キングスマン
正気と狂気のマリアージュ。
マシュー・ヴォーン監督はクセのある映画監督だ。「キック・アス」に出てくるヒーローはヒーローごっこをしているコスプレで、映画自体も主人公よりもヒロインに目移りしてて、主役がどっちか分からない。
マシュー本人が望んだか、周囲がそれを期待しているかは分からないが、エージェントものをもっぱら手がけることになる。普通にやってもいい作品を仕上げられるが、クセ球を投げた方が抜群に面白い。
この作品はエレガントな英国紳士たちによるスタイリッシュなアクションムービーとして仕上げておけば確実に80点オーバーを取れた作品なのに、そこにパロディや悪趣味をあらんかぎりにぶっ込んで、0点or 100点を狙いに行った。
普通はやらない。
だがマシュー・ヴォーンはやる。
悪趣味が輝くのは、気品と上品に満ち満ちたエレガントな世界だという確信を得たのだ。
本作は明らかに「007」を意識していて、かつ、そのフォーマットの上で遊んでいる。
「キングスマン」は「女王陛下の007」の裏返しであり、スマートに戦うキングスマンは、ダニエル・グレイグがボンドを務めた007最新シリーズの重苦しさとは対照的だ。過去のジェームズボンドのように、軽やかに戦い、鮮やかに勝利する。
だが、この映画は心の美しい人に向けられたものではない。
そんなジェントルマンな紳士たちが、骨を砕き(リアルな音)、敵の頭を貫く(飛び散る鮮血)。そんなギャップにおかしみを感じられる下世話な庶民に向けて作られたものだ。
「汚ねえ花火だ」
ドラゴンボールのセリフだが、本作では、最上級の汚ねえ花火を見ることができる。
人が死んでる絵面なのに、なんとポップでカラフルでゴージャスなことか!
笑ってはいけない映像なのに、笑いを抑えることができない。
わりと人間性を試される。
もはや品性に対する拷問だ。
倫理観もはちゃめちゃである。
主人公エグジー(タロン・エガートン)は徹底的にヒーローだ。罪もない犬を殺せなかったことでスパイ試験に落ちるような男だ。徹頭徹尾モラルを守って行動する。
だが、映画自体にモラルがない。
敵は「人間を凶暴化させる怪音波」を開発、主人公たちはそれを阻止しにいくのがラストミッションになるのだが、最終的にその兵器を使うのは、なんと主人公側なのである。
それで主人公たちはピンチを逃れるものの、世界中が暴力のるつぼに。
もうギャグ漫画のノリ。
まさかそんなことしませんよね? →しちゃう。
世界がめちゃくちゃに〜〜〜!!
そのくせ、エグジーとガゼル(ソフィア・ブテラ)の肉弾戦は超絶クールなのだ。特に義足のつま先を剣にして、両足二刀流で戦うガゼルのカッコよさはもう格闘ゲームのキャラにしてもいいぐらいに完成されきっている。
(監督は闘う女性へのフェチがあり、それを映画にうまく投影できると傑作になる。ガゼルは「キック・アス」のヒットガール枠だ)
こんなカッコいいシーンを撮れる監督が、なぜあんなおバカなシーンを……。
まともなものとまともじゃないものが頭の中でシェイクされて、ヴォーンと爆発しそうになる。
映画の最後もシビれるぐらいに決まっている。
巨悪ヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)を倒したエグジーは、出会ったばかりの王女と意気投合、ベッドインしてハッピーエンドになるわけだけど、このミッション、ぜんぜん大成功とかじゃない。
王女以外の人質、全員死んでる。
世界中、怪音波で無茶苦茶になった。
なのに、映画は問答無用のミッションコンプリート感を出して終わる。
ひどすぎる(褒め言葉)!!!!
普通はやらない。
英国の貧困階級で育つエグジーが、上流階級の紳士ハリーと出会う。エグジーの父に命を救われたハリーはエグジーの父代わりとなり、彼を教え導き「大人」へと成長させる。ハリーは巨悪ヴァレンタインの手によって殺されるが、気品と強さを兼ね備えた英国紳士「キングスマン」となったエグジーが仇を撃つ!
こんな筋書き、普通に作るだけでいい映画になる。
な・の・に、わざと変なことをする。
人間の頭が爆発するシーンで笑わせようとする。
過激な暴力表現と洗練された映像美のコントラストで見る者の頭をシェイクしにかかる。
教会での乱闘シーンはその象徴的な例だ。
聖なる空間で繰り広げられる残虐な殺戮は、観客に強烈な衝撃を与える。しかし、その一方で、スローモーションやスタイリッシュなカメラワークによって、暴力行為を美化しようともする。
強いて言えば、混乱しろ、ということだ。
この教会はレイシストの集まりで、気分の悪い演説があり、ハリー(コリン・ファース)が出て行こうとしたところに怪音波が鳴るという流れがある。敵がこの教会を実験場にしたのは、死んでもいい連中だから、ということなんだろうが、そこに主人公の先生であるハリーを絡ませて、ハリーに超絶かっこいい暴力を振るわせる。
主人公側に、敵の思惑の代行をさせて、レイシストをぶっ殺す。
めくるめくアクションにシビれながら、これを楽しんでいいのかという内なる倫理観と闘わせる。
(逆に言えば、現実の暴力を推奨肯定する気がないからこそ、あえて美しすぎる暴力シーンには、感情移入しきらせないための邪魔要素を入れているとも言えるし、単なる悪趣味の発露だとも言える)
で、一連のシーンが終わった後で、ハリーは正気を失わされていたとはいえ自分の殺戮に動揺し、ヴァレンタインに殺されることとなる。倫理観が一気に巻き返され、とてつもなく真っ当な映画になる。ハリーは正しくあらんとした男であり、エグジーを敵討ちに向かわせる。心の振らせ幅が凄いのだ。普通の映画の幅ではない。
もはや、見るドラッグ。
普通はやらないし、できない。
「キングスマン」は、映画史に残るような「上等な」作品にすることをやめて、唯一無二のとんでもない傑作を作ることを選んだ名作である。
その試みは、成功している。
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