第19話

仕事が終わり、一旦家に帰って再び外出した。待ち合わせに指定されたのは、駅前のコーヒーチェーン店。


 アパレル会社の社長と待ち合わせだということで、滅多に着ないワンピースをクローゼットから引っ張り出した。黒ベースで白の水玉模様の入ったマキシ丈ワンピ。


 店に入ると、お姉さんは窓際のカウンター席に着いていて、物憂げな表情で行き交う人々を見ていた。


  座っていても分かるほど、出るとこ出て引っ込むところ引っ込んでいる身体のライン。ミニスカートから伸びる長い生脚を組み、艶かしい唇でストローを咥えている。ショートカットが良く似合う小さな顔に、大きなピアスが耳からぶら下がっていた。そんな美人に、男女問わず結構な視線が注がれていた。この人の隣に座るの、勇気いるな……体調悪くなったって言って帰ろうかな……


 考えあぐねていると、お姉さんがこちらを向いた。やべ、見つかった。


「朱莉さん、こっち」


 手を挙げて招かれた。同時に周りの視線もわたしに移される。ひえーやめてぇぇ!


「こ、こんばんは」


 わたしは腰を低くして、お姉さんの元へ近寄った。


「お隣どうぞ」


 綺麗なネイルが施された指で勧められた席に腰掛ける。「ピーチティーもどうぞ」とわたしの前にひとつのカップを置いてくださった。セピア色で美味しそう。ありがたく両手でいただく。なんか、すみません。


 ちぅ、といただいたピーチティーを一口吸い上げてなにか話さねば、と口を開いた。


「お姉さん、このピーチティー美味しいです」


 初めて飲む訳でもないのに、飲み物の感想しか出てこなかった。本当に喋るの下手だな、わたし。お姉さんはそんなわたしの落ち込みには気付かず、頬杖をついた。


「それはよかった。あ、麻里子でいいわよ、朱莉さん」


 ニッコリと微笑まれた。弟の岡田くんとは似ても似つかない表情筋だが、自分のことを下の名前で呼ばせようとするあたりは姉弟って感じがする。


「あ、では麻里子さんで……」


 なぜだか緊張する。麻里子さんは自分のストローを指でつまみながら視線を落とした。


「慧くんとは、仲良くやってる?」


 そんなことを訊かれて、今日岡田くんに持たれた顎が急激に熱くなった気がして、咄嗟に手を当てた。


「ええ、まぁ、それなりに、仲良くやってますはい」


 偽カップルなので適当に頷いておく。顎は平熱だったので、手を離した。


 麻里子さんは、ガラスの外を見て、急に声のトーンを落とした。


「こんな話、付き合いたての彼女にするもんじゃないとは思うんだけど……」


 そこで言葉を切って、わたしを見た。


「?」

「わたしと慧くん、本当は血が繋がってないの」


 突然のカミングアウトに、思わず前のめりになった。え、血が繋がってない……? どういうことだろう。話の続きを待っていると、麻里子さんは静かに話し始めた。


「わたしが高校2年生の時、靴も履かずにボロボロのTシャツとズボン姿の慧くんを見かけてね。思わず声を掛けて話を聞いたら『暴力を振るう父親から逃げてきた』って言うの。『お母さんは?』って聞いたら『先月死んだ』って、初めて会った時から無表情だった。


 年齢聞いたら小2だって言うし、家にも帰りたくないって言うから、わたしの家に連れて帰ったの。前からご近所さんが警察や児童相談所に相談してたみたいだけど、忙しいとか何とかで手が回らないって放置してたみたい。命の危険を感じた慧くんは、自分で逃げてきたんだって。身寄りもいないし、これから1人でホームレスとして生きていく、なんて言い出すから、うちで引き取ることにしたの」


 1冊の小説でも読み聞かされているのかと思った。あまりに現実離れした物語に、わたしは二の句が継げない。ニュースで児童虐待とかネグレクトといった用語を耳にしたことは幾度となくあるが、自分には縁のないことだと達観していた。こんな身近に起きていたなんて。自分の無知さに恥ずかしさが込み上げてきた。


「慧くんは甘えたい年頃に虐待を受けたり、母親を亡くしたり、他人に引き取られたりしたから、感情という感情を失くしちゃったみたいで、あんなに無愛想かつ無表情なんだと思う。引き取ってからわたしたち家族みんなで愛情を注いで、心を開いてくれるまで結構時間かかっちゃったけど、やっと本当の家族になれたのよね」


 懐かしむように話す麻里子さんの表情はとても穏やかで、本当に岡田くんのことを愛しているんだな、と思えた。すごいな、と素直に感心する。赤の他人の子どもを引き取って、愛情を注いで立派に育て上げるって並大抵にできることではないだろう。自分の子どもでさえうまく育てられなかったりするのに。


「だからわたし、慧くんは愛されることは知ってるけど、愛することは知らないと思ってたの。朱莉さんっていう、愛する存在が出来て、本当に嬉しいのよ」


 ズキン、と胸の奥が痛んだ。息苦しささえ覚える。麻里子さんは本当に岡田くんを愛していて、それ故に幸せになって欲しいと切実に願っている。それなのにわたしは『結婚したくない同盟』とか言って、易々と偽恋人役を引き受け、麻里子さんを騙している。とてもじゃないけど、目が合わせられない。


「あとあの子、甘え方を知らないから、年上である朱莉さんに甘えさせてあげて欲しいな」

「あ、はい。それは、はい」

「今度両親に会ってよ。2人とも大歓迎してくれるわよ」


 純粋にわたしと岡田くんは恋人であるということを信じている麻里子さんは、無邪気にそんな事を言った。わたしの胸はますます痛む。思わず握りしめた右手を、いつの間にか胸の前に持ってきていた。


 嘘をつくにはかなりの覚悟が必要だったことを、今初めて知った。わたしには純粋な麻里子さんやご両親を欺く覚悟などない。それに、こんなに愛されている岡田くんには、本当の恋愛をして幸せになって欲しいとさえ思った。今ここで実は偽装カップルなんです、と打ち明けようかとも一瞬よぎったが、ピーチティーをいただいた恩義もあるし、もし言ってしまったら今度こそ殺されかねない。偽彼女をやってくれと頼んできたのは岡田くんだったが、了承したのはわたしだ。口が裂けてもわたしの口からは言えない。


「慧斗さんは本当に愛されているんですね」


 そう言うのが精一杯だった。

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