第20話

翌日、水曜日。わたしは佐野部長に5階の書庫に行ってきます、と断って岡田くんを連れ出した。紙とインクの匂いが充満する部屋に2人で入る。


「書庫の仕事は前に教えてもらいましたけど」


 無表情の後輩は目線だけ部屋に走らせる。背の高い彼を見上げると、昨日麻里子さんから聞かされた壮絶な過去が頭をよぎって、泣きそうになった。いかんいかん。同情するなら金をくれと言われそうなので、軽く頭を振って「偽装カップルの件なんだけど」と切り出した。


「もう、やめにしない?」

「どうしてですか」

「岡田くんのことを心の底から愛してるお姉さんたちを騙し続けることなんてできない」


 昨日麻里子さんから岡田くんとの関係を聞かされたことは言わないことにした。あの話は本人の口から聞かないといけない気がしたのだ。隠しているということは、まだ完全にわたしに心を開いていないということで、所詮仕事の先輩後輩という関係でしかない。


「今別れたなんて言ったら、即刻お見合いさせられるので、嫌です」

「でも……」

「朱莉さんだってお見合いしたくないんでしょう?」

「それはそうだけど……」


 保っていた距離が静かに詰められる。後ずさりすれば、壁際に追いやられて逃げられないようにされるかもしれない。わたしは両足に力を入れた。


「……それとも結婚したいと思える人に出会ったんですか?」


 心なしか寂寥せきりょうを感じさせるトーンで言うので、少しドキッとした。何を言っているのか。


「そんなわけない」

「それならあと少しで良いので、俺の彼女役やってください」


 ほんの一瞬だけ、岡田くんの眉尻が下がった。後輩がわたしに助けを求めている。


 あと少しってどのくらい? 1週間? 1ヶ月? 


 わたしも葛藤していた。


 お見合いをしたくない気持ちも、結婚願望が無い気持ちも、痛いほどよく分かる。でも、同時に岡田くんのご家族を騙し続けることも辛いのだ。岡田くんの境遇を聞けばなおさら辛い。うう、どうしたらいいんだ……


 頭を抱えたわたしに、岡田くんは言った。


「hitotoseのチーズケーキ、ワンホールでどうですか」

「いいでしょう、偽装カップル続けましょう」


 麻里子さん、ご両親すみません。相生朱莉(28)、あなた方の弟及び息子にチーズケーキで買収されました。


 もう少しだけ騙されてください。


 さっきの寂寥感はどこへやら。微かにほくそ笑んだ岡田くんは「よろしくお願いします」とわたしを見下ろした。


 2人で話したかっただけなので、もう書庫に用はない。じゃあ帰るか、とドアに手をかけたその時。


 カサカサカサっ。


 嫌な音がした。途端に寒気がする。確認してはダメだと知りつつも、目がその音の正体を探してしまった。


 足元にいたのは長い触覚を振りまわし、周囲の状況を確認している茶色いヤツ。


「ギィヤアアアアアアアアアアっ!!!!!」


 我を忘れるとはまさしくこのことで、わたしは近くにいた岡田くんの腕にしがみついた。


「びっくりした……」


 彼は叫んだわたしに驚いている様子で、「どうしたんですか」などとのん気に聞いてきた。わたしはその名前を言うのも嫌すぎて、岡田くんの腕にしがみついたまま「アイツ無理ぃぃぃ」と指で差す。もちろん、顔はそいつに向けない。


 岡田くんは相変わらずの無表情で、というかポーカーフェイスで「ああ、ゴキブリ」と平然と言ってのけた。お坊ちゃんのくせして虫は平気なのか。


「あ、こっち来ますよ」


 あろうことかヤツの動向を実況し始めたので、わたしは再び叫ぶ羽目になった。


「いやあああああぁぁっ!!!!! ムリムリムリムリなんとかしてぇぇぇぇっ!!!!!」


 小学校低学年までは虫を触ることに抵抗はなく、カタツムリとかカブトムシの幼虫とか捕まえては家で飼っていた。それがいつからか見るのもダメになり、触るのなんてもってのほかになった。特に羽の生えた飛ぶ虫はマジで無理で、テントウムシでさえ怖い。


 今居るこの茶色いヤツは飛ぶヤツと飛ばないヤツがいるらしいが、わたしにはそんなことどうでもいい。とにかくコイツは飛ぼうが飛ばまいがわたしには無理なのだ。


「朱莉さんがしがみついてたら駆除できないんですけど」

「そんなこと言われても離れてヤツがこっちに来たらどうすんの⁉」

「俺より朱莉さんの方が好かれてるってことでいいんじゃないですか?」

「今それマジで面白くないから。はっ倒すわよ」

「できるもんならどうぞ」

「もおおおおおおぉぉっ! 意地悪言わないでぇぇぇっ!」

 

 わたしは半泣きで後輩の腕にしがみついて「頼むから片手でなんとかして」と懇願した。無茶なことを言っているのは重々承知している。でも、全身が拒否しているのでどうしようもない。


「あ、見失った」

「噓でしょおおおおぉっ! 野放しはもっと無理だから! ちゃんと探してぇぇぇっ」

「ゴキブリって1匹いたら100匹いるらしいですね。あ、いた」

「いやあああああああぁぁぁぁっ!!!!!」


 自分でもうるさいと分かっている。ヤツ1匹で5歳も下の後輩にしがみついてギャアギャア叫ぶ先輩なんて、鬱陶しいことこの上ない。


 岡田くんは小さくため息をついて「うるさいですよ」とわたしの顎を持ったかと思うと「ちょっと黙ってくれません」と顔を近付けてきた。


「!」


 触れ合った唇は一瞬で、でも何をされたかハッキリ分かって、岡田くんは固まったわたしから離れて何かの書類を掴んだ。バンッと大きな音が響く。


「仕留めましたよ」


 呆然と突っ立ているわたしに、平然と報告をしてくる黒縁眼鏡の後輩。


 いやいやいやいやありがたいけどありがたくない。


「なっ……どっ……」


 なんでどうしてと言いたかったのだが、声にならない。一気に恥ずかしさが込み上げてきて、「すみませんでしたありがとうございました」と早口で言って書庫を出た。


 ちょっと待て。いや、大声でギャーギャー騒いでただけなのが悪いのだけれど、だからって黙らせるためにキ、キキキ、キスする?


 最初にしたのが麻里子さんを騙すため、2度目がお礼として、3度目が黙らせるため。


 ……怖い。あの黒縁眼鏡の後輩はキスをする行為を、息をするのと同じように捉えている。うろたえている自分が馬鹿みたいに思えるほど、自然にキスできるんだ。


 自分の唇にそっと触れる。


 3回トータルで5秒くらいの出来事なので、これならなかったのと同じだ。大丈夫、忘れられる。必殺『忘れる』。

 軽く頬を叩いて、自分の持ち場に戻った。

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