劇場版 BanG Dream! It's MyGO!!!!! 後編 : うたう、僕らになれるうた & FILM LIVE

迷い子たちの迷いながらも前に進もうとする姿を、迷うことなき筆致で見事に描ききったバンドストーリー。


未熟なうちから、一生一緒にバンドをするなんて約束をする。

幸せな時間は突然に終わる。

理由らしい理由もなく。

未熟だから、崩壊を止める術もわからない。

ただただ自分の無力さに打ちのめされ、二度とこんな苦しい思いはしたくないと思いながら、新しい居場所を見つけようと立ち上がる。


そして作った、新しいバンドが、ぶち壊される。


本編はTVシリーズの後半5話「どうして」「解散」「ずっと迷子」「それでも」「It’s my go!!!!!」の5話を主に扱っている。各話タイトルを順に並べただけだが、ストーリー紹介になっている。


(「バンドリ」シリーズはゲームすら未プレイ。ちゃんと作品を見たのは「MyGO」が初めての初見勢なので、シリーズ全体への理解は全くないレベルでの感想です)


「ボヘミアン・ラプソディ」で、バンドは家族だ、という表現がある。


そよの願いは旧バンド・クライシックの復活だった。

新メンバーのあのんやラーナを追放してでも、旧メンバーのサキを連れ戻したいという思惑が露見したことから、せっかく誕生した新バンドはもろくも崩壊する。


旧バンドを崩壊させたのがサキなら、新バンドを崩壊させたのはそよだ。


サキは連れ戻せなかった。

だが、そよは連れ戻される。


頑張ったのはともりだ。

旧バンドが崩壊するとき、ともりは何も出来なかった。

つらくて、苦しくて、二度とバンドなんてしたくないと思った。

新バンドが崩壊したときも、同じことを思った。

もう二度と、歌なんて歌いたくない……


けれども、自分には歌しかない。

自分の気持ちすらうまく言えない自分が、思いを表現できるのは歌だけだから。人と繋がれるのは歌だけだから。


人前で歌うことすら満足に出来なかったともりが、たった一人でバンド活動を再開する。

演奏がないから、ただのポエム朗読会だ。


ライブを観に来た人たちの前で、歌ですらない詩を読み上げる。

どれだけ恥ずかしいことか。

それでも毎日やる。


ともりがそこまでしてそよを連れ戻そうとする理由は不明だ。
不明であるのが答えで、旧バンド時代からのつながりだとか、ふたたび自分とバンドを組もうとしてくれたことだとか、具体的な理由のない地味な時間の積み重ねこそが、ともりにとっての失いたくない絆なのだろう。


つまり、家族だから。

絆を持ってしまったから。

サキは絆を切断したが、自分は切断させない。

ともりはそよの手を離さない。


そよは離婚家庭の子供である。


あなたのためにやっているのよという態度で、相手を支配していくやり口は、母親譲りだ。

母親に自覚がないように、そよにも自覚がない。

自覚なく、ひどいことをしてしまう。

母親が家庭を壊したように、そよもバンドを壊した。


(離婚理由は定かではないが、物語の文脈をたどるなら、母親が夫を息苦しくさせたのだろうと類推される)


