第5話 異世界と、はじまり
──さぁ起きろ、今起きろ、
思わずベッドから飛び起きた、その直後に気付く。そう言えば、今日からは自由登校。朝早く起きる必要も、もう無くなってしまった。
「ミチル、母さん仕事行くから。食べるならみそ汁温めてね」
少し損した気分で部屋を出ると、玄関から母の声。つまり、みそ汁以外のおかずは無いと。まぁ作ってくれるだけで十分ありがたいな。冷めて濃くなったみそ汁は好みじゃないので、アルミ鍋を火にかける。
リビングでは薄型のテレビから薄味の情報が次々と流れてくる。
映画の完成披露試写会、バラエティ特番の告知。占いは最下位、
九州では例年より早く桜が咲いて、国会ではよく分からない何かが賛成多数で可決して。
近所の川で変死体が発見され、隣県の動物園で可愛い動物の繁殖に成功し、地球の裏側で銃が人を殺した。
一番記憶に残ったのは、国際大会で優勝したスポーツ選手の、涙ながらのインタビューかな。
自分の周りが変わっても、世界の
無意識に流されていた時には気づかなかったけど、こうやって腰を下ろして、少し傍らから眺めていると、その流れの速さに驚く。
みそ汁が温まるまでの時間で、ベランダに干されたカッターシャツが乾くまでの時間で、スマホの画面をスクロールさせるこの時間で、俺はどこまで流されてしまうのだろう?
「……そろそろ温まったかな」キッチンに戻ると、鍋の火がいつの間にか消えていて、みそ汁は冷たいままだった。どうやら占いはハズレだな。熱々のみそ汁で舌を火傷するかと思ったが。
「電池でも切れてんのかな?」ガスコンロのつまみをカチッと
ドゴォォォォォン……ッ!!
それは、一瞬で世界が変わるほどの、爆発────
「火傷どころじゃねぇだろ!!?」
「どうしました?うなされてましたけど」
「家が……爆発した……」
「楽しそうな夢ですねぇ。それより、ささっと顔を洗ってきて下さい。旅の日の朝は早いですからね」
マクベスさん家に泊まって5日目の朝。今日は俺とコゼットさんが隣の国へ向けて本格的に旅立つ日。
この5日間で、俺はやっと自分が異世界に来てしまったのだという実感が湧いてきた。スマホは無い。テレビも無い。電気もガスも、毎朝の占いも無い。アスファルトに覆われていない剥き出しの地面からは、電線や鉄筋コンクリートのビルが生えていることも無い。
例えば、異世界の食べ物。全体的に味が薄くて、変なスパイスの香りがほんのり鼻をくすぐる。マズくはないけど、手放しに美味しいとは思えない。コゼットさんは大体うまいうまいと食べるので、よほど俺の舌が肥えているのだろう。
『どぺら煮込み』は美味しかったけど、あれは特別な席の料理らしく最初の日の夜以来食べられていない。次点で美味しかったのは川魚の塩焼き。みそ汁が飲みたい。冷めててもいいから。
例えば、異世界の服。男の人はアラジンやシンドバットのような、ブカっとした白いズボンと暖色系のベスト。女の人は緑か茶のワンピースにエプロン。皆んな大体そんな格好。流行ではなく、そういう文化。
初めて着せてもらった時は、なんだかテーマパークでコスプレ体験しているみたいな感覚になって気恥ずかしさから笑ってしまった。というか、まだ着慣れない。まぁ、高校に入ってブレザーを着始めた時も、いつの間にか何も思わなくなったから、少し経てば慣れるだろう。
様々なカルチャーショックを経験して初めて、本当にここは日本とは全く違う、異世界なんだと思い知らされた。
そして、異世界の人たち。5日もあれば、マクベスさんの屋敷で働く人や、屋敷のある街の人々とも少なからず交流がある。
彼らは、考え方や価値観は全く違うし、時にはびっくりする事を言い出すこともある。俺とコゼットさんを歓迎してくれる人もいれば、気味悪がって近づかない人もいる。陰口だって言われてると思う。
けれど、こっちが笑顔で『おはよう』と言えば、笑顔の『おはよう』が返ってくる。屋敷のコックさんや街のパン屋さんに『美味しい』と伝えれば喜んでくれるし、おまけも貰える。
服の着方や食事の作法が間違っていると、家政婦のおばさんから注意が飛んでくる。
多少オープンな性格の人が多けれど、日本とそう変わらない。見知らぬ人でも、その人が困っていれば気を使うし、挨拶くらいは交わす。
