無愛想後輩と二度目のデート

第40話

現在、わたしは4階女子トイレの個室内で、足す用もないのに便座に座っていた。


『優子さんと仲直りしましたので』


 わたしはそれを岡田くんの口から発せられた時、よかったと思うよりも前に呼び方が気になった。


 そりゃわたしのことだって朱莉さんって名前で呼ぶんだから、他の人のことを名前で呼んでもおかしくはないのに。


 ……嫌だと思ってしまった。なんで?


 金曜日に岡田くんからキスした理由を聞いた時から、すごく心がモヤモヤしていておかしい。自分で作ったフレンチが重たくて胸焼けしたのかと思ったが、2日経っても治らない。


 さらには佐野部長からの告白もわたしを動揺させるのには十分で、どんな顔して会えばいいか分からなかったので、会議で居なくてホッとしてしまった。


 土日で優子に相談したかったけど、優子は佐野部長のことが好きな訳で、告白されたなどと言えば傷付くかもしれない。そう考えてしまって相談できなかった。


 目を閉じれば『そこにいたのが朱莉さんだったから』と言った岡田くんの言葉を思い出す。うう、胸が痛い。


 楽しかったことを思い出そうとすれば、岡田くんと手を繋いでhitotoseに並んだことや水族館デートしたこと、一緒にキッチンに並んで料理したことが思い出され、頭の中は岡田くん祭りになる。


 ちゃんと佐野部長のことも考えないと、と思っても、気がつけば岡田くんのことを考えている自分がいる。


 ……わたしは先輩よりも後輩に依存するタイプだったのか……


 うううううっ! スッキリしない! でもいつまでもここにこもるわけにもいかない。そろそろ出るか……


 便座から立ち上がったとき、「でさぁ」と言いながら誰かが入ってきた。


「何しててもそいつのことが頭から離れなくてさ」

「えーそれってもうアレじゃん」

「そう。好きになっちゃったみたい!」

「わーっ! よかったじゃん! あんた、もう恋なんてしないって言ってたから心配してたんだよ」

「うん。振り向いてもらえるように頑張るよ」

「応援する~」


 手を洗いに来ただけだったのか、女子二人組はそれだけ話すと出て行ってしまった。わたしは個室内で立ち尽くす。


『何しててもそいつのことが頭から離れなくてさ』

『そう。好きになっちゃったみたい!』


「好きっ⁉」


 思わず声に出てしまった。口に手を当て、一応そろっと個室から顔を出して誰かいないか確認する。よかった、誰もいない。再び鍵を閉めて便座に座る。


 目を閉じれば後輩の顔が浮かぶ。キスするのは誰でもよかったというような発言で胸が痛む。わたし以外の女の子を名前で呼ぶことが嫌だと思う。


 ──わたしは知っていた。どうしてこういう気持ちになるのか。この現象の名前は。


「わたし、岡田くんのこと、好きになっちゃったんだ……」


 なるほど、それならつじつまが合う。恋愛というものが久しぶりすぎて、気付くのに時間を要してしまった。そうか。わたしは岡田くんが好きなのか……


 モヤモヤが晴れてスッキリはしたが、同時に疑問が浮かぶ。


 彼は無断でわたしにキスをしたわけだが、誰でもよかったと言っていた。と、いうことは彼はわたしのことは何とも思っていないわけで。


 ましてや結婚願望のない者同士で、ただ手近に居て都合のよかった偽彼女。


 ──好きだと自覚した途端、フラれていることにも気が付いた。


 ああ、そうか。この恋は気が付く前から不毛だったのだ。そうかそうか。


 わたしは力なく立ち上がり、用も足してないのに水を流す。


 ダメだ。今は仕事中で、プライベートを会社に持ち込んで悩むなんて、28歳がやることじゃない。切り替えろ朱莉。


 頭を振って気合を入れた。わたしなら大丈夫!


 トイレから出て経理管理部の入口で立ち止まる。奥の方では壁際でパソコンと向かい合っている岡田くんの頭が見える。


 たった頭が数センチ見えただけで、心臓がキュッとなった。うわ、どうしよう、平常心であそこまで行ける自信がない!


「ど、どうかしました?」


 足を踏み出せずにいると、入り口付近の経理部の人に声を掛けられた。


「あっ、いやっ、何でもないです。すみません……」


 頭を下げてわたしは自分の席に戻るべく、足を前に進めた。ええいこういうのは勢いが大事なんじゃ!


「あ、お帰りなさい。お腹痛いんですか? 大丈夫ですか?」


 岡田くんはわたしに気付くや否や心配してくれた。そんな気遣いに、平らな胸がキュンと疼く。やめてくれ、気のないわたしに構うでない青年!


「うん、大丈夫。ごめんね、席外しちゃって。よし、働くぞ!」


 なんとか悟られないように普通を装おうとするが、もう何が普通なのか分からない。とりあえず不必要な接触は避け、なるべく岡田くんの座る右側に意識を向けないように、左手の甲をつねりながら仕事をすることにした。


「朱莉さん。この書類なんですけど」

「ああ、これはここを記入して……」

「朱莉さん、これは?」

「えっと、それは……」

「朱莉さん」

「な、なに?」

「……何でもないです」


 なんなんだよもう!


 岡田くんのことを考えないようにしているのに、彼は嫌がらせのように話しかけてきた。答えないわけにもいかないので、きちんと教えているのだが。


「朱莉さん」


 名前を呼ばれるたびに心臓が跳ねる。今日1日だけで寿命は確実に縮まっていると思う。そしてわたしの左手の甲は真っ赤だ。


「はい、なんでしょう」


 冷静さを装えば、岡田くんみたいに無愛想な返事になる。意識しないようにするにはどうすればいいのか分からない。


「デートしません?」

「えっと、それは……って、えっ⁉」


 また仕事の質問かと思っていたら、デートの誘いで大仰に驚いてしまった。で、でででで、デート!


「朱莉さん、映画、好きですか?」

「え、う、うん。好きだけど」

「姉貴が朱莉さんと行って来いって、映画のチケットくれたんです。よかったら行きません?」


 好きな人からデートに誘われて嬉しくないわけがない。でも、そこには麻里子さんという、わたしたちがカップルを装わなくてはならない影がある。


 麻里子さんは岡田くんを本当に愛していて、幸せになって欲しいと思っているはずだ。元々気のなかったわたしだけど、岡田くんを好きだと気付いた時、麻里子さんの顔が浮かんだのも事実だ。わたしと岡田くんは偽装カップルであって、本当のカップルではない。

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