第29話

「麻里子さんのエプロン、前掛けタイプかぁ。わたし全身派なんだよなぁ」とパステルカラーのエプロンをつけながら言う朱莉の耳元で、少し屈んだ俺は囁いた。


「朱莉さんが毎日来てくれてもいいんですよ」

「え? 家政婦ってこと?」


 トンチンカンな解釈に加え、お金取って良いの? などとビジネスを始めた朱莉に、俺は小さくため息をついた。鈍感すぎるのも困るな。まぁそこが可愛いということにしておこう。


「いや。何でもないです。朱莉さん、キャベツ貰ってもいいですか?」

「あ、うん。はい」


 さっきスーパーで買ってきたキャベツを朱莉から受け取る。キャベツはそのままの状態で新聞紙にくるんで、密閉袋に入れて野菜室に保存すれば、最大3週間は保つ。なので、そのまま切るのではなく2枚ほど剥がして重ねたら芯を切って手前から丸め、端からできるだけ細くテンポよく切っていった。プロみたいに高速で切ることは出来ないが、それなりに早く切れている自信はある。


「…………え」


 おお、驚いてる驚いてる。朱莉は千切りされたキャベツを見て、俺を見た。


「もしかして、お肉を小分けにして冷凍庫に入れてたのは……」

「はい、紛れもなく俺です」

「部屋がキレイなのは……」

「俺が掃除してます」


 明かされた真実に、朱莉の瞬きの回数は多くなった。信じられないというような顔だ。


「ちなみに姉貴は家事が苦手なので、よくご飯をたかりに来ます」


 姉貴の旦那に弟と結婚すれば、と言われる所以ゆえんである。大学からひとり暮らしを始めて、自然とある程度の家事はこなせるようになった。自炊も、特に苦と思ったことはない。でもやっぱり朱莉が作ってくれた料理の方が美味しいので、朱莉の手料理が毎日食べたい。


「……それじゃあわたし、必要ないね」


 そう言われると思って、黙ってたんだけど。俺は首を横に振った。


「必要です。魚、さばけないんで」


 どうも生魚を触るのだけは苦手で、自分では魚を買わないのだった。朱莉は妙に納得した顔になった。


「ああ、だから冷蔵庫に魚がいなかったんだね」

「はい。魚、好きなんですけど自分で料理できないんで困ってたんです。だから魚の煮付け、作ってください」


『ああいう子は後輩が困ってたら自分が解決してあげようとするタイプだと思うから、そこから押していけば多分大丈夫だと思う』


 朱莉のことを相談した時、姉貴に言われた言葉を思い出す。姉貴は人を見る目が大いにあって、改札前でほんの少し朱莉を見ただけで性格を言い当てた。俺が姉貴を尊敬するところはそこだ。姉貴の言う通りにしておけば、大概のことはうまくいく。


 案の定、朱莉は「しょうがないな」と言って、カレイを捌き始めた。ああ、この人は詐欺に遭うタイプだ。しっかりしてそうで少し抜けている、お人好し。


「岡田くんは、家事好き?」

「好きでも嫌いでもないです」

「……そっか」


 しばしの沈黙。この沈黙さえも愛しいと思っているのは確実に俺だけで、朱莉は『年上だから何か話さなくちゃ』と頭の中は大忙しなんだろうな。カップルを演じてた時は本当の恋人みたいに話せてたのに、会社の先輩後輩になるとどうもうまくいかない。悩ましい事態である。


 しかし料理をしていると心が落ち着いてくるのか、しばらくすると朱莉は無言でも楽しそうにクッキングシートで落し蓋を作っていた。


「あ、生姜切って」

「……はい」


 俺が料理の出来る奴だと分かると、顎で使われ始めた。でも、こうしてキッチンに2人で立つというのも、悪くない。


 俺はそっと隣で料理を作る朱莉を盗み見る。もう家政婦でもいいから毎日来て欲しいな。お金も払うし。


 好きが募っていくばかりだった。

「ご馳走様でした」


「ご馳走様でした」


 俺と朱莉は同時に食べ終え、一緒に手を合わせた。


 リクエストしたカレイの煮付けは、母親のよりも美味しくて、柄にもなく幸せだ、などと思ってしまった。魚マジックは俺にもかかっているらしい。


「じゃあ、後片付けして帰るね」


 使った食器をキッチンへ持っていきながら、朱莉が言う。時刻は午後8時半。幸せな時間はあっという間だ。帰したくないが、帰さないわけにもいかないので、俺は小さく「はい」と頷いた。


「岡田くんは洗った食器、拭いてくれる?」

「はい」


 朱莉が皿を洗って俺が拭く、という共同作業に入る。シンク下には食洗機があるのだが、それに気付いていないので、あえて言わないでおく。せっかく2人でキッチンに立っているわけだし。こういうのもたまにはいいだろう。


 しばらく無言でそれぞれの仕事をこなした。


「よし。じゃあ、そろそろ帰るね」


 朱莉は皿洗いが終わると、宣言通り帰宅の準備を始めた。カバンを持って玄関へ歩を進める。


「駅まで送ります」


 外はすでに暗いので、俺も一緒に出ようと玄関まで行ったのだが。


「いいよいいよ。ここから5分くらいだし、水族館でたくさん歩かせちゃったし」


 断られた。少しでも長く一緒にいたいと思っているのは、やはり俺だけなのか。


「今日はケーキに水族館に、晩御飯まで一緒に食べさせてもらって、本当にありがとね」

「いえ。こちらこそ作ってくださってありがとうございました。美味しかったです」


 じゃ、また会社で。


 そう言って手を振って玄関から出る朱莉の手を、掴み損ねた。


 バタン、とドアが閉まる。


 空気しか握れなかった手を、俺はしばらくじっと見つめていた。

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