第35話
「口が滑った、と言ったらいいですか」
あ。
優子からカッチーンと何かが切れる音がした気がした。ガタン、と優子が立ち上がる。
「おいこらクソガキちょっとツラ貸せや表出ろ」
再び関西弁になった優子は、もの凄い巻き舌で今にも岡田くんに掴みかからんとしている。ヤバイヤバイ止めないと!
「ちょっと優子、落ち着いて」
「売られた喧嘩は買う主義やから」
「待って待って、買わないで」
「うるさい。あたしのプライドが許さへん」
平和主義のわたしは何とかして優子の怒りを鎮めようと、どうどう、とか言ってみる。
って言うかこの子、なんでこんなにキレてんの? ただ岡田くんがわたしのことを呼び捨てにしただけなのに。
あ、岡田くんの態度が気に入らないのか。
「え、ちょっと、何してんの?」
お手洗いから帰ってきた佐野部長が、異様な空気に気付いて駆け寄ってきてくれた。ナイスタイミング佐野部長!
「すみません佐野部長。わたしは岡田くんをバルコニーに避難させますので、優子のことお願いしてもいいですか?」
言いながらわたしは岡田くんの背中を押す。
「岡田くんの何かが優子の逆鱗に触れたみたいで……」
すみません、と頭を下げると、「分かった。田村さんは任せて。相生さんは岡田くんをお願い」と本当は何も分からないのに、佐野部長は快く頷いて優子の肩に手を置いた。これが大人の余裕ってやつか。見習いたいものだ。
わたしは岡田くんを連れてバルコニーに出た。広いそこには、リゾート地の海沿いでよく見るビーチチェアが二脚置いてあり、くつろげるスペースになっていた。
見える街並みは電灯がキラキラ輝いていて、割と綺麗だ。空を仰ぐが、さすがに星は見えなかった。見えるのは、下弦の月のみ。
座る気にはならなかったので、欄干に近付いて大きく伸びをした。その隣に岡田くんがやってくる。わたしより背の高い彼は、遠くの方を見ていた。
その横顔を見て、思い出した。そういえば今日、言ってない。
「言い忘れてたけど、お誕生日おめでとう」
岡田くんはお説教をされると思っていたのか、祝辞の言葉に目を丸くした。
「ああ、どうも」
さすがに20階ともなると、下を走る車の音は聞こえない。緩やかに流れる風を感じながら、「優子がブチギレた理由はよくわかんないけどさ」と言葉を紡いだ。
「多分、酔ってたんだと思う。あの子、滅多に酔うほど飲まないけど、今日は佐野部長と岡田くんの仲を取り持とうと頑張ってくれてたし、ついついワインが進んじゃったんだと思う。ごめんね、怖かったよね」
いつだったか、結構続いた彼氏と破局したときにも優子は深酒をして、夜が暗いことやポストが赤いことにブチギレたことがある。多分、今回もそんな感じだ。岡田くんの態度が、優子の癪に障ったのだろう。酔った彼女の扱いは、5年の付き合いになるわたしでさえも困難だった。
今更佐野部長に預けて大丈夫だったかな、と不安になる。バルコニーから室内を見ようとして、岡田くんが「別に」とわたしを見据えた。
「俺が先輩に対して呼び捨てとため口だったのが気になったんでしょ。田村さんって上下関係うるさそうだし」
確かに営業だからか優子は上下関係にうるさい。しばらく佐野部長と2人にすれば落ち着くだろう。わたしは「そうだね」とこの話を切り上げることにした。
「そういえば、麻里子さんにマグロ1匹頼んだの?」
「いや、やめた。普通に除湿機にした」
「なんで?」
「マグロそんなに好きじゃない」
「なにそれ」
なぜだかこうして偽カップルとして岡田くんと2人で話していると、色々話せる。お互い冗談も言えるし、ふと訪れる沈黙も気まずくない。なんでだろう……
「ねぇ。慧斗のご両親のこと、聞いてもいい?」
麻里子さんから聞いた岡田くんの過去を、今なら本人の口から聞けるかもしれないと思っての発言だった。だって今日は岡田くんの生まれ落ちた日で、生まれた時は本当のご両親に可愛がられていたはずだ。覚えている優しい記憶を、少しでも岡田くんから引き出そうと思った。のに。
「先に言っとくけど、姉貴と両親とはちゃんと血が繋がった家族だから」
「…………え?」
──わたしと慧くん、本当は血が繋がってないの。
麻里子さんの声が脳裏を掠めた。あの時確かに、麻里子さんはそう言った。さらには岡田くんを保護するまでのストーリーまで事細かに教わった。
それなのに、本当は血が繋がっているとは、一体どういうことだ?
混乱していると、岡田くんは黒縁眼鏡を人差し指で押し上げて「姉貴が言ったことは全部嘘」と言った。
「ごめん。これだけは弁明しとく。俺の家族はみんな、血縁関係あるし、母親も生きてるから」
真っ直ぐ目を見て謝られ、ああ、これは本当だと思った。そう思うと足の力が抜けてしまって、へなへなとしゃがみ込む。
「なんだぁ。よかったぁ。結構本気で心配した」
「本当にごめん。姉貴の出来心ってことで、許して」
岡田くんもわたしの目線にしゃがみ込んで、小首を傾げた。そうか、岡田くんは生まれた時から家族に愛されてすくすくと育ったんだ。無表情なのは天性のもので仕方ないんだな。ああ、そうか。でも本当によかった。なんで麻里子さんがそんな嘘をついてきたのか、よく分からないけど。
ホッとしすぎたのか、わたしの目から涙が溢れ出ていた。
「うううっ」
「え、ちょっと、ごめんってば」
嗚咽を漏らすと、岡田くんは慌てた様子でわたしの頭を自分の肩に引き寄せた。ホッとして泣くとか、わたしも大概酔っている。
お化粧が岡田くんの服に付いちゃうな、と心の片隅で思ったけど、頭を支えてくれている手とか触れ合っている温度が妙に心地よくて、離れたくないなと思ってしまった。これはきっとバルコニーマジック。
ふと部屋の中にいる佐野部長と優子のことが気になったが、ビーチチェアの前にしゃがみ込んでいるのでここから中の様子は見えなかった。
「……ごめん、取り乱した。もう大丈夫」
しばらく岡田くんの肩に甘えさせてもらって、しゃがみ込んだままの体勢も辛くなってきたので離れようとすると、割と強い力で両肩を押され、尻もちをついた。
「痛……」
座った状態で壁ドンをされているのだと気付いたのは、右耳の後ろに手をつかれた時だった。
「朱莉」
彼の眼鏡のレンズには、夜景の明かりが反射して写っていて、目の表情が読み取れない。迫ってくる心理を読み損ねて、咄嗟に顔を背けた。
「なに……」
「なんで4回もキスしたか聞かないの?」
「!」
心臓が跳ね上がった。感触を思い出して、思わず両手で口元を押さえる。
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