無愛想後輩の甘え方

第21話

それから特にカップルを演じる場面はなく、わたしと岡田くんは猫本建設工業㈱本社経営管理部総務部の先輩後輩という位置に落ち着いていた。演じなければ非常に平和である。


 お互いにキスについて触れることも無い。


 そして総務部3人での飲み会の土曜日。いつもなら始業時間10分前には自分の席に座っている岡田くんが、5分前になっても来ていなかった。電車の遅延でもあったかな?


「おはよう、相生さん」


 たくさん書類を抱えた佐野部長が爽やかな笑顔でやって来た。それでも岡田くんの姿はない。


「おはようございます、佐野部長。あの、岡田くんは……?」

「ああ、さっき連絡があってね、風邪ひいたから休むって」


 岡田くんが風邪? 今の時期に? 寒くもなく暑くもない、比較的過ごしやすい気温で風邪?


 申し訳ないがにわかには信じがたかった。ただのサボりでは、なんて可愛げのない皮肉が頭を掠める。まぁ割と真面目だからそれはないか。


「俺、今日ずっとデスクにいるから、何かあったら声掛けて」

「はい、ありがとうございます」


 いつも右隣に感じていた人影が無いというだけで、割と寂しいもんだな。


 けれどもそう感じたのは朝の30分ほどだけで、さすがに1人となると結構忙しかった。部長の手も借りながら、なんとか定時までに仕事を終わらせる目処がついた。その頃にはすっかり右隣が空席だったことは忘れており、ようやく帰る頃になって思い出した。大丈夫かな、と少し心配になる。


 ま、若いから大丈夫だろう。


「相生さん、今日の総務部懇親会だけど、また今度にしようか。元々岡田くんがメインのところもあったし、本人いないんじゃあ、ね」

「そうですね。でも、予約とかしてくださってたんじゃないですか?」

「あ、そうだ。キャンセルしなきゃ……」


 佐野部長がスマホを取り出して電話を掛けようとしたので、わたしは勢いよく手を挙げた。


「待ってください。せっかくなんで、2人で行きませんか?」

「え?」


 突然の誘いに、佐野部長が目を丸くした。わたしは佐野部長の愚痴を、前々から聞きたいと思っていたので、逆に岡田くんが休んでくれてよかったと思った。非常に申し訳ないけど。


「なんならわたしの奢りでも良いので、一緒に飲んでください」


 もはや懇願した。頼むからわたしと飲みに行ってくれ。そして佐野部長の愚痴を聞かせてくれ。


 部長は頭に手を当てて、困ったように笑った。


「いや、俺が奢る。相生さんがよければ、一緒に飲もう」


 わたしは笑顔で答えた。


「もちろんです!」



***



 部長が予約してくれていたのは、魚蔵屋うおくらやだった。岡田くんと偽装カップルについて話し合った居酒屋だ。土曜日とだけあって、店内はどんちゃん騒ぎだった。


 お互いに生ビールを頼んで乾杯する。


「いやー、やっぱりお店のビールは家で飲むより美味しいね」

「毎日家で飲むんですか?」

「そうだね。缶ビールだけど、1本は飲むね」

「へぇ、なんか意外です」


 滑り出しは順調だ。この調子で佐野部長の裏の顔を引き出していこう。


「ここの刺身も美味いんだよなぁ」


 お造り4種盛りを食べながら部長は相好を崩す。わたしも同じように刺身を口に運ぶ。


「そういえば、この間作ってくれたお弁当、本当に美味しかった。ありがとう」

「もう、部長。お礼は聞き飽きたって言ったじゃないですか。やめてください、あれだけのことでそんなにお礼言うの」

「あれだけのことじゃないよ。俺にとってどれだけ嬉しかったことか。一生言い続けるから」


 いやマジでやめてください。普通に照れる。って、照れている場合ではない。わたしの目的を果たさねば帰れない。思い切って率直に聞いてみた。


「佐野部長は、仕事とかプライベートで愚痴をこぼせる人がいますか?」


 あ、遠回しに友だちいますかって聞いてるなこれ。切り口に失敗してしまった気がするが、口にしたものはしょうがない。ニコニコして返事を待った。


「愚痴? うーん、そうだなぁ。同期がいるけど、基本俺が聞き役だしなぁ。それに、愚痴りたいほど不満もないしね」


 なんと。まさかの愚痴ることが無いという、仏のような人種だった。絶滅危惧種に加えて天然記念物だ。早急に保護しなくては。


「ダメですよ、佐野部長! 嫌なことは嫌だと言わないと! ほら、この相生朱莉にドーンと愚痴をこぼしてください!」


 無い胸を張って受け止める仕草をした。佐野部長はあっけに取られている。


「どうしたの相生さん。もしかしてひと口で酔った?」

「まさか! わたし酒豪ですよ! 違うんです。佐野部長っていつも元気で愚痴とかこぼさないから、わたしには愚痴ってくれたり、弱いところ見せてくれてもいいのになぁって思って……」


 早くも白状してしまった。お酒も入ってるし、回りくどいのが面倒になった。それを聞いた佐野部長は「えー」と目を細くした。


「俺、ちゃんと相生さんに愚痴こぼしたよ? 岡田くんのことで」


 そう言われてわたしは目を宙に漂わせた。岡田くんのことで……?


「ほら、履歴書処分のために書庫に行こうとした相生さんに……」


 そこまで言われてようやく思い出した。佐野部長に履歴書処分だと嘘をついて、自分の履歴書をコピーしに行った時だ。


『俺もあんまり岡田くんとコミュニケーション取れてないからさ、ちょっと不安なんだよね。距離があるっていうの? 今度、飯にでも誘ってみようかな』


 あの時確かに部長は不安だと言った。まさかあれが愚痴だったなんて! 誰が気付くんだ。

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