たった5日で、この異世界全ての人が
そして、人と関われば関わるほど、世界は広くなっていく。最初の日はひたすら元の世界に帰りたいという感情だけだったが、何度も夜を越え、異世界に居るという事実を飲み込めるようになると、次第にこの世界に興味が湧いてきた。
もちろん今でも家には帰りたいし、大学には
だから、実は今日が来るのが楽しみで、昨日はあんまり眠れなかったりする。それであんな変な夢を見たのかもしれない。
「私としてはもう少し泊まってくれても構わんのだが……」マクベスさんは田舎のおばあちゃんみたいな事を言っていたが、コゼットさんが早く出発したがるのだから仕方がない。
関所のある国境の街までは、サイさんが馬車で送ってくれる
どうしたのか話を聞くと、どうやら俺達の馬車を引く予定の馬が2頭とも風邪を引いてしまったという。彼は自罰的に唇を噛んだ。「すまんが、馬に無理させる訳にもいかねぇ。コイツらの体調が良くなるまで、お前らもう少し泊まってけ。マクベスさんには帰ってきたら俺が説明しておく」
「えぇ……魔法で何とかならないんですか?」
「魔法で病気が治りゃあ医者は要らねぇよ」
「なら、お薬とか」
「んな金がどこにあんだ」
「……洞窟?」
「マクベスさんの金じゃねぇか。というか、そこに行く為の馬も居ねぇよ」
だが、コゼットさんはせがんだ。初日のこともあってか、彼女にとってマクベスさんの屋敷での
それに俺だって、今日は旅立てないことに対して、雨天で体育祭が延期になった時くらいにはがっかりしているから、彼女の気持ちの三分の一くらいは分かる。
かと言って、馬車を引く馬が病気ともなれば、無理に旅立つことは出来ないことも理解している。地図なんて貴重ものなど無く、俺達は国境の街がどこにあるのかも、どれだけ歩けば到着するのかも知らないのだ。
「そんなに出発してぇんなら、
駅馬車は大きな街と街を結ぶ旅客用の馬車で、話を聞く限りはバスや電車みたいなものだ。日に一度はここモルベリアの街から国境の街行きの駅馬車が出ているので、それを使えばいいと彼は言った。
「それはおいくらかかるんですか?」
「だいたい一人銀貨一枚くらいだな」
「ぎ……っ!?ダメダメ、ダメです、高すぎますよ!パンが何十個買えるんですか!?」
「使う奴は裕福な商人とか、小貴族だからな。それでも賊や獣に襲われずに、素早く他の街に行けるんだ。徒歩旅より疲れないしな。それを考えりゃ、安い買い物だろ?いや、むしろ釣り銭が返ってくるくらいだ」
至極もっともな話だ。幸い俺たちは沢山のお金を貰っているし、移動費としてなら適切な使い道と言えるだろう。だが、それは電車やバス移動に慣れていて、この世界の物の価値を知らない俺だから持てる感想であって、コゼットさんの考えはどうやら違ったようだ。眉間に深い皺が寄っている。
やがて、彼女は熟考の末に口を開いた。「例えばですよ。私が薬草を採ってきたら、お馬さんはすぐ元気になりますか?」
「ありゃ治りは早いだろうが、馬にも効くなんて俺ぁ
すると、コゼットさんはサイさんの話を待たずに俺の手を引っ張ると、厩舎から駆け出た。後ろから「あ、お前らどこ行くんだ?」と声がする。
「ちょっと、まさか薬草を探すの!?」
「もちろん!だって
しかし、シムシム探しは全く上手くいかなかった。屋敷を飛び出し、森を抜け、荒野の
よく考えれば、彼女がそれを見つけたのはマクベスさんの隠し金庫があった洞窟の辺り。ここからは馬車で半日はかかる程には離れているし、あの辺りはもっと土地が乾燥していた。植生や分布というものが違っていても、何らおかしくはない。
ここへ来てようやくそれに気がついた俺は、前を歩くコゼットさんに屋敷に戻ろうと訴えた。シムシムは、恐らく何日か掛けてもっと荒野の奥に足を伸ばさなければ見つからない。そこには恐ろしい獣も多く
しかし、彼女は「きっと見つかります」と、根拠も無いだろう自信だけで歩を進める。そんなやり取りを二、三度と繰り返す内に、段々と俺の機嫌も悪くなってくる。
「一体、何が不満なんだよ?」彼女は一瞬だけ肩を震わせると、足を止めて振り返る。彼女の黒い瞳がいつもより
「たしかに私は貴族が嫌いです。嫉妬もしてます。生まれが違うだけで貴族と奴隷が決まるなんて、おかしいじゃないですか。私だってあんな綺麗な屋敷に住みたいです」
