グリーンブック

導入部はすごく軽い。

1960年代が舞台なのに、黒人と白人の立場が逆転している。なんだか面白そう。


地位も名誉も富もある黒人ドンと、底辺労働者の白人トニーが一緒に旅をする。


雇っているのは黒人、雇われているのは白人。

黒人は頭もよく礼儀正しく気品があり、白人はそれら全てがない。

別々の世界にいた二人が、八週間の旅をしていくうちに、互いを知り、友情を育むことになる。素敵な映画なんだろうな、という予感のもとに物語は始まっていく。


だいたい正しい。


本作「グリーンブック」は、アカデミー作品賞、脚本賞をはじめとする無数の賞に輝いたものの「最悪のオスカーだ」とも言われた、いわくつきの映画だ。


なぜかというと、立場逆転ものとして始まったはずの物語のそこかしこに「黒人を差別から救う白人」の場面が差し込まれていくからだ。60年代のアメリカ南部を旅するのだから、そういうシチュエーションが発生するのは仕方がないことではあるし、助け合うのは双方向だ。ドンがトニーを助ける場面だってある。互いに互いを助け合って、相手のことを知ることが出来るから、友情が育まれていく。


だが、ドンがトニーを助けることにはプラスの意味しかなくても、トニーがドンを助けることにはマイナスの意味が生じてしまう。

黒人が白人を助けることと、白人が黒人を助けることは、現代においてもイコールではない。


白人が黒人を助けるシーンには「かわいそうな黒人を助ける立派な白人」の意味がついてしまい、そう言うシーンがあること自体が、黒人の自意識を傷つける。


俺たちは哀れでもかわいそうでもない!!


この物語のドン・シャーリーが、まさにそういう人物だ。

プライドが高く、助けられることを頑なに嫌う。

助けてくれた相手に感謝をしながら、助けられたこと自体に傷つく。


劇中、黒人という理由だけで牢屋に入れられてしまい、個人的に交流のある司法長官に連絡を取ることで解放されるという場面がある。実に痛快なシーンだ。だがドン自身は陰鬱な顔をする。司法長官に迷惑をかけてしまったからだ。


必要な助けを得ることすら、当然のものとして受け流すことが出来ない自尊心。

自尊心はとても大切なものだが、厄介なものでもある。

この映画はドンを通じて、それを描こうとする。


この映画の題名にもなっているグリーンブック。

正式名称は「黒人のためのグリーンブック」。

安全に泊まれるホテル、安全に利用できるガソリンスタンド。

人種差別の根深い地域を黒人が旅行するためのガイドブックだ。


モヤモヤとする本である。

黒人のためと言われると、反発したくなる。

なんで黒人が気をつけないといけないんだ!

暴力をふるってるのは白人のほうだろう!

そんな気持ちになる本だ。


グリーンブックを作る人たちは差別主義者だったのだろうか?

差別を肯定し、現状を受け入れさせるためにグリーンブックを作っていたのだろうか?


違うだろう。


本の製作者たちの気持ちは逆のところにあったはずだ。

せめてもの気持ちで作った本であるはずだ。

この映画もそうだ。


映画の中でドンは差別され、トニーに助けられる。

だが、助けられたことにドンは傷つく。


ドンの人生は拒絶に満ちていた。どこにも居場所がない。努力の末に世界有数のピアニストになったはいいが、白人の占める上流階級に居場所はなく、黒人コミュニティにも居場所はない。


一生、ひとりで生きていくしかない。


そのためには強くあらねばならない。

傷ついても、傷ついた自分自身を嫌悪する。

映画はドンの心にフォーカスする。


比較的スムーズにドンを受け入れていったトニーに比べ、ドンはなかなかトニーを受け入れない。トニーに親しみを感じ、彼のスタイルを受け入れつつも、心を開ききることはない。


最後の演奏会の夜においてもだ。


カントリークラブはドンを招待しておきながら、レストランへの入場を拒否する。

よそで食事をして、それからウチで演奏してくれ、とふざけたことを言い出す。


食事をさせないなら演奏もしない、とドンが抵抗すると、クラブのオーナーはトニーに100ドルを渡してドンを説得してくれと買収にかかる。怒ったトニーはオーナーに殴りかかる。このままでは警察沙汰だ。


ドンはトニーを止め、彼に言う。

「演奏しよう、君が望むなら」


ドンの心がはっきりと出ている。

「演奏しよう」ではない。

「トニーが望むなら、演奏しよう」だ。


ドンはトニーのためなら屈辱を受け入れるつもりでいる。ドンにはトニーを守りたい気持ちがはっきりとある。だが同時に、それ以上に、ドンにはトニーに言ってほしい言葉がある。このときドンは明らかにトニーを試しているのだ。


それぐらいにドンの心はねじれていて、どんなに好意を積み重ねられても、相手を信じきることが出来ない。彼の歩んできたこれまでの人生が、彼を縛り付けているのだ。


トニーはあっさりと答える。

「じゃあ、ズラかろうぜ」


これ以上の答えがあるだろうか。


二人は演奏会場を後にする。トニーは喉から手が出るほど欲しかった100ドルを失い、またツアーが完遂した時にもらえるはずだったギャラの半分を失った。

ドンの中にあるのは、トニーからの友情に応えることだけだ。


全力で車を飛ばせば、クリスマスの夜にトニーは家族のもとに帰ることが出来る。豪雪に見舞われ、車はパンクし、トニーは体力の限界で根をあげる。するとドンがハンドルを握って車を飛ばす。もはや主従の関係はない。


無事に車はニューヨークにたどり着く。

トニーはドンをパーティに誘うが、ドンは辞退する。

ドンの友人知人に、自分が受け入れられないことが怖いからだ。


ドンは家に帰り、一人になる。

トニーとの思い出の石を見つめる。

勇気をふりしぼる。


ドンはシャンパンを持ってトニーの家を訪れる。

トニーは大歓迎してくれる。それは(観客も)分かっている。

だが、トニーの周りの人間はどうだろうか?


黒人の襲来にびっくりするトニーの親戚一同を写して、映画から音が消える。

数秒。

永遠のような数秒。

観客である我々は、祈るような気持ちで、彼らの言葉を待つ。


祈りは報われる。

素敵な時間が始まり、物語は終わる。

ドンとトニーの妻ドロレスがかわすやり取りは最高のものだ。


物語の冒頭、ドンは玉座のような椅子に座ってトニーと接見する場面がある。

彼は玉座を必要としていた。他人に対して、自分を強者であると示す威厳を必要としていた。

物語の終盤、自宅に帰ったドンが玉座に座ることはない。

もう自分を権威づける椅子は必要なくなったのだ。


グリーンブック。

その意味がなくなる日まで、必要だった本。

この映画も同じだ。


いつか、この映画の意味がわからなくなる日が来る。

その日のための映画だ。

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