天気の子
新海誠の世界は愛のエネルギーで動いている。
想いが届くか、届かないか
結ばれないか、結ばれるか
それだけの話を手を変え、品を変え、続けている。
わたしがこの作品を何よりも愛するのは、新海誠が「大好きな子のためなら、世界なんてどうなってもいい」というところまで突き抜けたからだ。
帆高はただのエゴイストではない。
「世界が陽菜を見捨てるならば」と言う前提条件の上で、陽菜の側に立つことを選ぶ。
世界が陽菜を見捨てても、自分は陽菜を見捨てない。
結果として、世界がより過酷なものになっても構わない。
陽菜のために世界を犠牲にするのもエゴなら、世界のために陽菜を死なせるのもエゴだ。
ならば自分は陽菜を見捨てない。
結果、東京の半分が水没する。
もちろん、フィクションの中だから許される決断だ。
フィクションだからこそ、ここまで言ってもいいはずだ。
そういう潔さ、清々しさが、この作品にはある。
そしてこれは「世界が彼女を押しつぶそうとし、僕たちを引き離そうとするが、僕は無力すぎて、どうすることもできない」作品を若いころに作ってきた新海誠が、年を経て、成長し、映画監督としても成功し、世界に対して影響力を持ちえたところで「世界から彼女を守る!」という映画を作ったと言うことでもある。
「天気の子」は新海誠自身の物語でもあるのだ。
彼の作品群を時系列で追っていくと「二人が結ばれない話」から「結ばれる話」へ変化していることがわかる。
それはすなわち、無力だった自分が、無力ではない自分に変わっていく過程であり、世界は依然として冷酷で残酷だったとしても、彼女を守ることはできるし、共に生きていくこともできると、断固として言い切れるようになるまでの物語なのだ。
彼の作品の中で動く男の子が、作品ごとにどんどんと成長しているのが分かる。
「君の名は」は世界の悪意から彼女を救うことはできたが「彼女とセカイ」を対立させはしなかった。
「君の名は」では、彼女を救うことが、世界を救うことでもあったからだ。
「天気の子」はどちらかを選べと迫った。「彼女とセカイ」テーマをいったん棚上げした新海誠が、そのテーマに答えを出した。
「すずめの戸締り」で主人公を少女としたのも、少年の物語としては「天気の子」で一区切りがつけられたからだと考えることができる。少なくとも新海誠作品を追ってきた私は「天気の子」の結論に爽快感を覚えた。
穂高が線路の上を走る場面が好きだ。
誰も穂高が走る理由を知らない。
彼だけが一生懸命で、彼だけがひたむきに走っている。
でも、みんな、穂高だ。
みんな、自分にとって大切なもののために、走っている。
理解されなくても、笑いものになっても、止まれない。
止まれるわけがない。
あきらめなかった穂高が、最後に陽菜に手を届かせる場面がとても好きだ。
「ほしのこえ」で美加子を銀河の果てから取り戻せなかった。
「雲のむこう、約束の場所」でサユリの記憶は戻らなかった。
「秒速3センチメートル」で踏切の向こうに明里はいなかった。
穂高は、昇であり、ヒロキであり、貴樹であり、彼らのしたかったことを、叶えたかったことを、成し遂げたのだ。
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