「ああ。羨ましい人間を見たくないから、さっさと屋敷を出たいんだろ?」
「それは誤解です。貴族は嫌いですが、貰えるものは貰います。食べ物もお金も、ふかふかの布団も、あっちがくれるっていうなら、喜んで享受しますね。そういう面では、別に屋敷に居ても構いません。サイさんも家政婦の皆さんも、良い人ですし」
日差しが雲に隠れ、辺りがにわかに暗くなる。風に滲んだ湿っぽい臭いが鼻を掠める。彼女の答えは予想とは違っていて、ならどうしてと俺は訊ねる。
「マクベスさんの
その言葉に困惑する俺を尻目に、彼女は続けた。
「彼の言う通り私が死刑になった理由は全く分かりません。私自身も何が何やら分からないまま逮捕されて、川に沈められたんです。まぁ彼の推理のように、何かの陰謀に巻き込まれたんでしょうね」彼女の淡々とした口ぶりは、まるでそれが遠い過去の出来事であるかのようだ。
「そして、その事件の真相を
ふと見ると、彼女の手は小さく震えていた。彼女にとっての
マクベスさん自身に彼女を事件に再び巻き込むつもりは無いだろう。事件の真相を暴く為の重要参考人として、彼女を保護する。多分、それだけだ。だが、それは彼女にとって、もう一度あの都に連れ戻されることに他ならないのだ。やっと、命からがら逃げ出せたというのに……確かにそれは
「陰謀とか真実とか、どうでもいいんです。私を死刑に追いやった人達なんかとは、もう関わりたくない。私にとってあの事件は、ミチルに助けられて都から逃げ出した時に、もう終わったんです」
いつの間にか雲は空を流れ、再び辺りに日が差し始めた。彼女は瞳を輝かせて言った。「だから私は早く遠くへ行きたいんです!私を知る人なんて居ない遠い所で、事件のことなんか忘れて、
「なにも悪くない」俺はコゼットさんの肩を掴む。改めて話を聞いて、俺は決意した。家に帰る前に、彼女が幸せに暮らせる場所を探さなければ。彼女は未だ不幸の渦中に居る、そんな状況は打開しなきゃいけない。
「でも、方法は間違ってる。無理にシムシムを探すことは、別に幸せに繋がらないよ。とりあえず屋敷に戻ろう。どうせ今日はもう出発できないだろうし……」
その時、彼女が急に叫んだ。
「あ、シムシム!」
「ちょっと!タイミング!」
彼女が指差した先は大きな池、そこ浮かぶ小さな島。たしかに島には背の低い草木が生えているが、俺の目ではそれがシムシムだとは分からない。
「でも、アレは採れませんね」
「泳げば?」
「私は泳げません。ミチルも知っているでしょう?」
初耳だよ。どうやら彼女の頭の中では、俺が彼女を背負って運河を渡った=彼女がカナヅチだと知っている、という図式が出来上がっているらしかった。彼女は手の届かない小島に咲くシムシムを惜しそうに眺めていたが、やがて困ったように笑った。
「ミチルの言う通りですね、シムシムを採ったからといって、すぐ出発できる訳じゃないですし。ごめんなさい、私ムキになっていました。諦めましょう」
彼女は池に背を向ける。さて、俺もさっさと踵を返し、屋敷に戻ろうか。それに何の問題もないのだ。むしろそれが最適解だろう。だがしかし、彼女が放った一言が、俺にそれを拒否させた。
気がつくと、俺は服を脱いで目の前の池へと飛び込んでいた。
「ミチル!?何してるんですか!?そこまでしなくていいですよ!?」
池は思ったよりも数倍は冷たい──まるで、死んだ時の川のように──だが、流れも波もない。小島まではざっと見積もって数十メートル。底は深いが、この程度の
「コゼットさんの為じゃない。諦めるのは好きじゃないんだ」
それだけ伝えて彼女が何かを言う前に俺は泳ぎ始めた。きっと彼女の言い方が少しでも違っていたら、俺は泳がなかっただろう。ちっぽけな
浮島まで泳ぐと、シムシムは割とすぐに見つかった。近くまで来た所で、薬草の区別がつくどうか疑問だったが、この世界に来て初めて食べたあの赤い実は、俺の記憶にしっかりと残っていたようだ。あとはコゼットさんの元に帰るだけ。シムシムの実を離さぬようしっかりと握りしめ、復路を泳ぎ始める。
グォォォッ!!グウオォッ!!
背後から聞こえてきた低い唸りに振り返ると、そこに今の今まであった
「あ、おじゃましましたー……」
グゴォォォォォッ!!!
