ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ
こんな展開はないだろう。
まるでウェインが生きていたら、傘下の映画会社に命じて作らせていたような強者の理屈を正当化させるための映画。
それが「フォリ・ア・ドゥ」である。
監督の意図など関係ない。
劇中世界ではJOKERの再現ドラマが人気をはくしているそうだが、それに対抗して、JOKERとアーサーを否定するために作られた映画。神話を解体するために作られた映画。そういう解釈すら成り立つ内容に「フォリ・ア・ドゥ」はなっている。
前作において、JOKERは革命者となった。
人間を見捨てる社会に対し復讐をする。失うものなどない人間を作り出した報いを受けろと。
パート1でアーサーは言う。
エリートが殺されれば騒ぎになるが、自分のような人間が殺されても誰も見向きしない、と。
命の選別をしているのはどっちだ、と。
アーサーはそう言いながら、人を殺した。
人を殺したことについて裁かれる。そこはいい。
では、人を殺人にまで追い詰める社会のありようについて知らぬ存ぜぬを決め込んだ「フォリ・ア・ドゥ」という映画の態度についてはどうなのか?
パート1の告発がなければ、「フォリ・ア・ドゥ」で良かったのだ。
でもトッド監督は社会を告発した。
この作品を見た多くの人間が、アーサーの叫びに社会への告発を感じた。
だから人殺しにすぎないアーサーがダークヒーローになってしまった。
大衆は映画を誤読をしたのではない。
アーサーの叫びに、自分の叫びを重ね合わせたのだ。
パート2はそこを無視した。
富めるものは何もかもを奪おうとする。
貧しいものは買い叩かれ、馬鹿にされ、人間としての尊厳すら与えらない。
不自由なく暮らしている者がさらに幸せになるために、踏みにじられる。
それでいいのか!?
腐ってないか? こんな社会!
ぶっ壊れちまったほうがよくないか? こんな社会!
パート2はここを無視した。
監督は「JOKERは俺だ!」と思った人たちを放り出した。
社会から理不尽な仕打ちを受け、プライドを持つことすら奪われ、ゴミのように扱われることに対する怒り。それがJOKERだ。
アーサーそのものではない。
だとするならば、監督はアーサーとしての物語ではなくJOKERとしての物語を膨らませる道もあったはずである
それを無理矢理にアーサーの物語に抑え込んだのが「フォリ・ア・ドゥ」であり、抑え込み方があまりよろしくなかった。
この映画を見て、どう思いました?
あの結末のあと、
あの世界が善い方向に向かうと想像できますか?
アーサーは自分勝手な人殺しでした。
JOKERは社会に有害な存在でした。
おしまい。
ウェインやマーレー的な傲慢さは野放しなのである。
つまり、運悪くウェインやマーレーは殺されてしまったが、アーサーには然るべき裁きを与えた。アーサーの怒りは不当であり、彼に続くことは認められないし、社会が許さない。
あの世界で「フォリ・ア・ドゥ」が作られたとしたら、やっぱりウェイン側の人間が作らせた映画だと考えるほうがしっくりくる。
パート1で人々の共感を呼んだ要素に対して、パート2は誠実ではなかった。
結末は同じでも良いのだ。
例えばの一例だが、裁判所が自爆テロで吹っ飛ぶのがありなら、それを序盤に持ってきて、自由になったアーサーがJOKERとして暴れ、社会がめちゃくちゃになる展開となる架空の「JOKER2」。その時、ウェインやマーレーのような人間は大衆を守るだろうか?
守るわけがない。
自分たちは安全の確保されたゲーテッドコミュニティに逃げ、一般大衆に底辺の復讐の盾となってもらおうとする。それに対してJOKERたちはどう出るか。先の展開はどっちに転んでもいい。大衆と共闘して上流階級を血祭りにあげても良いし、何らかの融和を描いても良い。
が、最後にアーサーは刺されて死ぬ。社会に復讐を果たそうとした上で、社会を革命しようとした上で、人を殺した報いを受ける。
そういうふうにまとめることもできた。
そういう方向性のプロットも検討されたのではないかと思える。
ミュージカルシーンはむしろ、そういう破壊と殺戮の中で魅せた方が光り、現実の「フォリ・ア・ドゥ」のそれは、あまり有用ではない。
むしろ歌とダンスはないほうが良かった。
それはアーサーの悲劇性を際立たせる意味でもそうだし、クライマックスの裁判所爆破シーンの解釈においては邪魔でしかなかった。頭の中では常に「これは真実なの? 妄想なの?」という意識が働いて、クライマックスそのものへの没入を阻害した。
(法廷でアーサーがみんなをブチのめしていく曲は面白かった。つまりミュージカルのアイデアを残したかったのなら、そういう方向性の話で使うほうが良かったと思うのだ)
話を戻す。
パート1のアーサーには「被害者」として描かれている演出があった。
パート2ではそれがバッサリと切り落とされ、パート1で犯した罪への償いが描かれた。
弁護士の言うとおりにする:
死刑を免れるために、アーサーは魂を売る。
みじめで哀れな狂人として振る舞い、笑いものになることを選ぶ。
JOKERであり続けることを選ぶ:
リーからの表面的な愛は得られるが、彼女も支持者たちも本当のアーサーを認めはしない。
JOKERを否定し、アーサーとして生きる;
死刑。リーも失う。
どれもBADEND。
地獄しかない。
これがパート1でしでかした殺人の報いなのだと言うのであれば、アーサーはパート1で受けた屈辱を黙って受け入れるべきだったというのが作品理解となる。
それはウェインやマーレーたちの価値観と大差がないのだ。
違うと言うのであれば、パート1の告発は何だったのだ、と言うことだ。
社会の闇にスポットライトを当てて、次回作で、それを無視して、闇の側に立った人間にこんな仕打ちを与える物語を作って、そこから何を読み取れと言うのか。
パート2をこんな物語にするのであれば、パート1で革命を描くべきではなかったのだ。
社会がアーサーのような人間を生み続けることは無視して、アーサーの罪ばかりを責め上げる。アーサーは苦しみ、もがき、良心に目覚めた結果、愛を失い、命も失う。
このアンバランスさ。
ある種の予告編詐欺であるし、アーサーの犯してしまった罪をアーサーの内面だけに求めていくのは、社会の歪みを無罪にすることと同義であり、問題の矮小化だ。
レディー・ガガが演じたリーを、アーサーにJOKERであることを求める観衆のメタファーとして見るならば、いっそリーがアーサーをブチ殺してもよかった。でも監督はアーサーに空虚な死を与える方を選び、映画のようになった。
ラストナンバーはこうである。
True Love Will Find You in the End
真実の愛は最後にはあなたを見つけるでしょう。
アーサーが最後に見つめたものが真実の愛だと言うのなら、そこには何もなかったのだ。
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