないが? それがどうかしたのか?」
「え? だって勇者さんたちを倒してからも忍者マスターズやドリアード、五十鈴さんやトラクターとも数多く戦ってきたよね?」
「それはそうだな」
「転移転生者も多く含まれるし、きっとものすごーくパラメータポイントが入ってるはずだと思うんだけど、なんで変わってないの?」
「そんなの、俺に聞かれても」
久遠は唖然とした表情のあと、次第に運を咎めるような顔になって問う。
「お兄ちゃん。念のために聞くけど、最後にパラメータ割り振ったの、いつ?」
「ん? そりゃあ……エヒモセスに来たばかりの頃だから……勇者たちと戦う直前だな」
「はぁ!?」
久遠は少し呆れたか怒ったような口調で運に迫った。
「はぁ!? って、な、なんだよ。その反応は……」
「だってそうなるよ……。お兄ちゃん、全然ステータスにポイント割り振ってないじゃん」
「え?」
「だから、勇者さんたちやその他色々、チートな強さを誇る人たちと戦って得た莫大な経験値を、お兄ちゃんはまるで活用してないってこと」
「そ、そうなのか……?」
運は久遠から仰け反るように身を引いた。
「あ、呆れた……疎いにもほどがあるよ~」
「す、すまん」
「でも待って。ってことはもしかして……。うわ! なにこれエグ過ぎる……」
「どうした?」
「お兄ちゃん、トラックの荷台、開けて見てもいい?」
「いいけど、何も入ってないぜ?」
「いいから早く。私の予想が正しければ、きっととんでもないことになってるから」
「お、おう……じゃあまず、馬車から降りねーとな」
運は久遠に気圧されるように馬車から降りてトラックを呼び出した。
「すげ……久遠お前、本当になんでも直せるんだな……大破した俺のトラックが完璧に直ってやがる……」
驚く運を尻目に久遠は得意げに荷台のほうへと歩いて行く。
「驚くのはまだ早いかも、よ?」
久遠によって開け放たれる荷台の扉。
「なんだこれ……宝の山じゃねーか……」
そこには運の思いもよらぬ光景が広がっていた。金銀の装飾品や宝石がまばゆい輝きを放ちつつ無造作に積み上げられている。宝の山はきらきらと夕日を反射し、荷台全体がまるで黄金の海に変わったかのようだった。
「そうだよね、どう見たって宝の山だよね?」
「どうしたんだよ久遠、これ」
「私はなんにもしてないよ。これを人知れず集めてきたのはお兄ちゃんだし」
「は? いつの間に?」
「ドロップ品だよ。お兄ちゃんが今まで倒してきた人たちのね……にしても、ちょっと趣味の悪い収集品があるなぁ……。あいりさんかなぁ? 忍者マスターズかなぁ? それとも公国軍の機動兵器部隊のなかに変な人がいたのかなぁ……」
古びた王冠や美しい細工が施された装飾品、絵画や壷、金銀の硬貨。大きな宝石が紛れもなく無造作に山として積み上げられ、見るものを圧倒する存在感を放っていた。
「ドロップ……? なるほど、そうか。そういえば建物内でやられた運転手のトラックも人の手に渡ってたもんな」
「勇者さんたちだけでもたんまりと溜め込んでただろうし、数多くのチート転移転生者を倒してきたから……とんでもない額になるよね?」
「それぞれチート級の能力を持つ転移転生者が苦労して集めてきた努力の結晶……その数十人ぶんを俺が総取りしちまったのか……」
「もちろんトラック無双のぶんもね。なんでお兄ちゃんこんなことに気づかないのかとも思ったけど、こんなのケタがおかしすぎて絶対に所持金だなんて思えないよね~……」
「ああ、正直なんかのバグかナヴィのイタズラかと思ってた……」
「……これ、生活費どころじゃないよね?」
久遠は呆れたように渇いた半笑いで運に言う。
――だろうな。たぶんこれ一つ一つがとんでもないお宝なんだろうし、売り払えば俺たちが遊んで暮らしたって一生使い切らないような金額になるんだろう。
運はそんなふうに思いながらも、二人の様子が気になって馬車から出てきた五十鈴をひと目見た。五十鈴は運の隣に並んで荷台の中身に気づいたあと、ただただ放心していた。
「せっかくだし、これはエルフ族の再興にでも使ってもらおうか」
運の言葉を聞いて五十鈴は飛び上がるように驚いた。
「運殿! いくらなんでもそれは!」
「いや、使わせてくれよ。俺たちにも里を守れなかった責任があるし、何よりともに歩くと決めた仲間たちが困っているのを見過ごすことなんかできないだろ」
「運殿……」
「そうだよねお兄ちゃん! 欲しいのはこんなお金よりも平和で楽しい毎日だよねっ!」
「おう!」
「良かった~。お兄ちゃんがそう言ってくれて」
「さて、そうと決まれば行動は早いほうがいいだろうな。これで少しは再興の兆しが見えてきたってもんだ。五十鈴はあとでこの件を族長に伝えておいてくれ」
「わかりました……。しかし、それでは運殿はこれからどうなさるおつもりです?」
「俺はもう一度自分のステータスを見直す。そして活用していなかった経験値をちゃんと割り振ったそのあとは、すぐにコエ領に行く」
運の声は静かに煮え立つような怒気を帯びていた。
「さらわれたエルフ族を助けに行くんだよね?」
「ああ……あいつら、ちょっと俺を怒らせ過ぎた」
「お兄ちゃん、本気なんだね?」
「ああ……。今回負けてよくわかったよ。負けたらボコボコになっても文句すら言えやしねぇ……これが戦争って言うんなら、こっちももう仲間たちを守るために手段は選ばない。今度はこっちから攻め入って、奪われたもんを根こそぎ取り返してやるぜ!」
運は強い覚悟とともに拳を握り締めた。
「俺はもう絶対に負けない。仲間たちも絶対に守り抜く。絶対にだ」
「うんっ! できるよ、私たちならっ!」
運に再び灯った闘志を見て久遠も希望を取り戻したように大きく頷いた。
「そのためにはまずナヴィ、いるか?」
「お呼びですかマスター?」
運の問いかけに間髪おかずナヴィの返答があった。
「戦闘中は敵の妨害があったようだからな、まずはナヴィが無事で良かったよ」
「ご心配をお掛けしました」
「話は聞いてるいたな?」
「はい。ナヴィが現在マスターに提示すべきことは二点です。パラメータポイントの最適な割り振り方と、エルフ族がさらわれたと推測されるコエ領についてです」
「さすがだな。ではさっそく、ステータスはどうすればいいと思う?」
「お答えしますマスター。答えはシンプル、トラック極振りです」
「やっぱりそうか」
「はい。現在の状態においてもマスターは強力な力を保有しています。ですので、ここはあえて中途半端に身体強化にパラメータポイントを割り振るよりも、すべてトラックに注ぎ込んだほうが効率的であると考えられます」
「わかった、言うとおりにしよう。それで? コエ領のほうは?」
「はい。マケフ領の東、現在地からは東南の方角です」
「今すぐ案内してくれ」
「かしこまりました」
運はナヴィとの会話を終え、久遠と五十鈴を正面から見た。
「やるべきことは決まった」
「行こうっ! お兄ちゃん!」
「運殿、久遠殿。私も連れて行ってください! 同族が捕らわれたまま、黙っているわけにはまいりません!」
「わかった、みんな準備をしろ。すぐに発つぞ」
「「おー!」」
三人は敗戦からの再起を目指すかのように力強く拳を天に突き立てた。
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