ジョーカー

パート2(フォリ・ア・ドゥ)を見たあとで1を見直すと、2は1の正当続編であることがわかる。

「JOKER」という作品は、アーサー・フレックがアーサーとして生きようともがく物語であって、JOKERの話ではない、ということだ。


ところがゴッサムシティ同様に現実の世界にもJOKERが現れて、無差別殺人などをおっ始めたものだから、お前ら「JOKER」を誤読すんなよ、ということで「フォリ・ア・ドゥ」が出来上がった。そういうことだろう。


本作を見直してみればわかるが、JOKERは悪のカリスマなどではない。


ただの成り行きで誕生し、アーサーが望んだものではなかった。

地下鉄の殺人は正当防衛と考えることもできるし、尊属殺人も情状酌量の余地を考えることもできるが、残りの殺しは自制心の欠如だ。


何も知らないゴッサムシティの大衆は、表面的な事柄から彼をダークヒーローとみなすが、映画の中の彼はヒーローに値しないし、トッド監督もそう言うふうに解釈されると思っていた……のだが、蓋を開けてみると、映画を見た観客もアーサーをダークヒーローと見なしてしまったわけだ。


どこが?

バカにされたぐらいで人を殺す男だよ?

社会に対する告発?

自分の怒りにもっともらしい理屈をくっつけてるだけなのに?


映画を見ればわかる。


パート1の中ですでに、アーサーは告発者としての資格を失っている。

ランドルは小狡い男だが、殺すほどではないし、マーレーも傲慢な男だが、殺すほどではない。

怒りに任せて、衝動で人を殺している。


むろん、アーサーの怒りには共感できる。

痛いぐらいに共感できる。

が、超えてはいけない境界線を、アーサーは超えてしまったのだ。

残念ながら。


残念ながら、と書いたのは、アーサーは本当に可哀想な男性だからだ。


彼は本当にささやかなものしか求めていない。

・僕の話を聞いてほしい

・僕をバカにしないでほしい

・僕にチャンスを与えてほしい


アーサーは施しを求めているわけではない。

ウェインに求めたのはお金よりも承認だ。

アーサーは人間だ。心のある人間だ。

マーレーのような成功者に自尊心まで奪われたら、何も残らない。


ここまではわかりやすい。

トッド監督が本作に仕掛けた悪意は最後である。


アーサーはチャンスを与えても、それを活かせない人間だということだ。

労働者としての価値がない、ということである。


劇中でアーサーは何度もヘマをおかす。

アーサーは次こそは失敗しません、というが、失敗しない人間が優先されるのが社会だ。


どんなにダメな人間でも生きる価値はあるよ、などと抜かす「いい人」は世の中には山ほどいるわけだが、じゃあお前、実際にアーサーを雇えるか? 隣人として愛せるか? 家族になれるか? 答えてみろよ!!!


そういう問いかけをしているのだ。


実のところ、2は1の語り直しに過ぎない。

1で言いたかったことの強調に過ぎない。


アーサーは世の中に包摂されない。

他人に価値を示せる者しか、世の中は受け入れないからだ。

アーサーが世の中の役に立てることってなあに?


JOKERであること。


弱者の復讐を正当化してくれる道化師を演じてくれること。

JOKER支持者はアーサーの無罪を訴えるが、アーサーがアーサーでいることは許さない。

良心に目覚めたアーサーがJOKERでいることを辞めた途端、彼らは離れ、ひとりになったアーサーに有罪判決が下る。死刑。


悪意しかない。


良心に目覚めたと解釈できる理由は2場面ある。

裁判所でのゲイリーとのやり取りと、その夜、投獄中のJOKER支持者が看守たちに殺されたことに対するアーサーの反応だ。


看守たちが苛立っているのは、裁判所でのアーサーの発言が影響しているのでは?

JOKERが現れなければ、支持者は暴れなかったのでは?


映画はその責任すらアーサーに背負い込ませて、彼が社会に受け入れられる唯一の道であったJOKERを、彼が愛を得る唯一の道であったJOKERを彼自身の手によって放棄させるのだ。


自分への死刑宣告を当人にさせているようなものである。


血も涙もないストーリーテリングだ。

救いの道など、どこにもありはしなかった。


そもそもアーサーに何ができたんだ?

脳に障害を受けたのは誰のせいだ!? 子供の時に虐待を受けたのは誰のせいだ!? 満足な教育を受けられなかったのは!?


アーサーがしたことが八つ当たりなら、八つ当たりすらするな、と言うのがパート2の結末なのである。

社会に不満があるなら、生きているのが辛いなら、黙って一人で死ね、と。


パート1の開始時点まで時間を戻すことができれば、こう言うしかない。


我慢して生き続けろ。

心を殺し、強者の慈悲を乞うて、笑われて生きろ。

ピエロでいろ。

価値のない人間は救われる理由もなければ意義もない。

この世界はミジメに生まれたことすら自己責任にされちまうんだ!


これがJOKER1,2の結論だ。


ひどいと思うだろうか?

ひどいとしか言いようがない。


だが、これが現実だ。


ご覧の通り「フォリ・ア・ドゥ」は成績が不振である。

アーサーがJOKERから逃げようとしたからだ。

トッド監督がJOKERを描こうとはしなかったからだ。

大衆が求めていたのはJOKERだけだったのだ。

アーサーがアーサーでいることを受け入れる社会なんてない。


ないんだよ!!!!!


自爆覚悟で世に示した監督の姿は、まさにJOKERである。



本作の成功は何よりもホアキン・フェニックスのキャスティングによるものだろう。

アーサー・フレックを見事に演じていた。体つきからしてアーサーを体現していた。社会が彼を排除する理由であるところの「キモさ」を見せるシーンにおいても、ホアキン自身が醸し出す哀愁や気品によって「見られる」シーンになっていた。絶妙なバランスだった。


キモくない男ではアーサーとしては不適格で、キモいだけの男ではJOKERにはなれない。


自分自身の包摂力のなさをさらすようで嫌なのだが、そういうことなのだ。


残酷すぎるほどに残酷な映画、それがJOKERである。

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