ボヘミアン・ラプソディ

あのライブエイドを完全再現する!

フレディ・マーキュリーそのものと化したラミ・マレックの渾身のパフォーマンスを見よ!!


それだけで満点。

本作はクイーンを永遠のものとするための聖典である。


物語としての食い味が足りないのは当然だろう。

この映画には全方面に対する配慮しかない。

映画であることに徹するなら、悪役には悪役の役割がある。


作中でクイーンの敵になれる人物を一人あげろというとまずは「ボヘミアン・ラプソディ」を腐したEMIの重役だが、彼は架空の人物である。実際「ボヘミアン・ラプソディ」のシングルカットは猛烈に反対されたからこそ、ラジオ番組を使った反撃のエピソードがあったわけで、重役に相当する実在の人物がいたはずなのに彼の名前は出てこない。


次点としてはポールだろう。彼は名実ともにフレディを傷つけたのだから、いくらでも悪く描けたはずである。だが彼に対する批判は控え目で、最低限の事実を押さえました、ぐらいの描写になっている。


恋愛物語として考えるなら、メアリーとポールはもう少し作為的に演出されても良かったはずだ。作為的にと言うのは「事実はどうあれ」と言うことだ。


フレディを「正しく」するのであれば、メアリーは「冷たかった」、ポールは「エゴイストだった」というような見せ方がある。フレディは彼らに愛を求めたが、彼らはフレディと真剣に向き合おうとはしなかった。ゆえにフレディはおかしくなっていった……と思わせるような演出を行うということだ。


この映画はそうしなかった。


フレディは聖人ではない。

人一倍わがままで、傷つきやすくて純粋で、みんな、彼に振り回されたのだ。

そんな感じの映画だし、実際、そうだったのだろう。


彼を良く描くことなんて、いくらでもできたのに、そうしなかった。

彼の行為の数々を正当化することなんて、いくらでもできたのに、そうしなかった。

事実を押さえた上で意味を変えることなんて造作なくできる。映画にはそれだけの力がある。事実を事実のまま描きながら、悪を善に見せることすらできるのだから。


だが、本作はフレディを「正しく」はしなかった。


生まれの文化にも馴染めず、普通のイギリス人に染まりきることもできず、常に疎外感を抱え、それゆえに孤独に寄り添える楽曲を作り、歌い、高い評価を得ても満たされず、間違い、傷つき、苦しみ、怯える姿をそのままに描いた。


フレディがフレディであることを大事にしたため、普通の映画には当然仕込まれているアングルが消失しているシーンがある。ここはもっと誰それを悪く(善く)描いたほうがいい、みたいに思えてくる場面のことだ。誰の何を肯定し、誰の何を否定しようとしているのかが分かりにくいシーンは、普通は映画の欠点だ。


本作はそれが正解になっている。

映画としては間違っていても、クイーンのフィルムとしては正しいのだ。


観客は「正しい映画」を見に来たわけではない。

大きなスクリーンの中で躍動するクイーンを見に来ている。

生きて再び彼らを見たいと思っている。

伝説の名曲のメイキングを見に来ている。


20年の物語を2時間の映画にするために、事実には編集が加えられている。だが、劇中のクイーンの姿、レコーディングへの強い打ち込み、4人のやり取り、雰囲気に関しては限りなく再現が試みられている。真実のクイーンには見るに耐えない場面や出来事も多かっただろうが(実際のブライアンたちは、幾度となくフレディにブチ切れる瞬間があっただろうが)、ファンが想像するクイーンのイメージの再現になっている。


そういう意味では、やっぱりライブエイドだ。


フレディの人生がそこに集約される。

仲間との友情も、自分の音楽人生も、ジム・ハットンとの再会も。


フレディの人生は間違いの連続だった。

苦しみ、もがき、救いを得るために変化を選び、選択を間違い続けた。

間違えたことでさらに苦しみ、大切にすべき人からどんどん遠ざかってしまった。


そんなフレディが、最後の最後で正しい選択をする。

ともに過ごすべき人と、歌を送るべき人に囲まれて、最大最高のライブをする。

伝説の6曲を歌う。


一つひとつの歌が素晴らしい。

人生の悔いを歌う場面では、フレディ自身の深い思いを感じることができるし、人々にエールを送る場面には、そんな彼自身が全てを肯定することで、どんな人生をも讃えあげる人間讃歌を感じることができる。


過去の曲が、答え合わせのように、今のフレディに重なり合う。

こうなることを知っていた神様が、あらかじめ言葉を授けてくれていたかのように。


自分が作った歌だけじゃない。仲間が作った歌もある。

もう、誰が作ったとかはない。

ぜんぶ四人で作った歌だ。ぜんぶみんなの歌だ。


クイーンは「家族」だ、と語る場面がある。

メンバー四人のことではない。聞いてくれる人ひとり一人にとっての家族になれる、誰もの心に寄り添えるバンドになるぞ、と夢を語るシーンだ。


その夢が、結実する。


最後の曲を歌い終えた瞬間のフレディの恍惚。

やり切ったと言わんばかりの姿。

そこにすべてが収束する。


間違いなく、フレディ・マーキュリーの魂を感じることができる。

そういう130分だ。



映画がこうなったのは、本人でもなく、全くの第三者ではなく、メンバーであったブライアンやロジャーが監修しているという点が大きいだろう。


本人が作らせた映画であれば、ここまで自分を厳しく描くことに躊躇したかもしれないし、第三者であれば、芸術性をあげるためにフレディの暗黒面にフォーカスしたり、ファンを喜ばせるためにフレディを過剰に美化したかもしれない。


ブライアンやロジャーだったからこそ、フレディの良さも悪さも受け入れる映画になっている。間違いや失敗は多々描かれるが、彼の寂しさや孤独への深い共感がある。映画自体が二人のフレディに対する友情になっているのだ。


(美化というなら、この映画の中でもっとも美化されているのは、この二人だよね……)


フレディそのものではなく、そばにいた仲間の目に映ったフレディの物語。


聖書はイエスの弟子たちが書いたもので、イエスによるものではない。

弟子たちの目に映ったイエスの記録が、聖書だ。


この映画はそれにあたるものだ。

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