第24話

「バカ言わないの。風邪うつったらどうしてくれんのよ」


 わたしは薬と水を岡田くんの手に握らせた。しばらく不服そうにそれらを見ていたが、しんどいのが勝ったのか、薬を飲んだ。


「もうソファじゃなくでベッドで寝て。明日休みだからゆっくりしなよ」

「……はい」


 今度は大人しく寝室へ向かった。パタン、とドアの閉まる音がしてから、わたしは両手で顔を覆ってしゃがみ込んだ。


 うわぁぁぁぁぁっ! またキスされるかと思ったぁぁぁぁぁっ! 


 過去3回のキスを思い出す……


 いやいやいやいや。忘れたのに思い出すなよ朱莉。3回とも柔らかかったなんて、覚えてない……覚えてない!


 記憶を外に振り払おうと小刻みに頭を振る。あ、お酒飲んだんだった。少し目眩がする。


 それにしても今日の岡田くん……可愛かった。


 口移し云々の件は置いといて、素直に着替えたり、あーんではあったが雑炊を食べたり、ベッドに行ってくれたりしたことが、今まで見た事のない岡田くんで、年下だということも相まって普通に可愛かった。


『美味しい』なんて微笑んだ時の顔! 写真撮っとけばよかった。


「ふぅ。片付けて帰るか」


 悶え終わって少し冷静さを取り戻したわたしは、雑炊の鍋とその他の食器を洗うことにした。


 お皿洗いは好きだ。自分の気持ちまで洗い流すみたいで、スッキリする。


 無駄に広いリビングキッチンに、カチャカチャとお皿が重なる音が響く。静かだな……岡田くんはいつもこの空間に1人でいるのか。



 ひとり暮らしなのはわたしも一緒だけど、うちは1Kなので部屋は1つしかない。アパートであるため、隣の人が洗濯機を回した音や、上の人が足音を鳴らしながらドタドタ歩く音など丸聞こえだ。分譲マンションのここは、不気味なくらい静かで、独りぼっちであることを自覚させられる気がする。


 ここで大熱を出して1人で苦しい思いをしていたら、そりゃ寂しいよな。『たすけて』って言いたくなる気持ちも分かるわ。


 それなのにわたしは、岡田くんがいない方が都合がいいからなんて、佐野部長と2人で楽しく飲んでしまった。


 麻里子さんから岡田くんの過去を聞いていたにもかかわらず、わたしには荷が重いからと言って、偽カップルをやめようと言ったのに、岡田くんはまだわたしを頼ってくれた(チーズケーキで買収されたけど)。


 それならばわたしは、全うするまで。


 皿洗いを終えて、ひとり暮らしにはそぐわない、ファミリー向けの大きな冷蔵庫の中を見た。


 卵、こんにゃく、豆腐、ウィンナー。野菜室にキャベツ、きゅうり、ニンジン、玉ねぎ。冷凍室に豚バラ、豚ひき肉、鶏もも肉。


 多分だけど、お姉さんが冷凍とかしてくれてるんだろう。お肉に至っては密閉袋に日付と肉の種類が書いてある。岡田くんがこんなことするとは思えない。


 広いキッチンの空いたスペースに食材を並べてしばらく考える。これとこれをこうして、あれとあれをああして。


 よし、やるか。わたしは包丁とまな板を取り出して、食材を切り始めた。


 ニンジンを短冊切りしていると、足元に何かが当たった。下を向くと、円形のロボット掃除機が徘徊していた。おお、すげぇ。初めて生で見た。


 掃除はこの子に任せておけば大丈夫そうだ。わたしは料理に集中した。


 豚肉とニンジンと玉ねぎの甘辛炒め、ウィンナーの野菜炒め、こんにゃくと玉ねぎの生姜焼き、豆腐とひき肉のとろみ煮、照り焼きチキン、きゅうりの浅漬け、だし巻き玉子。全部で七品。


 未開封だったタッパーを勝手に開けて使用させてもらった。ふぅ。中々の出来栄え。


 さて帰るかな、とスマホの時間を見て、ギョッとした。日付変わって0時20分。終電まであと10分。


 ヤバ、集中しすぎて時間の存在を忘れていた! 慌てて『冷めたら冷蔵庫に入れて2、3日で食べてください 朱莉』とメモに走り書きして、カバンを引っ掴み寝室をノックした。


