第25話

「土曜日の夜は本当にありがとうございました」


 月曜日の朝。顔色がよくなった黒縁眼鏡の岡田くんは、出社するや否や、わたしに深々と頭を下げた。


「ううん。元気になってよかった」

「ご飯もありがとうございました。とても美味しかったです」

「ううん。食べてもらえてよかった」


 ニコニコと笑顔で応対する。が。


「……朱莉さん」

「うん?」

「目が合わない気がするんですが」

「え?」


 顔は岡田くんの方へ向けていたのだが、わたしの目は岡田くんの奥にある、出入り口付近の経理部の一角を映していた。無意識に合わせられないのではない。意図して目を合わせないのである。


 酔っているからおかしな思考回路になっていると結論付けた翌日日曜日。目を覚ましたわたしは酔いも醒め、改めて岡田くんについて考えることにした。


 1回目のキスは改札前の外。2回目のキスはわたしの部屋のベッド。3回目のキスは書庫で、4回目は……


 思い出されるのはキスされた場面と感触だった。それ以外の岡田くんはあまり出てこない。え、なんで。わたしまだ酔ってるの?


 結局、わたしは一人で考えることを早急に諦め、優子に泣きついた。休日だというのに先週に引き続きすぐうちに来てくれた優子は、わたしの話を聞くや否や、憤慨した。


「なんで佐野部長と2人で飲みに行ってんのよ!」


 土曜の夜の出来事を、終業後から全部話したため、聞いて欲しいことはそれではなかったのに、随分と佐野部長の話を根掘り葉掘り聞かれた。佐野部長に妹認定された話をすると「妹? 彼女じゃないなら興味ない」と言われ、いつか佐野部長から直接聞いた好みのタイプを教えてあげると、「あたしやれば出来るのよ」と胸を張っていた。じゃあキャリーバッグに1泊分の荷物詰めて晩御飯と寝床をたかりに来るなよ。


 で、岡田くんの家族構成から高熱の看病まで事細かに話したのに、最終的に言われた一言は「相手は高熱、あんたは酔っ払い。事故だ事故」だった。なるほど事故ならキスしても仕方ないね、とはならない。ならないのですよ優子さん。結局解決せぬまま、月曜日の今を迎えたのである。


 顔を見れば確実に唇に目がいって、変に意識してしまうのでなるべく視界に入れないようにしていた。


「あの、朱莉さん」

「はい?」

「俺、もしかして何かしました? 正直、あんまり記憶がないんですけど」

「え」


 まさかの発言に、普通に目を合わせてしまった。数回瞬きをする。


 わたしは忘れられない感触を与えられたというのに、この後輩は記憶にないだと? そんな仕打ちある?


「朱莉さんが雑炊を食べさせてくださったことは何となく覚えてるんですけど、その後のことは覚えてなくて」


 雑炊を食べさせた後といえば『口移しで薬を飲ませろ』発言と4度目のキス事件だ。あ、覚えてないんだ。そうかそうか。


『相手は高熱、あんたは酔っ払い。事故だ事故』


 優子の言っていたことは正しかった。あれは完全に事故だったのだ。


 そうと分かった瞬間、なんだかモヤっとした。よく分からないけど、腑に落ちない。でも、覚えてないならそれでいいとも思った。もう、いい。


「大人しく薬飲んで寝てたよ」


 そう伝えると、岡田くんは「そうですか」と安堵した様子だった。


 もう、忘れよう。わたしの特技を生かさないと。


「そういえば、hitotoseのチーズケーキの件ですが、今週の土曜日に一緒に買いに行きません? 看病のお礼も兼ねて」


 hitotoseのチーズケーキ。フワフワで口に入れた瞬間に溶ける魔法のケーキ。想像しただけでよだれが出る。


 単純なわたしは、その魔法の一言でモヤモヤはどこかへ飛んでいった。満面の笑みで頷く。


「行こう!」



***




「晴れてよかったですね」


 7月に入って最初の土曜日。駅前に午前10時に待ち合わせたわたしと岡田くんは、5分前に落ち合った。


 ここ最近は梅雨だからか雨や曇り空が続いていて晴れ間は見ていなかったが、今日は久々の快晴だ。最高気温は25度らしい。夏日だ。


「そうだね。じゃあ、行こうか」


 待ち合わせ時間が朝10時と早いのは、行列必須のhitotoseに並ぶためなので問題はないが、2人で来る必要があったのだろうかと、落ち合ってから思った。1人で買ってきてもらってうちに届けに来てもらえば良かった気がする。まぁ買ってもらう身なので文句は言えないけれど。


 隣を並んで歩く岡田くんは、白いTシャツにブルー系のストライプシャツをアウター風に羽織り、袖を捲っている。下は紺色のスラックス……控えめに言って爽やか系でカッコいい。のに、無表情なのが全部を台無しにしている気がする。イケメンなのにもったいないな。


 対するわたしはボーダーTシャツにネイビーのマウンテンパーカーを羽織り、下は白くてひだ数の多いロングスカートだ。


 hitotoseに一緒に行くだけなのに、なぜか家で一人ファッションショーを開催してしまった。アレでもないコレでもないとスカートやらジーンズやら合わせまくって、それだけで疲れた。でもなんとなく楽しみだったのは、やはりチーズケーキが待っているからだろう。鼻歌まで出そうだ。


 駅前から歩くこと3分。白い看板に筆記体で『hitotose』と描かれた洋菓子店が見えてきた。人気店とだけあって、やはり列ができている。20人はいるだろうか。


「結構いますね」

「うん。うわー楽しみ!」


 簡単に手に入らないものほど欲しくなる。わたしの胸はワクワクで高まった。


 最後尾に並ぶと、前に手を繋いだカップル、後ろに男の人が女の人の肩を抱いたカップルが並んだ。本物のカップルに挟まれたわたしたち偽物カップル。いや、でも今日は会社の先輩後輩として来たのか。そもそもなんで来たんだっけ。あ、そうか、偽装カップルを続けるために差し出されたチーズケーキを買いに来たのか……


 と、1人で色々考えていると、突然岡田くんの指がわたしの指に絡みついてきた。所謂恋人繋ぎ。


 驚いて顔を上げると、耳元で囁かれた。


「3つ後ろに姉貴がいる」


 え、麻里子さん? 振り向こうとしたら、空いている方の手でほっぺたを掴まれて阻止された。


「サングラスとかで変装してるから、多分尾行されてる。このまま気付かないフリして付いて来させよう」

「え」

「まだ俺たちの関係が疑われてるみたい。これからチーズケーキ買うんだから、恋人役、やってくれるんでしょ?」


 やってくれるもなにも、あんたすでにタメ口じゃないの。


 ふと手元を見れば、わたしと岡田くんの互い違いに組まれた指が目に入る。なぜだかそれにひどく緊張して、コクコクと2度頷くので精一杯だった。恋人繋ぎとか、何年ぶりよ? 


 少し温度の低い岡田くんの手はわたしよりも大きくて、手を繋ぐという行為自体久しぶりすぎて落ち着かない。全神経が繋がれた手に注がれて、ドクドクと血液が手だけに流れているような気がした。うわ、緊張してるのバレるかな。

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