シン・エヴァンゲリオン劇場版

25年かけて、TVシリーズ最終話に戻る。

「シン・エヴァ」は「シン・世界の中心でアイを叫んだけもの」だった。


TVシリーズ最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」は内容こそ無茶苦茶だったけれども、親子が絆を取り戻して終わるという意味では真っ当な終わり方だった。本当に無茶苦茶だったけれども。


(最初にTVシリーズ全26話があり、25、26話を別物にしたのが旧劇場版、TVシリーズ&旧劇場版を下敷きに新しく描いたのが新劇場版だ)


TVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は当初は「世界の中心でアイを叫んだけもの」にあったように、シンジと父ゲンドウが和解して終わりにする予定だったのだろう。1話でシンジとゲンドウの断絶が強調されているのは、最後で和解するための前振りだったわけだ。


実際にはそこから悪化の一途を辿りまくったわけだが。


TVシリーズの制作にかかると、物語が暴走を始めてしまい、歯車が狂いはじめた。

予定調和の枠を踏み外して、とんでもないパワーとベクトルを持って、作品があらぬ方向に向かって走り始めてしまったのだ。


カメラを止めるな。

創作者とはそういうものだ。


構想の膨らむままにペンを走らせた結果、作品はものすごいものとなったが、制作は遅れ、スケジュールは破綻し、映像を用意できないレベルにまで追い込まれた挙句、無理矢理に話をまとめた(まとめられなかった)のがTV最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」だった。


予想の斜め上どころか、こんなん誰も想像つかへんわ、という最終話の展開はTVアニメ史上(おそらくはドラマも含めた全ての続きもの史上)空前絶後の回となった。


例えるなら、東京から沖縄に向かう話だったはずが、なぜか北海道に向かって話が進み続けてしまい、青函トンネルを抜けて試される大地に上陸して、あと1話でどうすんねんこれ……、とか思っていたら、なんの説明もなく、沖縄に到着したところから最終回が始まって「ゴールできたね、おめでとう!」とかやられても、呆然とするしかない。


ちゃんと終わらせてください、お願いします。


そこで劇場版の制作が決定し、改めて、作ってしまったTVシリーズの流れに基づいて、あるべき物語の結末を考えてみたら「世界の中心でアイを叫んだけもの」的な解決には話のつなげようがなく、第25話に遡って話が作り直され(正確には24話までの話を微調整した「シト新生」が作られ)、25話「air」26話「まごころを、君に」が生まれた。そうして出来上がったのが旧劇場版だった。


何が違うのかというと、シンジと父ゲンドウの結末だ。


「子供が父親にしてやれることは、肩を叩くか、殺してあげることだけよ」


「シン・エヴァ」では肩を叩き、「旧劇場版」では殺した。


90年代では旧劇場版「まごころを、君に」が庵野監督の中での結論だった。毒親は殺すしかない。最後だけ綺麗にまとめても嘘になる。徹底的に破壊するしかない。極限状況の中であらゆるものがぶっ壊れ、消えていく。それが旧劇場版だ。


それから10年が過ぎ、エヴァという物語を考え直した時に、やはりTVシリーズ最終話こそが正しい結末だと思えたのではないだろうか。

最後だけ綺麗にまとめても嘘になる。最初まで話を戻し、シンジとゲンドウが最後に分かりあう結末に相応しい流れを作る。それが新劇場版四部作だ。


思い返してみれば「式波」アスカ・ラングレーはいい子だった。「破」の段階で、他人を思いやれる優しい子になっている。

破滅するしかなかった「惣流」アスカ・ラングレーとは違う初期設定を与えられた別の人間だ。


新劇場版の後半が随分とおとなしい物語になっている点については賛否両論がある。が、そもそもがゼロ年代の庵野秀明に旧劇場版のような物語を新しく作ることができたかどうかは疑問だ。


一人の作家が一生に一つ作れるかどうかの傑作が、旧劇場版だ。


旧劇場版はただ破壊的だったわけではない。

ものすごく創造的だった。

とてつもなく創造的だった。


劇中の状況は破滅に向かって動いていきながら、その状況から予測できる内容を軽く飛び越える物語の展開があり、映像はさらにその上をいくほど刺激的なものだった。予算も人手もある新劇場版に比べて、品質としての拙さはあるが、見たこともないようなビジュアルが次々に繰り出され、見る者を圧倒していった。

物語の結末は本当にひどいものだったが、作品の握力にねじ伏せられた。


(「シン・エヴァ」にも刺激なビジュアルは多々ある。が、物語が強くないシーンでは、いささかアイデア倒れになってしまっている絵が散見される。例えばエヴァ同士の戦いが特撮スタジオになっているとかの。ああいう絵が「わけわからんけどすげえ」と息を呑むしかなくなるのが旧劇場版だった)


あんな映画はそうそう作れるものではない。

庵野監督個人がどうこうという話ではない。


クリエイターの才気の頂点はほんの一瞬だということだ。


富野由悠季は「機動戦士ガンダム」と「伝説巨神イデオン」を立て続けに作って、そこが頂点となった。

「ガンダム」と「イデオン」の放映期間の隙間はわずか3ヶ月足らず。制作期間を考えればほぼ休みなし。というかガンダムの終わりとイデオンの始まりは同時並行だ。


技術は時間とともに上げていけるが、時間は創造性に味方しない。

宮崎駿のように、どこが頂点なのか分からないというクリエイターの方が例外なのだ。


ルーカスの頂点は「スターウォーズ」最初の3部作だし、それで十分だ。

歴史に名を刻むような作品は一つあれば奇跡だ。


のちに作られた新3部作は映像こそ豪華になったが、物語としては普通なものになった。

「Q」「シン」もそれに準ずるものだ。

奇跡の作品と比べても、得るものはない。


「Q」で劇中の時間を飛ばしたことは、結果的に我々の時間経過とシンクロ率を高める効果を生んだ。

そもそも新劇場版は3年連続公開で終わる予定だった。

それが1年のび、2年のび、TVシリーズの設定である2015年を超えても完結しなかった。


四半世紀も過ぎてしまえば、シンジとくっつくのが新入りのマリでも了解できる。

本来の予定通りの公開だったら、激怒していたかもしれない。

四半世紀も過ぎてしまえば、レイもアスカも学生時代に好きだった子だ。

作中でも14年もの時が過ぎ、みんな、子供ではなくなった。


もう登場人物が次々と凄惨な死に方を迎えるエヴァなんてなくていい。

幸せな結末を迎えるエヴァでいい。

25年の時間をかけて、1996年3月最後の水曜夕方6時半に放映するはずだった「新世紀エヴァンゲリオン」本来の最終回がカタチになる。


「やってみるよ、ネオンジェネシス」


「シン・エヴァ」の内容に物足りなさを感じるところはなくもないが、さほど悪い気もしないのだ。


未来に向かって旅立つシンジたちにおめでとう。

物語を完結させてくれてありがとう。

そしてエヴァにさようなら。


やはりTV最終話だった。

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