まずいと思った俺は、全速力で泳ぐ。これこそ必死というのだろう。しかし、波に身体を攫われてしまえば、水流やら漂流物で身体がもみくちゃにされてしまう。頭によぎる
「亀なんかに、負けてたまるかぁッッ!!!」
一心不乱のクロールで岸にたどり着く。命からがら全力を出し切って、疲労と緊張でヘトヘトだ。
「ミチル、大丈夫ですか!?なんですかあの亀!?」
「へーき、へーき。亀は知らん。それより、ほら」
コゼットさんにシムシムを渡す。喜んでくれるかと思ったけど、彼女は眉を垂れ下げる。心配してくれているのか、俺の馬鹿さ加減に呆れているのか。どちらにせよ、ここでモタモタしている
「馬鹿野郎!なぁに危いことしてんだ!」
口やかましい
俺は身体を起こそうとするが、意思に反して腰はおろか腕すら上がらない。無理させたせいで身体がボイコットしているようだ。かろうじて動く視線を横に向けると、コゼットさんがサイさんに頭を下げていた。
「ごめんなさい。薬草があれば、お金も使わないで、すぐに出発できると……」
「薬草を採りに行って、連れに
「……はい」
「ま、コイツも自業自得だ。お前をもっと強く引き止めて、さっさと帰ってくりゃ問題無かったんだから。ま、それでもこのアホが起きたら謝っとけよ?」
そう言って、サイは俺の頭をもう一度叩くと、部屋を出ていった。だから痛いって。ぜってぇ俺が起きてるの気づいてるだろアイツ。
「……謝らなくていいよ、コゼットさん」
「あ、起きてたんですか!?」
俺が起きているのに気づき、何度も謝ってくる彼女を
「あ」彼女は申し訳無さそうに木窓を開ける。外は土砂降りの雨だった。「実は帰ってきた後すぐに降ってきて……止むまでは出発できないって。せっかく、旅の始まりの日だったのに、やっぱり私達って運がないですね」
「逆に考えるんだ。今が底だって。これからの旅で、かつてないほどの幸せを手に入れるんだって。だから、今はこれくらいが丁度いいんじゃない?」
「ミチル……」
ぐぅぅ~。
いい感じで話を〆ようとした所に腹の虫が大声で割って入ってくる。つくづくタイミングが悪いな。まぁ、コゼットさんがちょっと笑ってくれたからいいか。ただ、「お腹が減ってるなら何か作ってもらいましょうか?」気を使われると、にわかに顔が熱くなる。
「みそし……あ、いや」
「ミソシ?」
「ごめん。気にしないで」疲れからか、思わずみそ汁を頼んでしまいそうになるが、異世界にみそ汁なんていう概念は無い。適当にごまかしてコゼットさんを厨房に向かわせる。
「妬けるねぇ」すると彼女とは入れ違いに、目をにやにやと細めたサイが部屋に戻ってきた。
「うわ、おっさんの覗きはキモいですよ」
「
俺の軽口を無視して、彼はベッドに腰を下ろした。「これで分かっただろ?旅は危険なもんだし、
「コゼットさんに訊ねて下さい」
「あいつの気は変わらんと思ったから、お前に話してるんだ。将を射るなら先ず馬を狙えってな」
「なら、俺の答えも変わってませんよ」
もちろんサイは彼女の事情を知らない。だからこそ、このまま屋敷に居たほうが良いと勧めるのだろう。もし昨日までの俺だったら、この話に頷くかも知れない。しかし彼女が旅に出たい理由を知った今は、頷くことはできない。
「そうかい。お前ら頑固なところはそっくりだな」すると、彼はそう言って腰を上げた。「じゃ、これで俺は
「あれ?押し弱くない?それだけ?」
「後で詰められるのも嫌だし、一応ポーズはとっとかないとな。それに俺は別に主人と同意見って訳じゃない。行けるならどこへでも行きゃいい。俺は
「はぁ、そーですか」拍子の抜けた生返事、考えれば彼の言う通りだ。
「あ、そうそう」彼はドアに手をかけながら、なんとはなしに口を開いた。「ずっと気になってるんだが、お前なんでコゼットにそこまで肩入れしてんだ?別に家族でも知り合いでも無かったんだろ?」
「……」答えにくい質問だが、助けてもらった恩と言えばそれまで。だが、どうやらこの時の俺は、非常に疲れていたのだ。「結構、可愛いじゃないですか」
疲れていたので、そんなことを口走ってしまった。
「十分すぎる理由じゃないか。んじゃ、薬草ありがとうな」
からからと笑って彼は部屋を後にする。もし身体が動くのなら、土砂降りの中に駆け出したい。そうでもしないと、この顔の火照りは冷めそうにない。
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