「岡田くん、わたし帰るね!」


 返事はない。多分寝ているんだと思うけど、一応生きているかだけ確認しようとそっと中入って、ベッドサイドへ近付く。


 相変わらずしんどそうな顔をしていたが、掛け布団が上下しているので生きていることは確認できた。よかった。


 最後におでこに貼った冷却ジェルシートを貼り替えて帰ろうと手を伸ばすと、岡田くんの目が微かに開いた。


「あ、ごめん、起こしちゃった?」

「……朱莉さん?」

「うん。そろそろ帰るね。あ、冷蔵庫に入ってたあまりもので色々作ってるから、明日から食べて。勝手に漁ってごめんね」


 言いながら冷却ジェルシートを剥がして、新しいものと交換する。冷たかったのか、岡田くんは微かに眉をひそめた。


「……なんで帰るの」

「なんでって……ここにいてもしょうがないし、終電があるから」


 じゃあねお大事に、と手を振ると岡田くんは手を伸ばし、わたしの手首を掴んだ。


「ヤダ。ここにいて……」


 掠れた声で懇願された。え。無い胸がキュンと疼く。母性本能がくすぐられる言動に、わたしの思考回路は混線した。


 ちょっとちょっと、5歳児ですか。わたしの岡田くんメモに『高熱が出ると幼児化する』と書き込んだ。可愛いかよ。


 思わず掴まれていない方の手で頭を撫でようと手を伸ばすと、その手も掴まれてしまった。その両手は熱い。


「ちょっと、岡田く……わっ!」


 身動きが出来なくなった両手首をグイっと引っ張られ、そのまま前のめりに倒れてしまった。そこはもう、岡田くんの腕の中なわけで。


「朱莉」


 離れようとする前に、4回目のキスをされた。今までで一番長いキス。


 息の仕方が分からない。吸ったまま吐けない空気は肺に溜まり、息苦しくなる。どうしたらいいのか分からない。


 身をよじって訴えようとしたところで、急に岡田くんの力が抜け、唇も身体も解放された。


 引きずり込まれたベッドから、勢いよく遠ざかる。肩で息をするわたしとは対照的に、岡田くんは小さな寝息を立てて眠っていた。


 わたしは一刻も早くこの空間から脱出せねば、と岡田くんの家を飛び出した。エレベーターのボタンも連打してマンションの敷地から出る。


『あんた、隙見せたら喰われるよ』


 競歩選手並みの早歩きで駅に向かいながら、いつか優子が忠告してくれた言葉を思い出した。


 違うんです優子さん。隙を見せたのではありません。油断したのです。弱っているからといって完全に油断した。熱が出ていても男の子なのだ。性別の概念を失念していた。


 身体が熱い。風邪をうつされたのではないかと錯覚しそうになるくらい熱い。


 どうしよう、もう完全に覚えてしまった。長く触れ合った唇を指でなぞる。


『キスされて、嫌だった?』


 再び優子の声が聞こえた。あの時は『分からない』と答えたが、今は違う答えが出る。


 嫌じゃ、なかった。


 ──それじゃあ、セクハラで訴えることは出来ないね。


 優子の声なのか自分の声なのか、はたまた岡田くんか佐野部長か。誰でもない声がどこからか聞こえた。


 いや。問題はそこではない。どうして許可なくキスされて嫌じゃなかったのか。


 岡田くんは会社の後輩で、お見合いをしたくないがためにお互いに偽カップルを演じて家族を欺き、麻里子さんから血が繋がっていない姉弟だと聞いて、偽カップルやめようと提案したけどhitotoseのチーズケーキで買収されて、優子は佐野部長が好きで、佐野部長はわたしを妹のように思ってくれてて……ってあれ。思考がまとまらない。色んな人の顔が浮かんでくる。


 早歩きしながら目線を上げると、暗がりの夜空に白い三日月が浮かんでいるのが見えた。


 そこでようやく気が付いた。あ、そうか。わたし、酔ってるんだ。なるほど、だからおかしな思考回路になっているのか。自分で納得して大いに頷いた。

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