第37話

軽蔑されるかな、と思っていたけど、ただ納得されるだけで非難はされなかった。少し安堵する。


「じゃあ、本当に付き合ってるわけじゃないんだね?」

「はい。偽装カップルです」


 そう答えると、佐野部長は突然しゃがみ込んで長いため息をついた。


「なんだぁよかったぁ」


 心底ホッとしたようなため息だった。え? なんで佐野部長が安心するの?


「さ、佐野部長……?」


 大丈夫ですか、とわたしもしゃがんで同じ目線になる。すると佐野部長はハッとした顔になって、急に立ち上がった。


「ご、ごめんっ! 何でもないからっ……!」

「危ない!」


 佐野部長は起立性低血圧なのか、立ち上がると同時にふらついた。わたしも立ち上がって咄嗟に手を伸ばす。


「うわっ!」

「きゃっ!」


 佐野部長はわたしより大きくてがっしりしているので、わたし1人で支えられるはずがなかった。2人して倒れこむ。


 反射神経の良い佐野部長が下になってくれて、わたしは部長の上に覆いかぶさる形になった。佐野部長のクッションのおかげで、どこも痛くない。


「ぎゃー! ごめんなさい! 大丈夫ですか佐野部長!」


 急いで佐野部長の上から離れようとすると、腕を掴まれて引っ張られた。再び部長の上に覆い被さる。同時に両腕でホールドされてしまい、動けなくなった。え、え、え、えどうしたの何が起きてるの!?


「さ、佐野部長……」

「ごめん。もうちょっと、こうさせて」


 夜風の吹く外には出歩いている人はおらず、わたしと佐野部長の2人だけ。わたしの下にいる部長から、柔軟剤のいい匂いがした。右耳は部長の胸のあたりに押し付けられているので、鼓動の音がダイレクトに伝わってくる。


 なぜ抱き締められているのか分からないが、少し早いテンポで刻まれた心臓の音は、不思議と心地よかった。


 数秒佐野部長の心音を聞いていると、突然部長は「わ、ごめんっ!」と上半身を起こし、わたしを引き剥がした。どうやら正気に戻ったらしい。


「わ、わ、どうしようどうしよう」


 さっきまでの落ち着きはどこへやら。佐野部長はわたしから距離を取った。


「と、とにかくごめん。セクハラだよね? 完全にセクハラしたよね俺」


 耳まで真っ赤にして「マジでごめん。警察行こうか? 訴えてもらってもいいから」と必死で自分の非を謝ってくるので、わたしは思わず笑ってしまった。


「落ち着いてください。警察には行きませんし、訴えもしません。セクハラは、相手が嫌だと思ったら発生するものです。わたしは嫌じゃなかったので、セクハラではありません」


 そう言って微笑むと、佐野部長の目が見開かれた。


「え、嫌じゃなかったの?」

「はい、別に。というか、全然」


 だって、佐野部長だし。


 別に下に見ているわけではない。佐野部長はわたしにとって会社の先輩であり、尊敬できる上司だ。兄のようにも慕っている人からの抱擁なんて、例えばサッカーでゴールを決めた時に仲間と抱き合うような、そういう感じだった。


 スマホを見ると、午後11時を過ぎていた。さすがにそろそろ帰らないと。「じゃあ、今日はありがとうございました。また月曜日に」と歩き出そうとして「待って」と呼び止められた。


「困らせたくなくて、ずっと言えなかったんだけど」


 佐野部長はそう前置きして、わたしを見た。真面目な話をされると悟ったわたしは、佐野部長と向き合って言葉を待つ。


「なんですか?」

「……好き、です」

「え?」


 聞き返したわたしに、街灯に照らされた頬を朱色に染めた佐野部長は、一呼吸をしてはっきりと言った。


「相生さんのことが好きです。結婚を前提に、付き合ってください」


 …………? なに? え?


 えええええええええええええっ⁉


 予想だにしない告白に、わたしは固まってしまった。け、けけけ結婚を前提に付き合ってほしい……? 噓でしょ! 佐野部長が、わたしを⁉ い、妹だって言ってたのに!


「え、えっと、あの、その……」


 とりあえず何か言わなければと口を開くが、何も出てこない。ど、どうしたらいいのか全く分からない。


 あたふたしているわたしを見た佐野部長は、「ごめん、やっぱり困るよね」と苦笑した。


「7歳も年上だし、そんな気持ちを持ちながら一緒に仕事してたのかって思うだろうけど。岡田くんとの関係を聞いて、偽装カップルやるんなら俺と本当のカップルになって欲しいなって思って」


 落ち着いた声でしっかりとわたしに気持ちを伝えてくる佐野部長はやっぱり大人で、告白されただけであたふたするわたしとは正反対だ。


「佐野部長……」

「ごめんね、気持ち悪いよね。相生さんに結婚願望が無いことも分かってる。でも、返事はすぐじゃなくていいから、考えてみて欲しい」


 気持ち悪いだなんてそんな。どうしてこの人は自分をそんなに卑下するのだろう。


 告白なんて、久しぶりにされた。しかも、兄のように慕っていた人から告白されるなんて。


 驚いたけれど、真っ直ぐ言ってくれた佐野部長に、真摯に向き合って答えを出したい。わたしは「はい」と頷いた。


「すみません。少し時間をください」


 佐野部長は「うん。ありがとう」となぜかお礼を言って、駅までは絶対送るから、と改札まで送ってくれることになった。


「あ、優子のこと任せてすみませんでした」

「ああ、うん。大丈夫。田村さんっていい子だね」

「はい。あの子が同期で本当によかったなって思います」


 ド平日に居酒屋に呼び出したり、人んちのご飯と寝床をたかりに来る非常識な奴だけど、こちらの相談にもきちんと乗ってくれるし、コミュニケーション能力に長けていて色んな人の動向を同時に見ることが出来る彼女を、わたしは尊敬している。


 駅にはすぐ着いて、佐野部長と別れて空を仰ぐ。


 20階のバルコニーから見えなかった星が地上から見えるわけもなく、相変わらず下弦の月だけが夜空に浮かんでいる。


『そこにいたのが朱莉だったから』


 無断でキスしてきた理由をそう言い放った岡田くん。


『相生さんのことが好きです。結婚を前提に、付き合ってください』


 真剣にわたしの目を見て告白してくれた佐野部長。


 一緒にキッチンに立って楽しいのは岡田くん。


 一緒に仕事をして信頼できるのは佐野部長。


 岡田くんとは出会って3ヶ月が経って、佐野部長とは5年来の仲。


 ……キャパオーバーだ。


 さすがに岡田くんの発言と佐野部長の告白を、『忘却する』という得意技で忘れることは出来ないが、少し離れよう。


 とりあえず、早く家に帰ってお風呂に入ることにした。

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