ASTROBOY 鉄腕アトム
そもそもなんで大和田欣也だったのかという話ですよ。
この3期目のアトムは、2000年代にリメイクされたアトムで、手塚治虫自身が制作に関与しないアトムとしては初のテレビシリーズだ。
声優陣も一新され、以降のアトムの基準となる。
なぜか天馬博士だけ、声優ではなく大和田欣也が起用された。
3期目のアトムは「鉄腕アトム」の物語を、アトムの生みの親であり、アトムを捨てた男である天馬博士をラスボスとして配置することで、シリーズ全体に一本の軸を通している。
原作エピソードもそれに応じた改変がほどこされ、事件の黒幕には天馬がいて、天馬の理想とアトムの理想が激突する、という流れ。
初期に提示された天馬博士の立ち位置はこうだ。
ロボットの可能性は無限であり、進化によって人間を超えることができる。
ロボットが人間の上位種になることは必然だ。
自分はそれを加速させるために、アトムの敵となって、アトムの進化をうながしていく。
創作のお手本になるような綺麗な組み立てだ。
原作設定を活かしつつ、テーマと強く結び付けられ、無駄がない。
きちんとラスボスとしての「悪の風格」も保っている。
第3期は、そこから崩れていく物語だ。
原作に「青騎士」という回がある。
人間との共存を諦めたロボットが、人間たちに対し独立宣言を出す。
アトムは人間とロボットの狭間で引き裂かれることになる……というお話で、ファンの間でもとても人気が高く、「ASTROBOY 鉄腕アトム」はこの話を1年間のTVシリーズのクライマックスに使うことにした。
理想的だ。
原作の「青騎士」に天馬博士は登場しないが、アニメでは天馬が作り出したロボット博士のシャドウが青騎士を誕生させたことにし、人間である天馬がロボット独立国の影のフィクサーとなる構造を作り出している。
自分のコピーとして作ったシャドウが青騎士を作り、青騎士のAIが「人間とは共存できない」と判断、ロボットによるロボットのための国、ロボタニアを建国するという流れだ。
じゃあ、もうそれでいいじゃないかと思うところではあるのだが、天馬博士はアトムをロボットの王にしようとする。アトムに新しいボディを用意し、ロボットの王になれと言うのだ。
……王は青騎士で良くね?
実際、アトムは天馬を拒絶する。
天馬博士は、アトムを王にすることで、自分は王を生み出した神になるのだという夢を語るのだが、青騎士のルーツも天馬なのだから、そこで話をまとめればよかったのに、アトムにこだわったせいで、話がこじれ、シャドウとも喧嘩になり、ロボタニアは崩壊する。
……青騎士を王にしておけばよかったのに。
どう考えても、天馬は口にしている言葉と実際の行動がズレているのだ。
自身はロボット作りの天才であり、ロボットには人間を超える可能性がある。
自分の名誉や栄光を考えるなら、ロボットの王になるのはアトムでなくてもいい。
自分が作ったシャドウが作った青騎士が王になったほうが、アトムがなるよりもむしろ相応しい。
天馬は人類を超えるロボットを作れるロボットを作ったということだから。
どう考えても青騎士を王にすべきだったのだ。
だが、天馬はアトムに固執し、敗北する。
ここまでが48話。
あと2話ある。
誰の目から見ても、最終決戦に相応しい「青騎士」の話のあとに話がある。
ここから天馬の本性が明らかになる。
ロボタニアでの戦いで、アトムは致命傷を負ってしまった。
お茶の水博士では治すことができないほどの重症だ。
天馬はアトムを引き取り、アトムを完璧に修理する。
そのついでにアトムの記憶を操作。お茶の水を忘れさせ、自分を父親だと思い込ませ、親子ふたりの暮らしを始める。
世界の支配とかはどうでも良くなり、アトムと幸せな日々を過ごす。
種の進化とかはどうでも良くなり、アトムとの親子団欒を楽しむ。
最終回一話前がこれだ。
ラスボスの真の夢。親子団欒。
めでたしめでたし、よかったね。
とはならない。
物語はさらに天馬を追い詰める。
記憶を取り戻したアトムは天馬を拒絶、お茶の水のところに戻っていってしまうのだ。
世界征服を企むマッドサイエンティストとしての建前をかなぐりすて、本音を出しても失敗し、天馬博士は満身創痍となる。
もはや天馬には何も残っていない。
そんな天馬博士の最終最後のテロが決行されるのが最終話である。
天馬博士は科学省庁舎を襲撃、占拠、政府に脅迫状を送る。
天馬博士の要求はただ一つ。
アトムと二人きりで話をさせてくれ。
これが最終回だ。
地球の運命だとか、人類の未来とか、そんなのどっかに消し飛んで、子供に会いたい父親の話をするのだ。みじめの極地、あわれの極地。
息子への愛を捨てることが出来なかった男が、最後に選んだのが、息子との会話。
こんな最終決戦するアニメ、他にある???
