第17話 いってきます
「朝になりましたよ、ミチル」
眠たげなコゼットさんの生温い声に目を覚ますと、ベッドとは名ばかりの
テオンに住む庶民の朝は早い。太陽よりも少し早く起床すると、手早く身支度を済ませ、まだ薄暗い朝の街を行く。朝ごはんは家では食べない。俺達は、いつも大学までの
「いってきます」
コゼットさんの準備を待って家を出ると、通りは人で渋滞していた。テオンでの生活にも慣れ、身の回り以外にも目を向けられるような余裕が出てくると、色々なものが見えてくる。
例えば、俺の前後左右を歩く人たち。今まさに渋滞を作っている彼らの多くは工場や港湾で働く作業員、もしくは金持ちの下働きだ。金髪ドリル純正お嬢様は、彼らを
高校のクラスメイトに東大合格した奴や、プロスポーツ選手になった奴、その他なんかスゲー才能を持ったが居なかったように、異世界の人間だって、皆がみんな魔法を使えたりはしないし、職人や専門家である訳では無い。物語の登場人物紹介には載らない名もなき人で、世界は動いている。
「そういえばミチル、いつも出かける時に『イッテキマス』って言いますけど、なんかの呪文ですか?」
ふと、隣をちょこちょこと歩くコゼットさんの黒い瞳が俺を見上げる。テオンに来てから、彼女はずいぶんと垢抜けた。旅をしている時は朝起きても顔を洗うくらいだったのが、今では謎の化粧水で顔をペチペチ叩いて、よく分からないワックスで髪を整えるようになった。そのおかげか髪は柔らかくサラサラとして、肌も健康的になった。
ちなみに、この前買った眼鏡は掛けていない。「盗まれるといけないから」と本を読む時以外は大事に鞄にしまっている。残念だ。
「呪文じゃあないけど……言われてみれば、なんだろ。挨拶かな?」
「異世界の?」
「うん。家族に『出かけるよー』って伝えてるんだと思う」
「でも、いつも出かける時は二人一緒ですし、家には誰も居ないんだから、必要なくないですか?」彼女が首を傾げる。たしかに。俺も首を傾げる。『いってきます』の意味なんてちゃんと考えたことは無かった。習慣として『いってきます』の文字が喉に貼り付いているだけかもしれない。
「じゃあ、やっぱり呪文かも」
「なんの呪文なんです?」
「『行ってくる』って事は……あー……『帰ってくる』ってことだ。だから、そう、『いってきます』っていうのは、『ちゃんと家に帰ってこれますように』っていう、おまじないなんだよ。うん、おばあちゃんが言ってた気がする」
まぁ、俺はその呪文を唱えて今、異世界から帰られないのだけれども。
「なるほどぉ、異世界にはそんなおまじないが。じゃあ、私も唱えた方がいいですね!」
しかし彼女は手を打って納得する。コゼットさんは『異世界の』という形容詞を付けておけば大抵のことは受け入れてくれる。そういうとこ、俺すごい心配。
さて、えっと。何を考えていたんだっけ?なんか人間とか、世界とか、深い話を浅いレベルで考えていた気がする。
そんなことより、そう、コゼットさんが身だしなみに気を使うようになったって話。テオンに来る前は、ずっと野暮ったい毛織の軽装だったけれど、今じゃ
コゼットさんの変化は、あの金髪ドリル純正お嬢様・ミシェルのおかげだ。年齢が近い同性という事もあって、コゼットさんと彼女はすぐに仲良くなった。化粧品も服も彼女と一緒に買ったらしいし。
「コゼットさん。テオンはどう?楽しい?」
「もちろん!魔法は面白いし、なによりミシェルに会えました!」
彼女の幸せそうな表情に、こちらも楽しくなる。会った頃は貴族なんて嫌いだと言っていたコゼットさんが、ミシェルのことは出会えてよかったと思っている。やっぱり生活に余裕が出てくると、人は変わるということか。
これなら、日本に帰っても問題はない。俺はずっとある心配事を抱いていた。それは俺が帰った後にコゼットさんを一人にさせてしまうということ。なにせ彼女は生活力とか無いし、騙されやすい性格してるし、人として基本的な部分でアホだし。でも、今なら安心して俺は……まぁ、帰れる手がかりはまだ見つかってないけど。
「でも、ミチルばかりずるいですよ。私もリンデさんが言ってた物書きの人に会ってみたかったですよ」
「また次の機会ってことで」
「次の機会っていつです?」
「決めとくよ。多分」
「絶対お願いしますよ!」
なんとなしに言葉をキャッチボールさせて、気がつけば大学前に着いていた。この後コゼットさんはお勉強。俺の目的地は「魔法協会」。日本に帰る方法に一歩近づく、可能性がある場所。
「それじゃあミチル。いってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
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