第36話

1度目は改札前、2度目はわたしの部屋のベッドの上、3度目は会社の書庫で、4度目は岡田くんのベッドの上──


 ってあれ。


「え。4回目、覚えてないって……」

「ああ、これも嘘。ちゃんと覚えてる」


 なんで。どうしてそんな嘘を。


 目を合わせようとしないわたしの顔を、岡田くんが覗き込んできた。


「キスした理由、教えてあげよっか」


 鼻が触れ合う。息をするのもはばかられて、呼吸が浅くなる。強制的に合わされた目は、もう外せない。


 わたしは頷きも首を横に振りもせず、ただ黙って至近距離の岡田くんを見つめていた。黒縁眼鏡の偽彼氏はわたしの左頬に手を添えてゆっくりと顔を傾ける。


「キスした理由は……」


 白ワインの甘い香りが鼻腔をくすぐった。唇が合わさる直前に、聞こえた言葉。


「そこにいたのが朱莉だったから」

「!」


 思いがけない言葉に、わたしは目の前の両肩を思いっきり押した。急激に離れる顔と身体。岡田くんはまさか拒否されると思わなかったのか、尻もちをついて瞬きを繰り返した。


『そこにいたのが朱莉だったから』


 なんだろう、この感情。ぐちゃぐちゃで胸が張り裂けそうなほど痛い。


 じゃああの改札前に優子がいたら、優子にキスしていたのだろうか。もし佐野部長だったら? そっちの方がお見合いの話を断るのに都合がよかったんじゃなかろうか。そこまで考えて、ハタと気付いた。


 ああ、そうか。岡田くんにとってわたしは手近で都合のいい女だったのだ。結婚願望もないし、無断でキスしても怒らないし、頼めば家で料理も作ってくれるし、助けを求めれば看病だってしてくれる。


 ……その立ち位置が、悲しいなんて。


「あか……」


 岡田くんがわたしに触れようと伸ばしてきた手を、無意識に弾いていた。パシン、と乾いた音が空気を切る。


「ごめん。帰る」


 わたしはスッと立ち上がって室内へ足を向けた。


「ちょっと待っ……」


 引き戸を開けて中に入ると、佐野部長と優子が楽しそうにキッチンで後片付けをしていた。優子の怒りは佐野部長によって鎮められたらしい。わたしはソファの上に置いた自分の荷物を持って、2人の元へ向かった。


「あれ、朱莉どうしたの」

「ごめん、気分悪くなっちゃって……帰るね。佐野部長も、後片付け手伝えなくてすみません」

「いや、こっちはいいけど……大丈夫?」


 ここで足踏みをすると確実に泣くと悟ったわたしは、「ちょっと酔っただけなんで大丈夫です。じゃあまた会社で」と誰とも目を合わさずに足早に岡田くんのマンションから飛び出した。


「朱莉さん!」


 玄関が閉まる前に呼ばれた名前に、わたしの視界は滲んだ。もうわたしの心はぐちゃぐちゃのドロドロで、まともな思考は持ち合わせていなかった。

 ただ、今日は優子がいてくれてよかったなとか、佐野部長は楽しそうに飾りつけしてたなとか、岡田くんがじゃがいもの皮を剥いてる姿がなんか可愛かったなとか、今日の出来事が頭を駆け巡って考えがまとまらない。


『朱莉』


 少し低い声で呼ばれた名前と、


『朱莉さん!』


 焦った声で呼ばれた名前。


 どちらも同じ人から発せられた声なのに、何かが違う。


『朱莉』


 呼び捨てと、


『朱莉さん』


 呼称付き。


 たったそれだけなのに。


 マンションを出ると、暗がりの夜道が街灯に照らされ、突然1人になったことを自覚した。辺りに人影はない。頬を伝う涙を拭いながら駅に足を向けた。


「相生さん!」


 しばらく歩いていると、後ろからわたしを呼ぶ声がした。咄嗟に振り向く。そこには気心知れた会社の先輩が立っていた。


「佐野部長……」

「大丈夫? 暗いし、駅まで送る……」


 近付いてきた佐野部長がわたしを見て目を見開いた。


「どうした? なんで泣いてるの? どっか痛い?」


 あたふたとわたしの周りを見て確認してくれる佐野部長。わたしに触れないように手を空中に浮かせる様子に、思わず笑ってしまった。


「大丈夫です。すみません。ちょっと、酔っちゃったみたいで……」


 目元を拭って「わざわざ追いかけてくれてありがとうございます。でも、もう大丈夫なんで」と頭を下げると、佐野部長は「岡田くんと」とためらいがちに言った。


「バルコニーで、何かあった……?」


 そう聞かれてさっきの言葉を思い出す。


『そこにいたのが朱莉だったから』


 わたしに4回も無断でキスした理由を、そう聞かされた。ズキッと胸らへんが痛む。


 わたしじゃなくてもよかったんだと思うと、再び泣きそうになる。


 ……なんで? この感情は、一体何……?


「相生さん?」


 遠慮がちに顔を覗き込まれて、わたしは両手を前で振った。


「な、何もないです! 全然全くビックリするくらい何もないです!」


 逆に不自然な否定になってしまい、佐野部長は眉根を寄せた。顔が「本当に?」と言っている。


「今も泣いてたし、さっきも呼び捨てで呼ばれてたし、岡田くんに嫌なことされたんじゃない? 一応セクハラ担当の部署だから、対応するよ?」


 佐野部長は本当に優しい。あまりにも優しすぎるので、岡田くんとの関係を内緒にしてるのが申し訳なくなってきた。


「違うんです。嫌なことされたわけじゃなくて、わたしが勝手に逃げちゃっただけで……」

「ねぇ、もしかして、岡田くんと相生さんって……付き合ってる?」

「えっ⁉」


 とんだ勘違い発言に赤面してしまった。どこをどうしたらそうなるんですか⁉


「まままままさか! わたしと岡田くんはそんな関係じゃありません!」


 偽装カップルなので本当に付き合っているわけではない。必死で否定すると、佐野部長は「見ちゃったんだよね」と言った。


「前に改札前で相生さんと岡田くんがキス……してるところ」

「!」


 佐野部長まで赤面し始める。


 岡田くんに初めてキスされた日。あれ、見られてたんだ……


『そこにいたのが朱莉だったから』


 再び岡田くんに言われた言葉が頭を掠める。


 わたしじゃなくてもよかったんなら、別に言ってもいいのかな。隠す必要もないし。佐野部長だし。なんか、どうでも良くなってきた。


「あのですね、佐野部長……」


 岡田くんとわたしは結構願望がないのに、家族にお見合いをさせられそうになってカップルを演じていることを佐野部長に話した。さすがに4回もキスされたことは言わなかったが、佐野部長は静かに聞いてくれた。


「そっか……偽装カップルを……」


 佐野部長は顎に手を当てて、小刻みに頷いた。

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