天馬は息子への接し方を間違え続けた。
そのせいでトビオは交通事故で死んだ。トビオそっくりなロボットとしてアトムを作るが、アトムはトビオではないことを知り、捨てた。その後、お茶の水のもとで健やかに育つアトムを見て、アトムへの執着が生まれた。アトムを進化させるという口実を思いつき、アトムをロボットの王とし、自分は王を生み出した神となることでアトムとの親子関係を取り戻そうと考えるが、アトムに拒絶された。お茶の水より凄いことを示して、アトムの歓心を買おうとするがうまくいかない。自分ならばどんな敵にも負けない高性能なボディも、100万馬力も与えられる。お茶の水には無理だ。自分のところに来い。拒絶される。どうしようもなくなってお茶の水との記憶を消し、無理やりに親子の記憶を埋め込んでみた。失敗した。何をやってもアトムはお茶の水の元へ戻っていく。無能な男のもとへ。
なぜアトムはお茶の水のところに戻るのか?
お茶の水には愛があるからだ。
愛なら天馬にもあった。息子への愛がなければ、どうしてここまで身を持ち崩すことがあっただろうか。トビオが死んでも、トビオそっくりのロボットなんて作らなくてよかったし、アトムに幻滅すれば、もっと素直なロボットを新造すればよかった。
お茶の水など足元にも及ばないような天才科学者なのだ。
地位も名誉も思いのままだ。
シャドウや青騎士と共闘しておけば、ロボットの神になれた。
アトムのことさえ捨てることができれば。
アトムのことなんて忘れてしまうことができれば。
息子への愛があればこそ、天馬は転落し、ただの犯罪者になってしまった。
みじめで愚かな一人の男になってしまった。
そして天馬は最後の対話でも失敗する。
いや、もはや最初から死ぬつもりでアトムを呼び出していた。
アトムに自分のすべてを話し、そのすべてを否定されることで、一切の未練をなくし、自殺するつもりでいたのだ。
アトムこそが天馬博士の全てになっていた。
天馬博士の予想通り、アトムは自分を否定する。
アトムは言う「あなたは僕を愛していない」
相手の望んでいることをするだけでよかったのに、天馬はそれができなかった。考えもしなかった。自分の凄さを見せつければ、アトムはなびくと考え、見当違いのことばかりをした。言うことを聞かせることしか考えていなかった。支配することしか考えていなかった。
天馬の愛はひとりよがりだったのだ。
その通りだ。
認めた天馬は爆弾のスイッチを押して、何もかもを無にしようとする。
アトムが言う。天馬を抱きしめて言う。
「死なないで、お父さん」
この一言で、天馬は改心する。
アトムに父と呼ばれるだけで、天馬はあっさりと警察に投降する。
全50話かけた話のオチがこれ。
第3期アトムとは、息子への愛を間違えてしまった男の贖罪の物語だったのだ。
素晴らしすぎるだろう、これは。
大和田欣也の演技が実に見事だ。
大和田の起用は、いわゆる芸能人キャスティングだったのだろうと推察されるが、見事なまでに結実している。
大和田が天馬を演じるのは3期だけだが、3期は天馬の物語であり、その特別性とピッタリ符合している。
物語のバランスは崩れている。
アトムの話ではなくなっている。
シリーズ冒頭からの伏線に触れてはいるが、もはやそこは本筋ではない。
ただの親子の話だ。
子供からの愛を失った親が、親からの愛を失った子供が、それを取り戻すまでの話だ。
栄耀栄華を欲しいままにしていた天馬が、息子への愛ゆえに転落し、犯罪者として裁かれ、エンディングでは監獄の中にいる。
だが、最後の天馬の表情はとても安らかだ。
天馬は全てを失ったが、本当に欲しいものを得ることができた。
トビオへの接し方を間違えなければ、アトムは生まれなかった。
「鉄腕アトム」は生まれなかった。
天馬は間違えたことで長きにわたって苦しんだ。
だが、そのもがきは無意味なものではない。
監獄の中にいる彼が、納得しているように。
これは「鉄腕アトム」という作品そのものに対するアンサーなのだ。
そして、この結末は、二人へのプレゼントのようなものだ。
原作においては、ついぞ修復しきることなく終わった二人の関係性に対する別ルートのハッピーエンドであり、「鉄腕アトム」から始まる日本のTVアニメーション世界で生まれ育ったクリエイターたちからの、幸せな贈り物なのだ。
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