鈍感先輩と水族館デート

第27話

「慧斗! ほら、スズキだよ! ムニエルが美味しいんだよ!」


 同じ会社の先輩で、今は偽彼女の相生朱莉を水族館に連れて行くと、想像以上のはしゃぎぶりを発揮した。あんなに名前を呼ぶことに抵抗があったくせに、魚に意識が行き過ぎて自然と俺の名前を呼んでいることに気付かない彼女に、俺は思わず苦笑する。


「あ、イサキもいる! これは煮付けにしたら美味しいんだよ」


 水族館の楽しみ方としては普通の人とは違う気がするし、飼育員さんが聞いたら泣く気がするが、楽しそうなので良いと思うことにした。


「この魚は?」

「これは食べられない」

「ふーん」


 あ、この魚はねぇ、とガラス張りの水槽に両手をくっつけ力説するこの人に、俺は3つの嘘をついている。


 まず、結婚願望が無いという嘘。


 次に姉貴と血が繋がっていないという嘘。


 そして4度目のキスは覚えていないという嘘。


 第一に、結婚願望は大いにある。朱莉と結婚したいがために、同じ会社の同じ部署に入社してきたと言っても過言ではない。


 朱莉を知ったのは大学3年生の夏。就活シーズンで合同説明会に足を運んだ時だ。自分の将来について全く考えていなかった俺は、どこの企業も適当に聞いて帰ろうとしていた。


「あれ、キミ暇そうだね。どこの企業も興味ないならうちの会社の説明聞いていきなよ」


 そう話しかけてきたのは、猫本建設工業のパンフレットを持った小柄な女──相生朱莉だった。


 全く興味は無かったが、猫本ねこもとという珍しい名前の会社に、説明だけ聞いてくかとブースの椅子に座った。俺のほかにも何人かいて、近くで朱莉が色んな学生に声を掛けていた。


「相生さん、そろそろ始めようか」

「ちょっと待ってください佐野さん! あと2人勧誘します!」


 長袖のカッターシャツを丁寧に折り曲げている佐野と呼ばれた人は、朱莉の言動に苦笑していた。


「朱莉、もういいよ」


 佐野の隣にもう1人女の人がいて声を上げるが、「まぁまぁ。相生さん、この説明会の担当で張り切ってるから、彼女の好きなようにやらせてあげようよ」と佐野がなだめていた。


 今まで見てきた企業の中で、一番仕事がしやすそうだな、と感じた。なぜかは分からない。2人が朱莉を温かく見守っている様子が、なんかいいなと思った。


「えー、本日はお集まりいただき、ありがとうございます」


 用意された椅子を満席にし朱莉は前に立ったが、人前は得意でないのか目を泳がせながら、後ろのスクリーンに映る文字を指差し棒で追って読み上げる。


「弊社は営業部や技術部、広報部など多岐にわたる部署があります。全部署募集中です! ちなみに我が総務部も1人だけ採用予定なので、よかったらいかがでしょう?」


 そう言って朱莉は、我が総務部は縁の下の力持ちだというアピールをし始めた。


 なぜだか俺はその説明に吸い込まれた。いや、説明がよかったというより、説明する人に目がいったのだ。他の2人に微笑みを向けられるほど信頼と安心がある人。


 多分、一目惚れだったんだと思う。確証はないが、身振り手振りを交え、小さな体を大きくしながら説明する朱莉と一緒に働きたい、とその時強く思った。


 晴れて無事に一緒に働けることになったが、一生懸命話しかけてくれる朱莉に対して、俺は無愛想な態度しか取れなかった。憧れの人を前にすると、緊張して何も喋れなくなる、そんな感じ。


 元々無愛想ではあったが、朱莉を前にすると拍車がかかった。それでも諦めずに俺と仲良くしてくれようとする姿に、この人と結婚したら楽しいだろうな、なんて思い始めていた。


 第二に、姉貴と血が繋がっていないという話は、姉貴から提案された作り話だった。姉貴がブラコンなのは本当で、マンションも就職祝いに買ってくれるほど俺は愛されていた。


 そもそも見合い話は本当にあって、駅の改札前で姉貴と言い争いをした内容がそれだった。俺は断固として拒否したが、姉貴がなかなか食い下がらない。その時通りかかったのが、朱莉だった。


 チャンスだと思った。これを逃したら人生を棒に振るのと同じだと一瞬で判断して、「俺の彼女」と言って見せつけるためにキスをした。


 その後の反応を見て、最初からこうすればよかったのだと気付いた。多少強引でなければ、この人は落とせない。


 それからすぐ、姉貴を味方に付けた。好きな人なんだ、と打ち明けるとお姉ちゃんに任せなさいと言って偽彼女役やってもらえば? と提案してきた。ああいう子は後輩が困ってたら自分が解決してあげようとするタイプだと思うから、そこから押していけば多分大丈夫だと思う、と言っていた。姉貴に恋愛相談するなんて俺も大概シスコンである。


 今まで姉貴に任せて上手くいった出来事は多々あった。例えば、幼稚園の頃近所の悪ガキどもと喧嘩をして、それを姉貴に言うと、翌日から悪ガキどもは俺に近付かなくなったり、財布か何かを失くした時、あらゆる情報網を使って見つけ出してくれたりと、裏で何をしているのか分からないが、大抵は解決するのだ。


 で、話を戻して、俺の家で朱莉と姉貴が会った時、すでに姉貴はカップルを演じていることは知っていて、共犯だった。


 さらには、俺と姉貴は血が繋がっていない姉弟きょうだいだという設定にして、同情から気を引かせようとした。橋の下で拾ったことにしようか、という話も出たが、あまりにも現実離れしている気がして、却下した。結局母親は死んで、DVの父親から逃げてきて姉貴家族に保護された設定になった。ちなみに俺と姉貴はちゃんと血が繋がっていて、母も生きていて父は穏やかな人だ。


 それで、割となさそうでありそうな保護話を姉貴が朱莉にした翌日、まさか「偽装カップルやめよう」と言われると思ってなくて、正直焦った。


「愛してくれてるお姉さんを騙せない」なんて言ってくれるもんだから、ああ、この割と大きい嘘は早いうちに打ち明けないとな、と思った。そして咄嗟にチーズケーキで釣ったのだ。


 第三に、まさかの大熱である。しかも総務部3人での飲み会の日。まぁ、さすがに風邪で寝込んでる後輩を差し置いて2人で飲みに行くことはないとだろうと思っていたが、念のためと思って朱莉をうちに来させようとメッセージを送った。


『たすけて』


 こう送ればすっ飛んでくると思ったのに。なかなか既読にならない。午後6時半。定時は過ぎている。もしかして俺がいなかったから仕事が捌ききれず残業しているのでは。


 そうこう返事を待っているうちに、1時間経過し、2時間が経過し、俺の体温はますます上がっていった。


 あんなに高熱出したのは、覚えている人生の中で初めてだった。急に不安になる。時計の秒針を刻む音だけが響く部屋に独りぼっち。もしかしてこのまま誰にも気付かれずに……などとらしくない恐怖が俺を襲う。

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