ショーシャンクの空に

「待て、しかして希望せよ」


この映画のセリフではない。

劇中、図書室のシーンに出てきた、とある本のセリフだ。

アンディは「脱獄の話だ」と説明し、レッドは「ジャンルは教育だな」とジョークを飛ばす。

本の題名は「モンテ・クリスト伯」

無実の罪で監獄に閉じ込められた男が、命懸けの脱出を図り、華麗なる復讐を成し遂げる物語だ。

どんなに絶望的な状況にあっても、決して諦めるな。生き残る準備をせよ。無駄と思うな。必ず道は開ける。そういう意味のセリフだ。


「ショーシャンクの空に」の主人公アンディ(ティム・ロビンス)は決して希望を失わない。


無実の罪で終身刑を喰らっても、刑務所の中で暴力と強姦の日々を強いられても、心を折らない。塀の外に出られることなんてなくても、悪に心を染めることはない。

銀行員として過ごしてきた日々と同じように、塀の中でも善きことをする。人を助け、人に喜ばれることをし、刑務所の中を少しでもいい場所にしようと行動する。


それを見ていたのは囚人レッド(モーガン・フリーマン)だ。


アンディが刑務官の節税への協力への見返りに、その場にいた仲間たち全員のビールを要求する。

誰もがアンディの計算高さを思う。仲間たちに恩を売り、今後の刑務所生活を良くしようとしているのだと。

そんな中でレッドはただ一人、アンディの善性を感じ取る。人に喜ばれることをするのは計算だけではない。こんな場所でも自分自身が「人間」であり続けたいがために、アンディ自身が望んで無欲なことをしているのだと。


レッドがアンディに好感を抱いたのは、レッド自身もそうだからだ。


刑務所は悪の吹き溜まりのような場所だが、自分だけが良ければいい生き方をしていると、自分自身がおかしくなってしまう。力があれば何をしてもいいとばかりに悪を成すようになる。刑務官さえ抱き込めば、何をしても許される分、塀の外よりも倫理がない。更生の場所とは程遠い空間だ。


レッドはレッドで、刑務所の外にあるものをツテを使って手にいれる調達屋をしている。金を稼いではいるが、人のためでもある。


この映画の視点はアンディではない。

アンディを見守るレッドの視線の物語だ。


ナレーションを主人公ではなく、かたわらのレッドに置いたことが秀逸で、レッドの持つ優しさや思いやりが語りを通じて伝わってくる。


アンディ自身の語りであれば、視聴感は相当違ったものになったに違いない。

アンディの獄中生活は、試練の連続だからだ。


物語中盤、アンディの罪が冤罪であることを示す証人トミーが現れるのだが、トミーは口封じのために殺されてしまう。


殺したのは刑務所の所長!


ノートン所長は自分の汚職を手伝わせているアンディを監獄の外に出したくがないために無関係のトミーを密かに殺す。己の秘密を守るためだけに。


なんなら、所長は自分が刑務所を去るタイミングでアンディを殺してしまうだろう。


この世に神はいないのか!?


いや、いる。

「ショーシャンクの空に」には、神の視座がある。

ここでいう神はキリスト者のいう神に限定しなくてもいい。誰もが心の中に有している倫理観のようなもの、仏教で言えば因果応報というようなものの存在を感じとることが出来る。


この世には悪がはびこり、それをただす為に法や統治機構がある。

だが、それは完璧ではない。

この世には法の網から逃れる悪があり、それは善人ヅラをして堂々と生きている。


善悪の消滅である。

一番の悪人は囚人ではない。善の頂点にいるノートン所長だ。


法を守らせる側でありながら、囚人を使って私腹を肥やし、あまつさえ、秘密を守るために無関係の人間を殺す。


誰よりも重い罪を犯しているノートンが刑務所の王として君臨し、のうのうと豊かな日々を過ごしながら、捕まることもなければ、裁かれることもない。


所長に殺されるトミーは劇中に登場する囚人の中では一番罪の軽い男である。コソ泥。その彼が一番理不尽な死を遂げる。

もっとも罪軽き男が、もっとも罪深き男に殺される。神も仏もないとはこのことだ。


だが、神はいた。

映画の中で、悪を成したものは皆、相応の最期を迎えていく。

暴力的な刑務官は逮捕され、強姦魔の囚人は半殺しにされ、所長はみずから死を選ぶ。


人の世は穴だらけだ。

人の作った法は、アンディを永遠の犯罪者とし続ける。

人の社会においてはアンディは人を二人も殺した殺人鬼のままで、そのうえ脱獄犯だ。

悪の中の悪である。


だが、神はそうではないことを知っている。

我々も知っている。

だから神は(この物語は)、アンディに救いを与え、彼を楽園に導いた。


なぜ、アンディはそこまでの恩寵を得ることができたのか?


それはアンディが神の愛の実践者だからだ。

獄中で彼はさまざまな善を成した。

それは自分自身の生活を改善するための行為もあったが、そうでないことも多々あった。学のない囚人に高卒の資格を取らせたり、独房入りを覚悟の上で、放送室をジャックしてクラシックをみんなに提供したりもした。自分一人の快楽で良ければ、みんなに聞かせる必要はなかったのだ。


脱獄に成功した後、アンディは楽園にいく。

それは彼が賢かったから「だけ」ではない。彼は用意周到であり、努力の人間であったが、それは人間世界における成功の理由に過ぎない。


彼の成功をもって物語の締めくくりとする理由は別のところにある。


アンディは自分だけではなく、レッドをも救った。


刑務所の中では希望なんて持つものじゃないという境地に陥ったレッドにアンディは希望を語る。そして脱獄を成し遂げる。そしてレッド自身が仮釈放され、試される。レッドは社会に馴染めない自分に気付き、刑務所に入るために人を傷つけるよりはみずからの死を選ぼうとする。


ブルックスはそういう心境で死んだ。

レッドはギリギリのところで踏みとどまれた。

踏みとどまれたのはアンディの友情があったからだ。


アンディが神に救われたのは、彼がレッドを救ったからだ。

救われるべき人間が救われ、裁かれる人間が裁かれる。


「ショーシャンクの空に」は巧みな伏線回収の映画だ。

さりげない描写に散りばめられたヒントが、見事な逆転劇を描き出してくれる。

それは単なる復讐劇のレベルではない。


人はしたことの報いを受けるべきだ。

善には善の、悪には悪の。

現実の世界はそうではない。

だからこそ、その願いを映画に向ける。それが果たされる結末に喝采をおくる。


最後まで希望を失わなかったアンディが、最後まで善き人であろうとしたアンディが、最後に報われる。

その結末に至るまでのストーリーテリングの見事さがあるから、この映画は傑作を超えた、永遠の名作となりうるのだ。

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