第28話
部屋のチャイムが鳴り響いたのは、朱莉に連絡してから3時間半後だった。誰だこんな時間に。姉貴かとも思ったが、風邪を引いたことは言っていないので来ないはずだ。
2回目のチャイムが鳴って、俺はダルイ身体に鞭打ってモニター画面を見た。そこには好きな人が心配そうな顔で立っていた。
「あ、かりさん……?」
『助けに来たから、とりあえず開けて?』
まさか来てくれるとは思わなくて、高熱も相まって夢でも見てるんだと思った。でも、部屋に上がった彼女は酒臭かったり、汗ばんだ身体をタオルで拭いてくれる感覚があったので、現実なんだと実感した。
高熱にかまけて少し甘えてみた。卵雑炊はあーんしてもらえたので、口移しで薬を飲ませろと言ってみたが、それは拒否された。
頭はボーっとしてはいたが、意識はちゃんとあった。「終電があるから帰る」と言われて、無意識に手が伸びていた。甘えの延長線で「ヤダ、ここにいて」と言ったら頭を撫でられそうになって、理性がぶっ飛んだ。両手を掴んでベッドに引っ張り込む。
4度目のキスは、この熱が移ればいい、と長めにした。
佐野部長と2人きりで仕事して、2人きりで飲んで、その足で偽彼氏の家に来て。ただ、ムカついた。偽でも彼氏なのに、なんで他の男と。
忘れられないほど刻み込んでやる。
覚えていないのは、その後だった。
いつ朱莉を解放し、帰してしまったのか分からなかった。朝起きたら家には1人しかおらず、キッチンには置き手紙と共にたくさんの料理がタッパーに詰められていた。全部ちょっとだけつまんで、冷蔵庫に入れた。
休み明けの月曜日。朱莉の目が合わないことに、俺は内心ほくそ笑んだ。意識していることが明白だったからだ。
だから、覚えてないフリをした。そうすれば自分ばっかり覚えてるなんて悔しいと、もっと俺に意識が向くと思った。そして、チーズケーキをダシにしてデートにこぎ着けたわけだ。
ついでに言うと、後ろから姉貴が追ってきているというのも、真っ赤な嘘である。周りからはデート中のカップルだとしか見えないだろう。
「あ、そういえば慧斗んち、肉ばっかで魚がなかった。ちゃんと魚も食べなよ」
イワシの大群を見て、朱莉は俺にそう言った。魚……言われてみればあんまり食べてないな。
「じゃあ、今日の夜、作ってよ」
「……焼き、煮付け、ムニエル、刺身。どれがいい?」
「んー、煮付け」
「分かった。帰りにスーパー寄って帰ろ」
「うん」
観賞用の魚の前でする話ではないが、朱莉はテンションが上がっているのか、普通に頷いた。あ、うちに来て作ってくれるんだ。
朱莉の部屋のベッドでキスした時も思ったけど、この人は危機感というか、警戒心というものを持っていないのだろうか。男の家に、ましてや4回も無断でキスする後輩の家に、なんの疑問もなく上がり込むのはいかがなものか。もしかして忘れてるのか? だとしたら相当なアホということになるぞ。俺的には全然いいけど。
それにしても、4回も無断で唇を奪っているというのに、なぜ何も言わないんだろう。言わないのをいいことに、してる部分もあるけど。怒ったり聞いてきたりするもんだと思っていたので、普通に接してくることに俺は疑問を抱いていた。だからといってこっちから「キスした件だけど」と話題にするつもりは毛頭ないけど。
まぁ、俺のことはなんとも思ってないということなのだろう。
「ねぇ、イルカショー観たい」
「いいけど」
「やった!」
5歳児かよ。俺の朱莉メモに『魚を前にすると幼児化する』と書き込んだ。
前に行くと濡れるので、真ん中あたりの席にしようかと言ったら、「水族館は子どもが主役だから、一番後ろでいいよ。なんなら立ち見でいい」と言うので、一番後ろで立ち見をすることにした。子どもが主役って。今は朱莉も子どもだけど。これは優しさなのか遠慮しいなのか判別がつかない。
えらく遠いイルカを、朱莉は目を輝かせて観ていた。イルカがジャンプして吊るされたボールに鼻先を付けると「おお~!」と拍手し、ショーの最後に両ヒレを振るイルカに「バイバーイ!」と手を振り返す。仕事している時の朱莉とは大違いで、この姿は俺にしか見せて欲しくないなと思ってしまう。日に日に独占欲が増していくのは、自分でも怖いなと思うけど、好きだから仕方ないよな、と開き直る。
「あー楽しかった! イルカ、可愛かったね」
「うん」
水族館に来て、すでに3時間が経過していた。時刻は午後4時半。端から端まで魚を堪能したので、そろそろ帰ろうかと水族館を出た。
「久しぶりに水族館に来たら結構楽しいもんだね。ありがとう、連れてきてくれて」
「いや、別に。朱莉が楽しかったなら、それでいい」
すると朱莉は、口元に手を当てて内緒話する仕草をした。思わず身をかがめる。
「麻里子さん、まだ付いて来てる?」
「…………うん、まだいる」
危ない。自分で付与した設定を完全に忘れていた。存在しない監視の目を気にして、朱莉はなおも小声で言う。
「手、繋いどく?」
「……うん」
驚いた。自ら率先してそんなことを言ってくるなんて。魚マジックすごいな。
はい、と差し出された手をゆっくりと握った。この人の手は俺の手よりも小さくて温かい。握りつぶしてしまわないように、でも離れないように、少しだけ力を入れて握った。
時刻は午後6時半。途中スーパーに寄って、魚やら野菜やらを購入してマンションに帰ってきた。なんの
「エプロン忘れた」
「エプロン?」
「うん。料理するときはエプロン必須女なの。前もこの家でご飯作ってるときに思ったんだけど、すっかり忘れてた」
それはまるで、これからもここで料理してくれるような口ぶりだったので、俺は反応が遅れてしまった。本当に今日はどうしたのだろう。何かいいことでもあったのか。
「姉貴のエプロンがどっかにある」
ようやくそれだけ言うと、朱莉はハッとした顔になった。
「ちょっと。もう麻里子さんいないんだから、偽カップルは終わりでしょ」
「近くに住んでるから、いつ来るか分かんないよ」
「来たらでいいでしょ。ほら、先輩後輩なんだから敬語使って」
我に返った朱莉は、突然距離を取り始めた。ちぇ、今日は1日中恋人気分を味わえるかと思ったのに。
「分かりました」
渋々頷くと、「あんたもキッチンに立ちなさい」と手伝わされる羽目になった。
「岡田くんは一生麻里子さんに、おんぶにだっこしてもらうつもりなの?」
「それもいいかもしれません」
「麻里子さんだって結婚するかもしれないでしょ」
「……あの人、すでに人妻ですよ」
「えっ! 嘘! 結婚してるのに弟の面倒まで見てるの⁉ タフだな!」
「旦那に弟と結婚すればって言われたと聞きました」
「……岡田くん、自立しな。料理は教えてあげるから」
朱莉はなぜか俺は何もできないと思っているらしい。多分冷蔵庫の中身が原因だろう。でも面白いから訂正しない。どうせすぐ分かるし。
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