そよはいい子であろうとした。

自分に出来るのはそれだけだから。

心に蓋をして、笑顔を取り繕って、みんなの機嫌を取って、居場所を守ろうとした。


守れなかった。

家庭は崩壊した。旧バンドは崩壊した。新バンドも崩壊した。

サキのために頑張ったのに、サキにも絶縁された。


そよの心に占めるのは、圧倒的な無力感だけだ。

何をしても、どうにもならない。

自分はそれほどに価値のない、本気で付き合う価値のない、人間だ。


だからそよには、ともりが自分にこだわる理由がわからない。

さっさと捨てていけばいいのに。

みんなみたいに。

それでもともりは自分を求めてくる。


そよはともりが苦手だった。

なぜならともりはいつもむき出しだからだ。

もう傷つきたくないと言いながら、心を裸にして、また傷つく。

ともりは自分の出来ないことをする。

自分が出来ずにいたことをする。


ともりは自分に向かって歌を歌う。必死に歌い続ける。

気づけば自分も泣いている。

理由なんてわからない。

行き場を失っていた心が、音楽と涙で一つになる。


5人が再び結集する中盤のライブは、数あるバンド映画の中でも白眉の名シーンと言っても良い。


余計な言葉はない。

それまで積み上げてきた物語を踏み台にして、ただ歌う姿、演奏する姿だけで、観ている者の心を動かしにかかる。


そよに「弾けよ」と挑発するようなラーナのギター。

あのんが気づくタキの涙。タキが泣くのはいつもともりのためだ。タキの涙を見て、あのんも泣く。この2人、別に全然仲良くないのに。

泣くそよの複雑な表情がいい。何に悔しがっているのか。何かを否定しようとしているのに、ベースはしっかりと弾き続ける。涙が本心なのか、弾き続ける身体が本心なのか、そよ自身にも分からない。

気持ちのたかぶりのあまり、客の存在を忘れ、客に背を向けて、そよに向かって一途に歌い続けるともり。

みんなが泣きじゃくる中、決して泣かないラーナ。


彼女たちの人生の中で、一生に一度の一瞬だろうと確信ができる。

それぐらいの魂の輝きが、そこにはある。


映画における台詞とは、解釈を確定させるためのものだ。

人は解釈によって感動する。

解釈があるから、他人を理解できる。分かり合える。絆を結べる。


だから台詞のない世界で、音楽と映像の力で解釈させられることが、たまらないエモーションを呼ぶ。音楽映画の真髄だ。


むろん、解釈は解釈だ。

分かるというのは、正確に言えば、分かった気持ちになれるというだけのことだ。

そもそも他人のことなど分かりはしない。「相手の気持ちを正しく解釈できている」という錯覚に落ち入れるかどうかの違いがあるだけにすぎない。


ともりは、他人に気持ちをうまく伝えられないことに終始、悩み続ける。

言いたい時に言いたい言葉が出てこない。

言葉を出せても、気持ちがうまく言葉にならない。

誤解されてばかりで、いつも後悔する。


それは歌に似ている。


5人いれば、5つの解釈がある。

聞き手がいれば、聞き手の数だけ解釈がある。

それは歌い手の心情と近いこともあれば遠いこともある。

まったく見当はずれの勘違いもある。

誤解しかないのに、みんな、それぞれの解釈で「共感できた」と思い込んで、ライブハウスという小さな家で客とバンドは一つになる。


物語の序盤、ともりはあのんが自分を引っ張ってくれたことに感謝して、自分も頑張ろうと決意する。

それは誤解だった。

あのんは自分の見栄で動いていただけなのだ。


誤解から生まれる力もある。


みんな、自分の都合で解釈する。

ともりがあのんに感動したのは、ともりの中に前に進みたいという気持ちがあったからだ。


5人は再び結集するが、最後の最後まで意見はバラバラ、自分の思いをぶつけ合って、話はまとまらない。短気、毒舌、我儘、緊張、不安、短いシーンにキレッキレの台詞が飛び交う。余裕がない、本音しかない、本気しかない。5人は進む。理解も誤解もひっくるめて前に進む。


人の行動を、人の言葉を、勝手に解釈して、自分の力にする。

それは歌そのものだ。


迷いながら進む、MyGO。


散りばめられた無数の要素がすべて物語に収束してゆき、一つになる。

MyGOの五人は最後までバラバラで、一つだ。



前編と同じく、省かれた部分、追加された新規映像のチョイスが絶妙で、TVシリーズを最後まで見た人にも、映画館まで見に行った方がいいと言える決定版になっている(10話で涙を流したなら、絶対に見に行くべきだ)。


本編終了後のフィルムライブにもちゃんと意味がある。最後の曲が始まった時、なぜあの曲が本編では一度も使われなかったのかが分かる。しびれるような構成だった。

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