第42話

2時間少しの映画は本当に泣けた。犬が主人公のハートフルコメディかつヒューマンドラマで、感情移入しまくった結果、大泣きしてしまった。持ってきていたハンカチは絞れるくらいビシャビシャだ。


 エンドロールが終わる頃には涙は引いていた。ああ、とてもいい映画だった。


「大丈夫?」


 明るくなってからわたしを見た岡田くんは、泣いた跡もなく平然と首を傾げた。なんで泣いてんだコイツって思ってるかもしれない。


「うん、大丈夫。出よっか」


 時刻は夜の9時半。映画館を出ると、外はすっかり暗くなっていた。


「お腹空いたね。何か食べて帰る?」


 ポップコーンだけじゃさすがにお腹は満たされない。この時間だとファミレスかな、と考えていると、岡田くんは立ち止まった。


「あー。その前にちょっといい?」

「あ、うん。いいよ」


 出入口の正面に置かれた、店内の明かりがぎりぎり届くベンチを指差され、出入口に背を向けて座らされる。


 岡田くんも隣に腰掛け、小さくため息をついた。


「今日はありがとうございました」


 彼は突然、先輩後輩に戻った。突き放されたようで、心臓がドクンと嫌な鳴り方をする。


「いやいや。こちらこそチケットありがとう」


 胸騒ぎがして岡田くんを見ることが出来ない。握りしめた両手をじっと見ていた。


「朱莉さん」

「……はい」


 風が吹いた。植えられた木の葉が擦れる音がする。


 その音が鳴りやんだと同時に、岡田くんが口を開いた。


「偽装カップルやめません?」


 シン、と静寂が訪れた。身体の芯が冷える感覚がする。


 偽装カップルを、やめる。それはどういうことか。


「えっと……どうしてか聞いてもいい?」


 元々お互いの利害が一致したから偽装カップルを始めたわけで、いつまでも続けるとは思ってなかった。


 でも、好きだと気付いて、偽装でもカップルが出来るならいいかと思っていた矢先にやめようと言われれば、理由くらいは聞いてもいいかなと思った。


 岡田くんは、遠くを見て言った。


「好きな人ができたんです」


 氷でできたピックを胸に当てられたのかと思った。身体はどんどん冷えて、凍ったように動けない。


 わたしは今、告白する前にフラれている。


 不毛だと分かっていたくせに、いざフラれると虚無感が襲う。


「そっか……じゃあ、今度は本当のカップルになって麻里子さんたちを安心させてあげてね」


 もう岡田くんの顔は見れない。今見たら何かが沸き上がってきそうで怖い。岡田くんもわたしの方を向くことなく「はい」と頷いた。


「今まで色々とありがとうございました。仕事ではまだお世話になりますけど」


 ゆっくりと立った岡田くんは「じゃあ、何か食べに行きますか」と、わたしを見下ろす。


 岡田くんとは、ただの先輩後輩に戻るだけだ。何も変わらない。今まで通り。


 そうは言い聞かせるも、思い出すのは偽装カップルでの出来事や思い出ばかり。一緒に食べたケーキたちや一緒に立って料理したキッチン。今日の映画──


 ダメだ。このまま平常心で一緒に居られる自信がない。わたしは首を横に振った。


「ダメだよ。好きな人が出来たんでしょ? このまま一緒に居たら勘違いされちゃうよ。ごめんけど、先帰って?」


 精一杯の笑顔で言ったつもりだが、上手く笑えているかは分からない。ヒクつく表情筋を何とか保ち、岡田くんを見上げた。相変わらずの無表情で、何を考えているか分からない。


「……分かりました。じゃあ、すみませんけど帰ります。朱莉さんも気を付けて帰ってくださいね」


 彼はあっさりわたしを置いて帰ってしまった。みるみる小さくなる背中。あまりにもあっけないので笑ってしまった。


「ふふふっ。本当に帰るんだぁ……」


 夜のショッピングモールの外に置いてけぼりにされた28歳独身女。みじめだ。


『好きな人ができたんです』


 脳内再生される、岡田くんの言葉。


 そもそも5歳も年下の黒縁眼鏡イケメンが、年上のまな板平面地味子を偽彼女に抜擢したこと自体が間違いだったんだ。


 彼女役を頼まれて、どうしてわたしなのかって聞いた時、『朱莉さん話しやすいし、こんなこと頼めるの朱莉さんくらいしか思いつかなくて』と言っていたのはきっと嘘だったんだろう。


 あの時たまたまわたしが言い争っている岡田くんと麻里子さんの前を通ったから、手近で都合のいいわたしを利用したにすぎない。


 本当に好きな人ができれば偽装カップルなんてやる意味もない。


 どこかで自惚れていたのかもしれない。岡田くんはわたしだったから彼女のフリをしてくれと頼んできてキスまでしてきたのだろう、と。それは完全に思い上がりで、岡田くんはハッキリ『そこにいたのが朱莉だったから』と言った。


 わたしじゃなくてもよかった。そして好きな人ができた。


「うううっ」


 気付いたら目から涙が溢れていた。そうか、好きな人にフラれるって、こんなに胸が痛くて苦しいんだ。


 20歳の時に付き合っていた彼氏から『別れよう』と告げられた時も悲しかったけど、今はそれ以上に悲しい。あの時はちょっと前からそういう雰囲気を感じていたし、別にそこまで好きじゃなかった。今回は、岡田くんを好きだと気付いたのが今日で、映画館デートして割と幸せだなと思っていた。それがダメージを大きくしている原因だろう。


 出入口から背を向けているので、通行人がいるかどうかは分からない。それでも気にせず泣いた。恥ずかしいという思いよりも、悲しいという思いの方が上回っていた。


 持ってきていたハンカチは、さっきの映画で濡れてしまっていたので使えない。もういいや。どうでも。


 自分の手で目元を擦って感情のままに泣いていると、目の端に人影が映った。警備員さんかなと思ったが。


「なんで泣いてんの」


 その声は帰ったはずの人だった。


「お、かだ、くん……?」


 ぐちゃぐちゃの顔のまま見上げる。そこには黒縁眼鏡を掛けて整った顔立ちをした元偽彼氏がいた。え、なんで。平然と帰って行ったはずなのに。


「ほら」


 手を差し出されるが、何が何だか分からない。えっえっ? と戸惑っていると、目元を擦っていた手を取られ、引っ張り上げられた。


「わっ!」


 岡田くんによって立たされたわたしは、後頭部を引き寄せられ、岡田くんの肩に目元を預ける形になった。いつかのバルコニーを思い出す。


 えっ何? なんで戻ってきたの? っていうか驚きすぎて涙が引っ込んだ。どうしたらいい? どうするのが正解⁉


 身じろぎするのもはばかられて、身体は固まってしまった。岡田くんからは微かにキャラメルの匂いがする。

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