美少女戦士セーラームーンCosmos 前編
すべてが奇跡だ。
アニメの放映枠だけが先にあって、講談社とタイアップする話が先にあって、アニメの原作にできそうな作品がない。
じゃあいっそ、新人漫画家にアニメの原作を作ってもらうか。
それで誕生したのが「美少女戦士セーラームーン」である。
漫画がヒットしたからアニメにした、ではない。
本誌連載でもない、増刊号の読切作品にすぎない作品(コードネームはセーラーV)を下敷きにして、武内直子がメインキャラクターと基本設定を作成、それを元に東映が1年分のアニメを作る。
2月号から連載が始まって、3月からアニメが始まり、7月にコミックス1巻が出る。
すでに永井豪や石ノ森章太郎がロボットものやヒーローものでしてきてることじゃん、と言ってしまえばそれまでだが、この時の武内直子はデビューしたはいいが、ブレイクできずにいた有象無象作家の一人だ。そして90年代初頭のアニメ化は現代よりも遥かにハードルが高かった。特に少女漫画のテレビアニメ化は。
そんな時代に、何の実績も無い子に原作を作らせて、アニメを1年放映する。
それ自体が漫画やアニメみたいなドリームストーリーだし、その賭けが本当に当たったのだから、空想が現実を超えた話だ。
日本においては漫画やアニメ(のちにはゲーム)に創造的な人間が集まってきた歴史があり、世界にも通じるような名作が無数に作られてきた。その数千、数万のクリエイターの作り上げてきた作品・キャラクターたちが到達できない高みに立つような仕事を、武内直子はセーラームーンで成し遂げた。
同じような座組みで新作を作ってみたところで、それを何遍、何十編、何百編繰り返したところで、この奇跡は再現できない。当時ですらあり得ない流れだ。一回しか出来ないような挑戦で、二度と再現できないほどの成果を上げた。
東映側からすれば、監督の佐藤順一、脚本の冨田祐弘らのスタッフワークで一定のクオリティは担保できるという考えはあっただろう。あの名台詞「月に代わってお仕置きよ!」は武内直子の発案ではない。アニメ版の監督を務める佐藤順一によるものだ。
女の子で戦隊を組むというのは、東映グループ的にはスーパー戦隊の流れがあり、東映アニメーション(当時は東映動画)的には「聖闘士星矢」や魔女っ子ものの流れがある。食材となる主要設定さえあれば、あとはこっちでいい感じに料理できちゃいますよ、ぐらいなところだったのだろう。
実際、世間のイメージする「セーラームーン」はアニメのセーラームーンだ。
明るく面白く、笑えるとこもあるのにカッコいい。くだらなくって、楽しくて、チャーミング。全方位に目配せを効かせながらバランスの取れた娯楽作品になっている。
武内直子の漫画版だけでは、ここまでの広がりを得ることは難しかっただろう。
ファミリーもの、少女ものを得意とする佐藤順一の本領が遺憾なく発揮された傑作で、彼の仕事なくしての「セーラームーン」の成功は考えにくい。彼の存在も奇跡だ。
奇跡と奇跡で奇跡だらけで、すでにお腹がいっぱいなところだが、最大の奇跡は、そのアニメスタッフの大仕事すら後塵に拝してしまう展開が待っていることだ。
雇われ原作者にすぎないポジションにいた武内直子が覚醒を始める。
誰よりもセーラームーンの本質を掴み、女の子のヒーローとしてふさわしい設定と物語を追加していく。
「美少女戦士セーラームーン」とは、セーラームーンこと月野うさぎの成長譚でありながら、漫画家・武内直子の成長譚でもある。
初めの頃はアニメの補完物であった原作が、どんどんと創造的なものになっていく。アニメはアニメで面白いのだが、原作はそれを超えたものを提示し始めるのだ。
「ドラゴンボール」というライバルがいた。
どっちも途中で「Z」とか「R」とか付け出して、悟空はスーパーサイヤ人になり、うさぎはスーパーセーラームーンに進化する。戦いのスケールはどんどん大きくなり、宇宙に飛び出していく。
が、決定的に違うところがある。
セーラームーンは最強で、それは覆らない。
最終シリーズの敵であるギャラクシアですら、セーラームーンの力に憧れ、それを手に入れようとする。
セーラームーンのほうが最初から、上。
なぜならギャラクシアは同じセーラー戦士でありながらクズ星に生を受けた劣等種で、セーラームーンは生まれながらに最強のスターシードを持つ存在だからだ。
ドラゴンボールで言えば、ベジータがセーラームーンで、悟空がギャラクシアだ。男の子は最下層からのし上がるストーリーにロマンを感じるが、女の子は初めからプリンセスで良い。
セーラームーンは圧倒的に強く、戦闘力の比較すら意味がない。
だからセーラームーンの戦いは、100%セーラームーンのメンタルで決まる。
セーラームーンが悩んだり迷ったりしていると苦戦するし、覚悟が決まると一瞬で終わる。
なんで悩んだり迷ったりするのかというと、敵を包摂することを考えているからで、すでにもう「格が上」なのだ。ギャラクシアの問いかけにふさわしい言葉が見つかるまでは苦戦するが、答えが見えると圧勝する。
本気出したセーラームーンには誰も勝てない。
相手にもならない。
ギャラクシアの後ろにいた、究極悪であるカオスなんて瞬殺だ。
もう一度言いますよ。
シリーズ最終最後の究極悪が、瞬殺です。
それでいい、と武内直子はする。
この銀河の中で、最も強い力と、最も美しい姿と、最も愛される資格を持った存在、それがセーラームーンだ。
武内直子はすべての欲望を肯定する。
女の子はすべてを手に入れていいとする。
フェミニズム映画にありがちな選択や孤高なんて描かない。すべて持ち続けていいし、さらに欲張っても良い。
恋も仕事も、友達も恋人も、ぜんぶ手にいれる。
セーラー戦士たちは忠実な従者であり、親友だ。
タキシード仮面は白馬の王子として、彼女を支える。
愛すべき子供は、育児の一番しんどい時期をすっとばした姿で現れる。
妹のように付き合える娘。
ちびうさの設定はもはや神の領域だ。
ハリウッドが20年以上かけてモタモタ進めてきた仕事を、武内直子は一瞬で完了させている。
世界の中心にいるのは自分!
以降の作品も誰も追いつけない。
いまだに世界中の女の子から支持され続けるのも当然だ。
あり得ないほどの偶然から誕生したキャラクターが、世界中の人々に夢と勇気と力を与えた。
控えめに言って、奇跡以外のなにものでもない。
(映画そのもののレビューは後編でします)
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